| 北満州には興安嶺という巨大な山脈が横たわっています。
この巨大な山脈は険しくそして密林を持ち、長い間、秘境でした。この山脈を越えるとモンゴルへ続く大平原で、草原と砂漠の高原地帯となります。
さてこの興安嶺には鄂倫春(おろちょん/以下オロチョン)と呼ばれる人々が住んでおり、満州国設立当時にも極めて原始的な生活を営んでいました。オロチョン族は、戦前には三千余名程度でした(今日の人数も同程度の様です)。
このオロチョン以外にも興安嶺には少数民族がいくつか住んでいました。今回、戦前図書でオロチョンのレポートを見る機会があり、以下にまとめてみます。 |
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| オロチョンはウラルアルタイ系に属するツングース種族である、と定義付けられています。言葉は満州語に近い一方で、文字を持っていなかったそうです。
鄂倫春の呼称は、彼らのいう"おろちょん"に漢字を充てたものです。意味としては、使役に使ってきた馴鹿をオロン、またはオロンボクといい、チョンは蒙古語のチンと同じく、"〜する人"の意味で、馴鹿を使役する人の意味となります。これに漢字を充てたものです。馴鹿(じゅんろく)はトナカイのことです。
馴鹿はコケ類を主食としている一方で、当時からコケ類が減少をしていました。結果、馴鹿の飼育が困難となり、鄂倫春は順次馬に乗り換えるか、歩行に切り替えたとのことです。
狩猟について、獲物の中心は?(ノロ/いわゆるノロ鹿で小型の鹿)です。
画像には銃、そして銃を支える棒(白っぽく見えます)、そして背中に背負った獲物の頭が見えます。この獲物がノロ鹿です。
オロチョンの服装は、袴子をはき、毛皮の半長靴を履き、上着の上から帯をしめているそうです。また毛皮帽を被るのだそうです。
これらの服装は男女に共通です。皮でできた煙草入れ、銃弾ケースなど丁寧につくられた皮製品を身にまとうのも特徴です。
女性はさらに耳飾、首飾り、腕輪、指輪をつけます。衣装の刺繍も含め、細かな細工のものが身を飾りました。
画像は不鮮明で服装がよくわかりませんが、頭は毛皮帽というより、タオルの様なものをぐるぐる巻いている様にも見えます。これも革製品かもしれません。
当時のオロチョン族の写真は余り撮られていないのか、絵葉書など未だ見つけたことがありません。
ちなみにこちらのオロチョンの画像は月刊満蒙評論のものです。 |
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| オロチョンは狩猟民族で、狩猟は銃が普及していました。
先の画像ですが、持っている銃は、ベルダンという種類です。単発で構造が簡易な代わりに再装填に時間がかかり、軍などでは近代になって採用されなくなる形式です。
また依託射撃という方法を好んで用いていたとされます。
これは銃架を用いて銃を支えて撃つことをさしますが鄂倫春では、一メートル半程度の二本の棒を銃架として用いているようです。
鄂倫春は狩猟にあたり、その驚異的な視力を有効に活用していました。
これについて戦前の書物から引用。
『彼らの視力の良いことは真に驚く可きものがある。約七八百米の谷向うの樹間や草むらにいる獣をいち早く見出し、獣の気づかざる間に地形を利用してこれに近づき射撃有効の近距離にいたって初めて委託射撃をなすのである。彼らの内には夜目の利くものさえあるといわれている。』
先にものべましたがベルダン銃は単発で再装填に時間がかかりますので、一発で仕留める必要があります。驚異的視力と委託射撃とで、その不利を補っていたといえます。 |
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| 本来、オロチョンは狩猟に生きてきたわけですが、徐々に農業も始めていたそうです。
ただ、農業と行っても原始的で、原野にぱらぱらと種をまいて、あとはあまりかまっていなかったそうです。
では書物から引用。
『鄂倫春の常食は獣肉と麋子とであるが、狩猟地帯を遠ざかるにしたがって獣肉が減少し、麋子や粟などの穀類が多くなってくる。』
麋子(ミーズ)は、黍(きび)の事です。
『肉は塩煮するか焼いて食す。しかも血の滴るような半焼けの骨付き肉を各自が所持するウチカンと呼ばれる刀で切り刻みながら食べる。
食事は朝夕の二食。副食物は通常用いない。
夏には野生の韮や茸を食べる。調味料は岩塩か獣油を用いる程度。
茶も飲む。あとタバコ、酒は蒙古の酒と同じく馬乳酒(サーアルゲ)がある。
あとは白酒。呑めば鯨飲して前後不覚となる輩が多い。』
