| では満州の風俗風習の続きとしまして、街角の賑わいをみてまいります。 |
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| さて、ここからは食べ物の行商風景です。
天秤棒で運んでの商売です。画面左側からは湯気か煙かが立っております。こちらには火鉢が入っているものと思われます。もう片方には食器や食材が入っているのが一般的です。確かに急須のようなもの、お椀が描かれています。
こうした屋台は汁物(ワンタンなど)を提供したものもあり、もしかすると片方から上がった湯気は、汁から立ち上っているものかもしれません。 |
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| 満州は埃っぽい土地柄でありながら、屋外の道端の食べ物屋が多かった様で、移住した日本人には、一寸、馴染まない光景だったようです。
『大人も子供も舌鼓をうっているのをみると、いかにもここの土地柄を思わせる。』
とキャプションにあり、路上販売での飲食はごく普通に行われていたものと思われます。 |
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| 『天産あるところ、産業興り、産業あるところ人、集まり、人あるところ、また必ず飲食店がある。
労働者相手の飲食店を見てもだが、支那人労働者の集まる飲食店はお世辞にも清潔とは言いかねる。
だが、勿論、かれらはそこで平気で食い、且つ、飲み楽しむのである。』
簡単なテーブルの上に皿が並べられています。画像を拡大してみましたが、皿に盛られているものについては判別できませんでした。ちなみに右上、白く見える看板には増福園と書かれている様です。
さて日本では、高温多湿であることから、食料には常に食あたりの危険がありました。昭和50年代でも会社の組合報や学校から配布されるプリントに赤痢の予防、食あたりの予防の記事があるくらい食あたりは頻繁に起き、そしてそれは子供の命を奪うものでした。
そうした日本から、いきなり当時の満州の屋外飲食を見ると、随分と意外な行為に思えたでしょう。
満州国設立後は冷凍保存と鉄道で広く食材がいきわたるようになり、満州でも日本食が食べられるようになったそうですが、当時の旅行記にも、何処から運んできたかわからない食材での刺身といった日本料理より、地元で取れたものが食べたい、その方が新鮮で且つ旅行気分が出る、といった感想もありました。 |
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| こちら、中央の男性の様子からみて、ずいぶんと寒そうです。
さて、実はこの写真には特にキャプションがなく推測するしかありませんが、飲食店が並んでいるのでは、と考えました。
まずは全体を見渡してみましょう。まず左右にあるテントですが、造りも簡単です。また人が通る側が大きく開いています。寒い時期に片方の壁が空けられていることからすると、人が住んでいるわけではなさそうです。
そして太い煙突が並んでいます。 |
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| さて先程の写真の左下、煙突の付け根を中心にクローズアップしてみますと、釜の様な物が見えます。
この釜から調理を連想し、飲食店と考えた次第です。
この釜ですが、マントウなどを焼くものではないだろうかと考えます。
マントウというと日本の饅頭の祖先で、今日でも蒸すものが中国料理で多く見られます。
が、マントウには焼くものもあります。包米(トウモロコシのこと)などを粉にして練り、釜の様なものに貼り付けて焼くものです。日本の饅頭のように中に餡子が入っているということはありません。
満州に住んでおられた方のエッセーで、かつて自分の家だった場所を尋ねてみると家は残っていて、五右衛門風呂(鉄製の風呂釜)がマントウを焼くのに使われていた、というのがあります。内風呂、つまり家に風呂があるというのは、当時は裕福な家でなければできないことでしたが、恐らくお風呂も立派に作られていたのでしょう。 |
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| 路上販売は、当時、支那と呼ばれた現在の中国全般で行われていました。
画像は路上の煮物売りで、洗面器の様な中には何かの煮物が入っているのでしょう。家々の前にべたっと座り込み、雑然と荷物を広げて客が来るのを待っています。また煮物ですのでそのまま食べる物なのでしょうが、地べたにこそ置いていませんが、蓋や覆いをしているふうもありません。埃など気にならないのでしょうか。煮物が何かは、容器の中が写っておらず、判断がつきません。
さて画像ですが、これは撮影場所が特定できず、満州国内ではない(あるいは満州国設立前の中国のどこか)の可能性があります。
もっとも中華民国でも満州でも風俗風習は似ており、一応、この頃の風俗を紹介する意味あいで、こちらの頁にて紹介いたします。
いうまでもなく満州の国境は新しく引かれたものでああり、それを境に風俗風習が違ってくることも無かったと考えます。また満州の地域は漢民族がどっと移動したためでしょうか、現在残っている書籍類の写真をあれこれ見てみましても、満州国から国境を越えた中国大陸で、満州と極端に風俗風習の違いがあるようには見えません。
もっとも蒙古に近い方、つまり北へ移動すればするほど、人々の様子から服装、家々の形まで違ってきています。このあたり、蒙古族の風習となるからと言えます。 |
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| 『彼らが満州固有の服装をして、停車場近くの一角にて商いをしている。
これは主として満州煙草落花生などを売っている。』
街角で店を開いている様子です。
四角い葉工場のものがあり、紐がついていることから、天秤棒でここへ移動してきたのかも、と想像します。
向かって左、四角い箱状のものが煙草、右側、ざるに入っているのが落花生では、と考えます。 |
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| 広場に集まる人々と路上販売です。
左下、赤く塗ってあり林檎に見えますが、林檎にしてはやや大きく見えます。また色は白黒写真へ彩色する際に任意に選ばれるので、必ずしも元の色を反映しているとは限りません。
一応、ヘタの様なものも見えますし、何かの木の実であろうとは思われます。大きめサイズの林檎をそろえた優良な店だということでしょうか。 |
