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満洲地方都市その5





ちゅうごくでは、ちべっとで沢山のひとびとがころされました
てんあんもんじけんでも沢山がなくなりました
ぶんかだいかくめいでも沢山のひとびとがしんでしまいました
ちゅうごくのひとはしりません

                        
では、こちらでは満州の地方都市のその5回目として、東側のエリアをご紹介いたします。
こちら、カラー地図で色付けしましたもので、紹介します街の位置を示します。
ちなみに右上で青く塗られておりますのは興凱湖、左下の青は鏡泊湖です。 

では地図に向かって左から右側へ紹介を進めてまいります。

横道河子
横道河子の風景です。
『 延吉道の北端にある一駅、横道河子の風景。ここは横道湖畔にあって付近の貨物の集散地である。写真は集落の望遠で、かすかに河のあなたに見えるのが汽車である。 』

山に囲まれた場所で画面中央には小川が見えます。
残念ながら街並みは写っていません。遠く、貨物列車が見えます。
キャプションには北端とあります。これは未だ線路がここまでしか敷設されていなかった頃の記述でしょう。この線路は遠くハルピンまで続きます。
河を跨ぐ橋から左方向へ道があり、この地の幹線道路かもしれません。また後程、記しますが、この付近はロシア人も住んでいた様です。きっとロシア人の村もあったでしょう。

この横道河子は、森林開発もなされました。
満洲の森林開発はロシアが東清鉄道を建設した時に始まり、ロシア人の企業家が横道河子・亜布力などの優良森林を開発しました。その後日本人が買い取って終戦まで経営を続けました。
そのなかでも近藤林業は大いに発展をしました。ここ横道河子には近藤林業の林場・製剤所がありました。
また森林鉄道をもっていました。2フィート6インチの狭軌で、小さな機関車を2両使っていたようです。この機関車はドイツのコッペル社製で、機関車に炭庫と水タンクを装備(一体化)したものでした。こうした炭水車を持たない機関車はタンク機関車と呼ばれ、短距離のローカル線や構内入れ換えに向いた機関車です。

森林鉄道 東満
森林鉄道の風景です。
場所は不明ですが、東満とあり、今回の「地方都市その5」で取り上げるエリアで撮影されたものと思われます。

幅の余り広くない線路にトロッコが三両、凍てついた木材が縛り付けてあります。
その向こうに小型の機関車が見えますが、蒸気の影でどんな形の車両かは全くわかりません。

横道河子の森林鉄道も、こうした雰囲気であったものと思われます。

海林市
『 北満鉄道東部線寧古の北方にあり、牡丹江流域における集散市場として知られる。 』

ハルピンからはるか東へ進み、牡丹江の街の手前にある町です。
地図でみますと山中の都市ですが、水の弁、平原に恵まれています。
こちら特徴ある大きな壁の中に、これまた大きな屋根の建物が見えます。
建物の上には周囲を見渡せる突起があります。また高い壁の右端には小さな窓の四角い建物が見えます。これらは、強盗、匪賊への防御を考えた見張りと反撃をそれぞれ行うものでは、と考えます。清朝崩壊後、大変に治安が悪化したエリアでもあります。

海林の水田
『海浪河流域に平野部比較的多く、交通の便良く低地が少ないので、水田経営の発達著しい。
現在「所謂海林米」は二万石に達している。』
手前に白っぽく見えますのは朝鮮半島出身の農家で、除草作業中です。
地図で示しましたエリアは、朝鮮半島からの移民が多く、また彼らによる精力的な開墾がなされた地域でもあります。

牡丹江
大河と同じ名前を持つ街です。
牡丹江の街並みにつきましては当満州写真館の松花江のページにて2枚ほど紹介しております。こちらでは駅舎を紹介いたします。
元の画像が不鮮明の為、わかりにくくて恐縮ですが、明るい色のモダンな駅舎です。街灯もあります。
また駅前は広場になっていますが、これがとても広く、また舗装などは行き届いていなかったそうです。この駅舎は戦後も暫く使用されましたが、今は建て直され現存していません。 