呑む時には儀式があり、小指を浸して弾き神に供えるのだそうです。
またウチカンは、別名鄂倫春刀とも呼ばれます。
彼らがお酒を入手するには外部から入手すると思われます(穀物を酒造に使えるほど生産しているふうもありませんので、自作は限られていたと思われます)。
その頃、モンゴル(蒙古)では物々交換から貨幣の使用へ移行しており、もしかするとオロチョンも同様に貨幣経済が広まったのではと思われます。
オロチョンが貨幣を得る糧は勿論狩猟でした。
同じく書物から引用します。
『大鹿はその全ての部分が高価な商品となる為に珍重がられる。
即ち其の肉は食用とし皮は衣服などに、鹿茸殊に袋角と称せられるものは薬用として、鹿尾はホルモン剤として珍重せられている。』
薬用とありますので、漢方として重宝されたのでしょう。
満州国設立後、流通も良くなったためか、彼らオロチョンも病気に際しては薬品を入手できるようになったという記述も戦前書物にあります。
ただ蒙古では当時、ほぼ誰も算術が出来ず、書物にも漢民族行商人にぼったくられたとありますので、オロチョンもおなじめにあったかもしれません。 |
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| 狩猟で獲物を追い続けるため、鄂倫春の住処は移動しやすいテント状のものでした。
メーハンやシェーランジュと呼ばれるもので、白樺や松の小枝、二〜三十本を直径4メートル程度の円錐型に組み合わせて白樺の樹皮を縫い合わせたものです。冬はこれにさらに防寒の為にノロ鹿の皮をかぶせます。 |
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| 出産にあたり、妊婦は専用のテントにこもります。
また近親のものが手伝うのですが、このテントは男子禁制で、男性はこのテントに食事を運ぶなどはするものの、テントの中に入ることはタブーで神罰があるとされました。原始的感覚ではありますが出産は神聖視されていたことがわかります。
そして生まれた赤ちゃんには白樺の皮の籠にいれられ、獣の骨や歯、角でつくられたガラガラとなる魔よけの玩具と共に育てられます。
ただ、日頃から彼らが使う毛皮の毛を吸ってしまうため呼吸器官の障害を引き起こすなど、衛生観念はあまり良いとはいえず、児童の死亡率は著しい数に上っているとのことでした。
また名前は2〜3歳にになって与えられますが愛称的なもので、一人前の名前は15〜16歳になってからでした。このあたり、随分と日本とは感覚がことなります。
結婚についても狩猟民族らしく、男性は馬などの獣4頭、酒などの飲食物を妻の実家へ持参します。また仮に男性が貧困なため持参物がそろえられない場合、男性は女性の実家で1ヵ年勤労に服すことで先の結納品にかえることができました。
貧しくても結婚できる様に配慮されており、このあたりユニークな印象がありますが、自然を相手の狩猟生活ですので常に蓄えができるわけでもないといった事情も、あるかもしれません。 |
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| 簡単な歌、競馬、相撲、踊りが好まれていた様です。
音楽としては、簡単な三寸くらいの鉄製の琴がもちいられていました。
片方を口にくわえ、手の指でかるく爪弾くとのことですが詳細は不明です。 |
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| オロチョンでは、土葬と風葬とが行われています。画像は珍しい風葬を写したものです。
土葬の場合、そのまま土に埋めて土饅頭をつくるだけです(お棺には入れない)。
風葬の場合、お棺に納めて、やぐらの上に置いておくという一風かわった方法がとられます。
悪寒も白樺の樹脂で遺体をくるむ、箱、丸太をくりぬくなどいくつかあったようです。
そして頭を南にして1メートル程度のやぐらにすえます。
こちらの風葬の画像は下から見上げたもので遺体は写っていませんが、地面から高い位置に差し上げられていることとがよくわかります。
ちなみに葬儀に関してシャーマンを招じて祭祀していました。
その後、一周忌はおこなうものの、それ以降は特に祭祀することはありませんでした。
但し、死者を祭った地点を通過する際は馬から下りて礼をする習慣がありました。
満州は、その広さゆえに、様々な民族がおり、そこには様々な風習がありました。
当時のレポートを見ても、満州国設立後も近代化を享受しつつ悠々と暮らしていたと感じます。 |
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