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| 『本場の支那は無論だが、満州の何処を歩いてもいわゆる泥棒市場を見る。
大都市は大都市なりに、小部落は小部落なりに大小はあるが失ったものなら大概、ここへくればでるとさえ
言われ、これが泥棒市場のなのあるところであるが、考えようによっては便利な制度でもある。』
こちらは屋根付きの固定したマーケットの様です。
軒先には棒に服がぶら下げてあります。
店の中に光を取り込むためでしょうか、屋根には三角形の突起がみえます。
泥棒市場というのは盗まれたものが堂々と売られている市場で、くつが片方だけ売っているなど、なんでもありの市場だったようです。
小盗児(ショートル)市場とも呼ばれました。
特に遺体から服を剥ぎ取って売っていた例もあり、とにかくボロでも何でも並べてあったそうです。そのものめずらしさから、日本人もこうした市場をひやかして回ったという話があります。 |
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| 大連の満州人街での露天市場です。
こちらも左側、そして奥に屋根が見え、固定した市場であるものと思われます。
こうした市場には
『書館、寄席、見世物小屋から覗きからくり、遊女屋などをはじめとして各種の露天飲食店が軒を連ねる。』とキャプションにあり、繁華街だったのでしょう。
有料休憩所といったところもあり、そこは一銭五厘で入場、お茶が飲め、また駄菓子を買ってのんびりとすごしたそうです。また小さなステージがあり、歌を歌ったりなどしていたそうです。 |
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| せっかくですので何が売られているか、クローズアップしてみました。
左下、車輪が見えます。それぞれ乳母車、三輪車です。 |
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| 画面左上をみてみます。
まず鳥籠が沢山積み上げられています。
あと、中央、筒状のものがぶら下げられています。タイヤかなにかのチューブに見えます。 |
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| 当時、数多く居た行商人のひとつ、靴直しです。
『新式の皮底靴をのぞけば、支那靴の底は大抵は布製であるけれども近頃ではその靴底の破損は皮革をもってつくろうのが普通となってきた。
日当たりの良い通りに商売道具を下ろして靴の修理に余念のない老人は革をつぎ当てて針を運んでいる。
鋲や皮革と、ここにも文化の恩恵がある。』
左、傘を開いての路上の伸び利とした行商風景ですが、なんとなく店先を勝手に占拠している様にもみえます。箱が左右にあります。移動する時は、おそらく天秤棒にでもするのでしょう。
靴の素材が布から革に移り変わっていることがキャプションから読み取れます。流行というだけでなく、お洒落もより贅沢に、ということではと想像しています。 |
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| こちらも撮影場所は不明ですが、靴直し屋です。
日本でも戦前、そして戦後も靴直し職人というのは居ましたし、かつて日本でも道端で靴磨きなどもありました。
てんでな場所で営業している映像は、いかにも満州封かもしれません。特にこちらは祠の前に店を広げており、これではお参りは出来ないわけですが、靴屋にしてみればどうでもいいのでしょうか?
靴直し屋の両側に大きな箱があり、道具などが詰まっている様です。 |
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| 『大の男が大勢並んで夢中で覗いているのは、支那式からくり。男が解説しながら、絵を挿し換える影絵式とのこと。のどかな満州気分。』
左端の立っている人がからくりを操作している様で、また弁士を兼ねているのか、なにやら唸っているような表情です。 |
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| 『歯痛をたちどころに止める入歯屋。看板にある補牙とは入歯の意味。恐らく、虫歯を引っこ抜くのでは。表看板に麗々しく西洋流と書いてあるけれども、主人の道具の如何に支那式であることか。』
なんでもかんでも路上商売という特徴がありますが、それにしても歯医者も路上とは、満州ならでは、でしょうか。
奉天の頁で、市街地の画像には看板にやたらと歯医者があったことを考えると、歯医者のニーズは多かったのかもしれません。 |
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| 引き続き、路上販売を見てみます。こちらは移動の肉屋です。
満州特有の一輪車の上に肉の塊を載せ、道端で切り売りしている様子です。キャプションには
『満州人の人通りの多い通りでこのような路傍に肉屋が見られる。一日の仕事を得て労働者は一片の肉を求めて帰り、家族と共に舌鼓を打つであろう。』
とあります。
左の男が天秤で量りを持っており、何人かの男達がその様子をひやかしがてら見物しています。
荷台の上に肉の塊を載せて、道路端で量り売りというのは、日本では一寸馴染まない光景で、この写真もその珍しさから撮られたものとも言えます。
ただ、日本では昭和初頭でも天秤棒で売り歩く行商人には、魚だけでなく、稀ですが肉もありましたし、地方では昭和30年代に行商のおばあさんが「今日は肉があるよ。」といっていた事があると聞いたことがあります(必ずしも牛や鳥、豚の肉ではなかったとも聞いたことがあります)。
いうまでもなく生の肉は腐敗しやすいものです。行商人は氷を桶に入れ、そして日の光や埃をさけるために蓋をしていたみたいです。
写真は、男達の帽子や服装でもわかるとおり冬場ですので、肉の腐敗は気にならないのかもしれません。が、それにしても、むき出しの生肉は埃まみれになりそうです。そのあたりは、満州式といったところでしょか。
この他、同じように一輪車に魚を売ってあるく行商人もいました。1メートルにもなるナマズや雷魚が荷台にどっさり乗っているのも如何にも満州の風景です。これらの魚も、客の求めに応じて切り売りし、特に冬場は棒のようにカチカチに凍っていますので、のこぎりでひいて切り分けたそうです。
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