水温む牡丹江
『 牡丹江は間島地方を北流して洋々北満の山野を潤す松花江に注ぐ大河。写真は、この牡丹江の水が鏡泊湖に注ぐ付近の風景、実に夏たけなわで、水量満々たる風致である。 』

水面穏やかな風景です。
牡丹江という街は満州時代に急速発展し、立派な計画都市が出来ました。この街の名でもある牡丹江です。
鏡泊湖は牡丹江の上流にある湖です。この写真のキャプションから、鏡泊湖は牡丹江の途中 ( 鏡泊江へ注ぎ、鏡泊江から流れ出る ) ことがわかります。

鏡泊江
『 北満の勝地として有名な鏡泊湖の風景である。牡丹江上流は一体に風景絶景であるが、この湖畔の美はその中にも名高い。写真は湖を西岸橋家厳子から眺めたものである。 』

鏡泊湖は、日本からも移民団が入ったこともある、水産資源の豊富な湖です。
また湖から河が流れ出る場所には滝があり、名勝として名高いところです。またご覧の写真でも丸太が浮かべてあり林業が営まれていることが判ります。
移民団、観光地、林業と人の行き来があり、いくつか町も出来た様です( 三岔口、腰店、松乙溝 ) 。
ただ、大きな地図でなければ描かれておらず、あまり大きな街ではなかったのかもしれません。

寧古塔 ( 寧安 )
寧安とも呼ばれる街です。牡丹江の下に位置しますので、地図をご参照ください。

金代からある古い都市で、人口三万五千人です。豊沃な牡丹江流域平野の中心的都市で、周囲の農産物の集散地です。
特に朝鮮半島からの移住者の水稲栽培が成功し、米の集散地としての期待が高まっています。
手前に小川があり、簡単な橋がかかっているのは、他の都市とよく似ています。街が河のそばに作られる、一方でおそらくいずれも河が浅く、家畜や家畜にひかせる台車などはそのまま河を渡るのでは、と想像します。
橋は板を渡しただけの簡単なもので、橋の上には男性が一人、どうやら洗い物をしているようにみえます。

左上、円筒状の建物は、番兵小屋です。
匪賊が出没する地域ならではの設備で、壁の高い位置には周囲を見渡す位置に窓があり、銃眼をかねています。

ちなみに地図では牡丹江から南下する線路がこの町で終点となっています。が、後に線路は延長され図們まで伸び( 図佳線 )、さらに国境の山を越え、朝鮮半島の港町、清津まで繋がります 。

東京城
『 寧古塔の西、約七十支里、牡丹江の沿岸に東京城がある。
ここはその昔、栄華を誇った渤海の首都で古い歴史をもっている。
しかし今は昔の面影はなく、ただ寂れ果てた田舎町に過ぎない。
付近に補足長く横たわる大地の上には玄武岩の黒い岩流が認められる。』
郊外を撮影したものらしく、残念ながら街並みは写っていません。
広々と畑が広がっており、畝が見えます。

東京城は、詳細な地図でもないかぎり、省略されてしまう町です。
記述を見る限り、寂れた町という印象です。
が、記載も昭和五年の図書からの引用で、まだ線路も開通していない時期です。
後の昭和12年 ( 1937年 )に、ここを通過する図佳線が開通します。
線路が開通した後は交通の便も良くなりますので、他の満州の町や都市同様に、発展したものと思われます。
ただ当時の旅行記に、この地を汽車で通過、駅付近で一泊した記述を見ますと、東京城の発展はさほどでもないのか、とも思われます。旅行記の筆者はここ東京城で日本人商社マンと出会っているのですが、「 こんなところにまで日本人が進出している 」と驚いています。さほど賑わっている町でも無いのに、という驚きでもあり、町並みがどんなだったか、がなんとなく想像できます。

