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地方都市その2





ちゅうごくでは、ちべっとで沢山のひとびとがころされました
てんあんもんじけんでも沢山がなくなりました
ぶんかだいかくめいでも沢山のひとびとがしんでしまいました
ちゅうごくのひとはしりません

                        
地方都市のその2としまして、熱河地方を中心に見てまいります。

ちなみに紫で色を塗っております街は、これらを貫く鉄道線路が完成しております。この地図ができたときは未だ繋がっておらず、あとから出来た線路であることがわかります。

熱河省の状態を1933年の満州の新聞記事から。
『 地方移住民の八、九割は農民であって彼等の収獲だけで一家の生計を支えることは出来ないから、種々の労役に服し纔かに其の日を送っている状態である、彼等にとっては生計上の必需品以外は何れも贅沢品で殆ど購買力がないといってもいい、
山岳地帯が多いが、その包蔵せる富源は畜産、鉱山、農業の各方面に亘って夥しい左記は営口商業会議所の調査にかかるものの要約である。
熱河省の経済的事情を見るに現今産業として挙ぐるに足るものは、農業、畜産、鉱山、工業、漁業及び狩猟等であるが、その内漁業及び狩猟は極めて微々たるもので、産業として論ずるの価値少く、鉱山及び工業も未だ尚幼稚の域を脱せず、

一、本来狡猾で貪慾な支那人は常に蒙古人の淳朴につけ込んで彼等に不当の債務を負わさせ、其の弁償の為に彼等唯一の財産である家畜の売却を余儀なくさせ 
二、軍隊が名を警備に借って蒙地に駐屯し、常に無辜の蒙古人を迫害して彼等の家畜を徴発し 
三、支那政府が日露両国勢力の侵入を恐れ極力支那移住民の北進を奨励させておること等 
此等の事情によって農牧混交地帯にある蒙古人は漸次牧畜地帯に去り、牧畜地帯にあるものは外蒙古に向って退くものが多い。 』

清国崩壊後、軍閥らの圧政で国内は混乱、例えば匪賊が横行した、移住者が迫害された、などの事態にいたりました。こちら熱河でも決して平穏ではなく、また人々は貧しかったことがわかります。

錦州
地図には錦としかありませんが、錦州を一枚ほどご紹介いたします。
錦州といえば、なんといっても巨大なラマ塔が有名です。
これは別途、満州風景のページで紹介しておりますので、こちらでは市街地を。
全国展開した満鉄病院の錦州の建物です。
手前、きれいに整地された道路が見えます。

大虎山の駅
地図の右上、青色で塗りました大虎山から左下方向(南西)へ向かって紹介してまいります。

『 一昔前までは名もない寒駅であったが、大通線の分岐駅となってから頓に重要性を帯びてきた。 』
右上の青い○で印をしています。地図では打虎山とあります(地図の記述は右から左へなされていますので注意)。

溝幇子駅
『 奉天から170キロの地点にあり、榮口へ支線が出る 』
南方向へ河北線がのびています。地図の緑色。

平泉
『 熱河の重要都市であって風光明媚のその昔、吉斯汗が病を養ったことで知られる。 』
鉄道も通った街です。特に背の高い建物は見当たりませんが、平原に建物が集まって建っている様子がわかります。
紫色で塗っております溝幇子、朝陽、凌源、古北口へは錦古線という路線が通っておりますが、先の地図では開通前の為、書き込まれていません。

凌源
山間の町で遠くに雪の残る山が見えます。
熱河省立農事試験場が設けられた町でもあります。

熱河(承徳)
承徳駅です。
手前、人力車が2台、待機しています。

ここは鹿の放たれた大きな寺院があるところです。
もともと清の王族の避暑山荘があり、また並んで寺院があったところです。
壮大華麗なラマの廟であったそうです。
しかしながら、清国の崩壊後、中国は荒廃した状態でした。特に軍閥による荒廃はひどく、徹底して行われました。中には国民政府の禁止を無視し、紙幣を濫造するなどした者もいました。
農民への暴力的搾取、そしてこの頃に財宝目当てのラマ寺院の破壊も徹底して行われています。ラマ教徒は、生涯と財産を全て寺院に捧げますので、高価な宝物も寺院にあり、これらを略奪したわけです。
この熱河にあったラマ寺院も例外ではなく、ことごとく破壊されていたそうですが、満州国設立後、観光客も訪れる景勝地となった様です。
駅舎も寺院を意識したデザインとなっています。