東京城 地図
場所を赤色で示します。

寧古塔
繁華街のお店です。紳士服屋 ( ? )で、さらに窓越しには洋酒と思われます瓶がいくつも見えます( 日光のあたるところに置いているあたり、不思議に思いますが )。
看板はロシア語、そして看板左側にハングルが見えます。
先ほどの海林と同じく、朝鮮半島出身者が旺盛な開拓精神をもって満州へ入り、泥湿地帯を畑や水田にしました。
看板に日本語は全くありません。このあたり、現在の北朝鮮国境に近いエリアではさほど日本人もいなかったのでしょう、それが看板にも表れています。

さて、この看板にかかれました文字を解読いただきました。
大変興味深い内容ですので、紹介いたします。

『 寧古塔の洋服屋の主人は何人(なにじん)か。

 正面の看板には 「 東興茂 」と屋号らしい漢字が書いてあり、その下にロシア文字で 「 トゥン ヒン モ 」 と書いてあります。これは漢字の中国語読みをロシア文字で表したものの様です。
 正面の看板の二行目、いちばん右の M で始まる言葉が不明瞭ですが、これをマガジン ( МАГАЗИН : 店舗 )と読んで、「 卸 ・ 小売り店 」です。

向かって左横の看板にはロシア語で 『 既製服の**( 読めない )販売 」 「 注文承ります 」と書いてあります。
人の絵がある縦の看板は 「 仕立て屋 」 とロシア語で書いてあります。この店は既製服とオーダーの両立てであることがわかります。
この店の主人はロシア人で、ロシア人相手の商売なのではないでしょうか。ロシア語が豊富で正確なことが、そう思わせます。ショーウィンドウを兼ねた出窓もハルビン風?であか抜けています。


さて屋号の 「 東興茂 」について。
これは、語感の良さそうな(?)漢字三字を選んだものか、と想像されます。当時の中国人商人の間で、おめでたい漢字三字を組み合わせて屋号にすることが一種の流行だったことから想像されあmす。当時の満州を写した絵葉書の看板に三字の屋号が見られます ( 例:「永和春」という菓子店 )。
「東興茂」も、ロシア人店主がこれにならったものだと思います。三文字の屋号でいえば、「 東和興百貨店 」というデパートがあります。これはこちらの写真の屋号
「 東興茂 」と、東、興と二文字が一致しています。

もうひとつ、ハングルの屋号に注目してみます。
ハングルの旧仮名遣いに詳しい方の注釈を伺う機会があり、以下に書いてみます。
ハングルの読み : トンフンムヤンボクジョム
相当する漢字 : 東興茂洋服店
となります。


もう一つ、屋号の両脇に描いてある国旗は5色旗です。
白黒写真で色は分かりませんが、これが張学良政府の5色旗の様です。
この写真は昭和5年の図書に載っていたもので、満洲国以前に撮影されたものです。
もしかすると、この店の主人は満洲国になってから塗り替えしたかもしれません。

東寧
『ロシア満州国境
琿春の東北二百七十支里、寧古塔にいたる東寧は国境の一要都である。
ロシアと境を接する商業都市であり、有数の穀類の集散市場である。』

東寧は綏芬河のほとりにあり、この河を下るとウラジオストックのある湾へ出ます。
森も木も見えない平らな土地に街が広がっています。遠くの連山は、ロシアの沿海州です。
また東寧はロシアのウスリー州の首府ニコリスクと相対しています。また交通の要所でもあったのですが、同時に昔から密輸入の本場としても知られていました。

縣城の東門
『 東寧は綏芬廰の管轄区であったが、東寧を中心としてこの付近を東寧廰
と定め、東寧縣と改めた今は県庁所在地である。城壁は急造の土壁に過ぎぬが、露領に面し、馬賊に襲われるため、城門だけは流石に厳しい 』

満州の待ちは城壁や城門を持ち、匪賊などの襲撃に備えていますが、こちらでも銃眼を備えた門が作られています。右側、屋根があり煙突もありますことから住み込みの番兵が配置できる構造であることがわかります。

勅賜の額
『 真島より程遠からぬ東寧は古くから朝鮮半島の移民者が少なくなかった。清末、皇帝は勅旨を、高安村の額を賜い、今尚、輝いている。 』
古くからこの一帯は朝鮮半島からの移民により開拓されていました。移民につきましては別途紹介を致します。
この写真によれば、清王朝から額が贈ったとあり、彼ら移民が重宝され、同胞として認められていたことが伺えます。

さて、この額画像をクローズアップしましても、はるばる皇帝が送ったという風になく、レプリカであろうと思われます。門がこしらえてありますが、柱を見ますと四角い穴が開いていて家の梁かなにかを持ってきた様に見えます( 建築廃材?)。また轍も右側へ避けています。門の高さも幅も狭く、例えば荷車などは馬車はよけたほうが賢明に思われます。
これらから、この写真は勅賜の額とはいうものの、村名を記す看板代わりの様な扱いに見えます。

ポグラニーチナヤ
では、国境を越えた街も紹介いたします。
地図で赤く塗っておりますところです。

地図ではクラニチヤナとありますが、グラニーチナヤの誤記です。
ポグラニーチナヤを分解すると
→ポ : 前置詞または接頭語「〜に沿う」
→グラニーツァ : 境、国境
→ヌイ(女性形でナヤ) : 形容詞を作る接尾語
となります。つまりポグラニーチナヤで「国境に沿う(街)」という意味になります。
つまり、”ぼ” ではなく ”ぽ” が語意からも自然です。また他の戦前書籍もポグラニーチナヤで記載されていることから、地図の誤りと判断できます。

さて場所を見てみます。線路が国境を跨いでいて、またこの線路は遠く、ウラジオストックにつながっていることがわかります( 地図では右からひだりへウラヂヴォストックとあります )。
ちなみにこの地図はもう一つ間違いがあり、街の位置はもう少し西( 地図に向かって左 )で、国境にある街です。

ポグラニーチナヤ  遠景
 『 東支鉄道の西の終駅は満州里に対し、その一方にある東側の終駅がこのポグラニーチナヤである。これはロシア語で、現地は綏芬河である。ここは無数の丘陵が波状に連なる。 』

満州の西北部でロシア国境と接する町は満州里です。その反対側、東側で満州がロシア国境と接する町がこのポグラニーチナヤです。
遠くにはいくつも連なる山が見えます。
画面中央から上あたり、横方向へ鉄道と貨車が見えます。
このポグラニーチナヤは、中国側呼び名は綏芬河です。戦前地図は概ね綏芬河と書かれています。

東支鉄道は、ハルピンから綏芬河までを濱綏線(ひんすいせん)とも呼びます。
この濱綏線の綏芬河の次の駅は寛溝という町にあり、ここにはシロカヤパヂというロシア名があります。中国語、ロシア語の両方の町の名があるのは国境地帯ならではでしょうか。