承徳・離宮の鹿
遠くにラマ塔がみえます。

熱河宮
 

熱河宮
 

承徳市街地の航空写真
空から見た承徳市街地です。
駅や離宮、池なども見えず、人が住んでいるエリアを撮影したのでしょうか。
背の高い建物は特に見えず、また特に区画の計画もなさそうです。


承徳へ旅行した記録があります。昭和17年の図書に載っていた文章です。
『 馬車を駆って昨夜迎えに来てくれた人と一緒にラマ廟へ出かけた。
土壁と土壁とが迫った曲がりうねった街を抜けると広場で
屯ろした青服たちが様々な食物を売っている。
蒸した甘薯が山の様に盛り上げてある。赤い皮で、くるりと剥けると、黄色いねっとりとした、艶やかな肌。山東あがりで見かける支那いもに似ていた。
山査子の赤い実が生のままでもりあげてあったり、串刺しになったりしている。
市というものは何処で見ても楽しいものである。 』

かつて混乱をしていた承徳も、満州国になってから活気が見られたことがわかります。

承徳  外八廟
では先ほどの旅行記の続きを。
『 私たちはラマ廟を見物。
壁紙は地獄極楽図になっていて、極楽図は私たちが少年自体に街に回ってきた見世物にあったのとさほどかわっているとはみえなかった。
が、地獄図のほうでは、ラマ教の女に対する残忍さを充分見せ付けられた。
女は、みたところでは、生活の主要の基幹となっていただろう、牛や羊よりも下等なものとして待遇されていたのではないか、と思わせた。
の胸から腹へ切り裂いた図、胴体を引き裂いた絵に図面は満ちているのである。しかもそれらの女たちが西洋風な顔立ちや皮膚の色をしている。女たちだけが西洋風なのは不審なことであった。 』
当時の、他の場所のラマ廟でも、同じく地獄図で女性が鬼に裂かれる図画が掲載してあり、やはり金髪で鼻の高い西洋風であったそうです。

壮麗な承徳の大寺廟
『 再び馬車に乗った沿道では、すれ違う青年や子供たちが蒔田さん※に一々挨拶して、笑ってとおっていく。
遠くに浅黄の上着、黒のスカートをつけた女学生達が遠足の帰りなのか、愛国行進曲を歌いながら列をつくって十手居る。近づくと王の字を紋章にしたカーキ色の小学生も混じっていた。蒙古人の新しき時代なのだ。
「随分となついているようですね」
すると蒔田さんは考え深げな眼で笑って
「なかなか」よくやってくれますよ。経費がもっと出るといいんですがね。」
蒔田さんの家の門に着いたので、お茶をすすめられた。
私は壁に張り付いている算術、読み方などと記した時間表をみていた。
ラマ僧の子弟達の教育までここで引き受けていたのである。
「何もかも、経費がなくて思うようには行きませんよ。」
蒔田さんはそういって笑った。
地味な文化の戦士の奮闘を祈って、私たちは再び馬車に乗った。 』
蒔田さんは、この文章を書いたジャーナリストを案内した人物です。
この地に暮らす日本人の苦労と、学校教育普及に民間人も協力していたことがわかります。

古北口
承徳から西、中華民国との国境です。
万里の長城が見え、手前に河が見えます。


山海関
ずいぶんと大きな門です。また垂直に伸びる壁など、いかにも中国風です。
門の上の建物も、一見すると二階建てですが、足元の人物と比べましてもわかりますとおり、相当な高さがある建物です。

『 延々たる万里の長城の起きるところ山海関、
城門天下第一関の大扇額は明の時代のものと言われる。
秦の始皇の追憶は幾千載の後にも及ぶであろう。 』
南海関が見えます。
手前、街が広がり、人々の行き来も盛んです。

ちなみに、満州写真館の満州風景で紹介しております 「 山海関 天下第一関 」 と同じアングルです。
こちらの写真のほうが左奥、門に生えている木がやや小さくみえる、屋根の壊れ方が少なく見えることから、こちらが先に撮影されたものと思われます。有名な門でありながら、荒れた風に見えてしまい、特に整備はされていなかったのでは、と想像しています。

山海関
『 延々たる万里の長城の起きるところ、山海関。
城門「天下第一関」の大扇額は明の時代の筆と博へされる。
秦の始皇の追憶は幾千戦の後にも及ぶであろう。 』
山海関は、国境の町というだけでなく、前述の通り、万里の長城がここから造られていることでも有名です(地図の黄色)。


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