遠くに町並みが見えます。よく見てみますと、尖った塔が見えます。
手前、小さな家は農家でしょうか。白っぽく写っているのが印象的です。

ロシア国境とつながる濱綏線がある影響か、この沿線にはロシア人の村が点在していた様です。
昭和17年当時の旅行ルポから。濱綏線は綏芬河から牡丹江を経由してハルピンへたどり着きます。
この牡丹江でハルピン方面へ出発した模様を書いたものです。
『 今年は一行が牡丹江で落ち合ったので皆を誘って一晩延ばしてもらって、牡丹駅を発った。私は横道河子※1の春の風物を見たかったからである。
食堂車があると時刻表に出ているので、安心してヤマトホテルを食事を取らずに出た。
汽車に乗ってみると食堂車らしいものは無い。あわてて駅員に聞くと、変更になり到着自国も遅れる様子なのである。弁当売りも出ていないので心配した。
横道河子がだんだん近くなると周囲の緑は目にしみるように鮮やかで白樺から萌え出ている若葉などは可憐で、木々の多い山々は美しかった。図佳線※2の黒く乾いた山や野を見慣れた眼には、やはりこれが同じ地続きだとは信じられないほどだった。
横道河子あたりからロシア農家の散在や墓の展望、女の子の花売りとみずみずしく和やかで、初めて私はほっとした。
一方で、私は皆を誘った責任上、弁当を買いに走った。
皆はスタンプを押しに出かけたりした帰りにパンや蜂蜜、ぶどう酒、油で揚げたねじりパンを買い込んできた。カルパスの切り身などもよかった。 』


横道河子※1:牡丹江を出発して10番目の駅
図佳線※2 :牡丹江から北へ佳木斯まで伸びる路線。 

ポグラニーチナヤ 
 
『露領沿海州ウスリー地方に接す山奥東支鉄道終駅人口二万人、吉林省の東部とロシア沿岸州ウスリー地方との接する山紫水明の峡にある町である。
東支鉄道の終駅で人口約2万人。かつて国境守備の為、支那(当時の中国)の兵士が約1万人駐屯していたが、交通不便な子の街は商工業が振るわず、酒煙草砂糖の密輸入が盛んなことで名高い。』
昭和5年当時の書籍の記述です。人口2万人のうち、日本人も約40人が暮らしています。

ちなみに、左端、四角い屋根の家の配置から判りますとおり、この二枚の写真は同じ場所で同じ方向を向いて撮影されています。
先の写真の右側がこの写真となります。建物の見え方から、ほぼ同じ位置でやや右を向いて撮影していることがわかりますが、左中央に見えます池の反射の形が違って見えます( 水のはりぐあいが違う )ことから、違うタイミングで撮影されたものでしょう。

画面遠く、市街地が見え、その手前に四角くみ横切るように並んで見えるのは貨車です。
長い長い貨物列車が国境を越えていたことがわかります。 

ポグラニーチナヤ
『 東支線満州の東端にある。輸出貨物はすべては、兎も角、この液を通過せざるをえない。 』

先ほどの写真の背景にあった山から町を見下ろした ( 先程の写真とは反対方向 )から見ている写真です。

画面下半分に街並みが見えます。白い壁が印象的です。
線路が遠くへカーブしながら伸びているのが見えます。 

ポグラニーチナヤ
先程の写真の、左側をクローズアップ、画面中央、左から右方向へ黒く見えるのは貨車の様です。

背の高い塔が見えます。これは先に紹介しました遠景で見えた塔でしょう。
他にも立派な建物が見えます。

綏芬河 ( ポグラニーチナヤ )
こちらの画像は綏芬河市街とキャプションにありますが、同じ ポグラニーチナヤです。
目印になる様な建物が写っておらず、想像するしかありませんが、どうも線路付近から前の写真の右方向を見ている様に思えます。家には特に出窓などは造られていません。また壁、そして屋根が白く明るく写っています。屋根が白く見える点ですが、考えられるのは雪が積もっていることです。が、地面には雪らしきものは見えません。よって屋根が
露光の所為 ( 日光をうけて明るく見える )と思われます。
町並みはやや満州里の街にも似た印象がありますが、満州里と違ってほとんどが二階建ての様です。

ポグラニーチナヤ  水ぬるむ村景
郊外でしょうか。
手前のかわべりには白い鳥が、遠くにはしろっぽい家が点在しています。
どの家も窓が二つづつ、しかなく、つつましい小さな家です。
新しい移民村の一部との事です。
ハルピンも松花江をはさんだ対岸は野原で放牧が盛んでした。そこにロシア人農家も居て白い家とであった様です。ちょうど、これに似た風景だったのではないでしょうか。 


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