| こちらでは地方都市その6として満州と半島の東側国境付近を見てみます。
図們江(朝鮮名は豆満江、または頭満江)と、その上流にある都市を線路が繋いでいるエリアです。 |
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| 『局子街とも呼ぶ。北間島における軍事行政商業の要地で人口約9千万、そのうち朝鮮半島移住者が千四百人いるとされる。』
先の地図では延吉ですが、古い地図では局子街と書かれています。
遠くには平野が広がっているように見えます。
水の便がよく、満州でもトップの水稲の生産地です。満州では水稲の産地は奉天、安東、寧安が上げられますが、
延吉はこれらの地域と比べても突出して多く水稲を産出します。 |
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| 近代的な印象の駅舎です。
吉林の下流、牡丹江のそばにあります。盆地のちゅうおうにあります。
ここ敦化には古くから人が住んでいました。清王朝の始祖が発祥したところともされます。
が、敦化の街自体はごく近代に作られた城塞都市です。『土城が築城された』と戦前書籍にあり土壁の城塞都市であったものと思われます。また4方向に門がありました。この城壁が建築されたのが1882年(日本では明治15年)と明確なのも珍しく思われます。その頃の城内の人口は一万五千人程度で、かなり大きな街であった様です。
その前にも一定数が住んでいた様で、鄂多哩(おたり)城が渤海王朝時代にあったとする資料もありますが、詳細はわかりません。
鉄道開通に伴い、交通の要所としての発展が期待されていました。
昭和5年の書籍の記述から
『敦化は満朝の発祥少の地といわれる古い都で牡丹江畔の盆地に或る。
吉林と間島との中間に位置し、吉敦鉄道開通以来、素晴らしい活気を見せている。人口一万六千人余りで官設と敦化官店の二軒ある。』 |
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| 真っすぐが本線でしょう。右に大きくカーブする線路があり、倉庫が見え引き込み線の様です。
枕木は砂利の上ではなく、泥に半分埋まって見えるのが印象的です。雪が見え、冬の撮影であることがわかります。
遠く、煙を吐く機関車が見えます。
ひたすら平らな風景で、遠くには山も何も見えません。
( ちなみにこれと同じ写真で、違う駅の名前のキャプションが付いている例がありましたが、敦化駅と判断しし紹介しております )。 |
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| 市街地の様子です。
大きな看板が目を引きます。
背の高い建物はありません。
道路は舗装もされておらず、轍がいくつもあり、ぬかるんでいる様にも見えます。右側には歩道でしょうか、板が敷いてあります。
右側には行商人のものと思われます天秤棒が置いたままになっています。 |
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| 緩やかな斜面にかこまれた盆地です。
手前に建物が散見されます。遠くに建物が集まって見え、さきほどの市街地であろうと思われます。
画面中央横方向へ河が見え、中央あたり、やや広がっていて光を反射しています。ここで川幅が広いのは、例えば船でのものの運搬を行う際の積み下ろし場、浅瀬になっていて人が渡る場所、などいろいろ考えられます(川を挟んで、道がつながっているようにも見えます)。
高粱、小麦、大豆の生産が飛躍的に伸びました。朝鮮半島からの多大な努力の賜物です。
ここの特産物である人参は満州語でオルムト(額爾私多)といい、もっとも貴重な植物です。これはいわゆる朝鮮人参のことです。高山植物で非常に成長が遅いものです。根は人間の形物の物が珍重されました。
吉林からその東側の敦化地方へかけて、この人参が採れました。数百人の人参採集者が一攫千金で零下30度以下になる極寒の中を探し回ります。
清朝時代には吉林総督から天然人参の貢献を強制されていた時期もあるほどでした。
昔から起死回生、補腎強壮無比のものとして人気があり、年数を経た人参は、一つ百円もの値段がつきます。
つまり一本見つけさえすれば、遊んで暮らせます。が、猛獣に襲われたり、凍死や餓死で毎年数十人が命を落としていました。しかし冒険者はたじろがず、山中へ入っていた様です。一攫千金とはいえ、極寒の季節に原生林の山中へ入る冒険者の山師的発想には恐れ入ります。
その後、朝鮮半島にて人工栽培が大成功となり、価格品質共に最上級となった様で、山中に入る者は減ったとおもわれます。 |
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| 昭和八年、敦化は満州国設立前は人口一万五千人程度でしたが、その後、三万に増えています。
『豊かな土地の敦化の発展は実に物凄い
開拓された土地は豆類の四万ニ千町歩を筆頭に、粟など八万三千町歩、水田は千五百町歩で、残る前人未到の処女地には世界に誇る大森林が十五万町歩、耕作可能地は十万町歩、開拓の見込みのある二十四万八千町歩がある。
また石炭の大鉱脈が開拓者を待っている。
敦化市は、牡丹江の上流の左岸に立つ敦化縣公署の所在地であるのは勿論、木材、獣皮、薬草などの集散地でも有る。』
先ほどとほぼ同じ場所からで、同じように川が見えます。より川へ近い位置での撮影で、明るく見える川はより多く見えます。道は川を跨いで繋がっており、ここで渡河できる浅い場所か、と想像しています。
手前の丘陵地帯、っそして川向こうも一定方向に筋が見えます。このことから畑と思われます。
こちらの写真では、遠くの市街地もやや大きく見え屋根らしきものが明るく見えます。判別できる範囲では、似たような大きさや形の建物が集まっており、背の高いビルや塔などはなさそうです。 |
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| 龍井村は人口一万五千人の商業都市です。先の白地図では竜井村と書かれていますが、龍井と書くのが通常です(略字?)。
豆満江の支流である海蘭河のほとりにあります。上流の森林の木材が集まる町でもあります。
この湖畔の荒野は開墾が進んでいます。この一帯は肥沃で、粟は穂の長さ一尺(約30センチ)にもなったそうです。大豆、粟、水稲の栽培が盛んです。家畜の飼育も適しています。
線路も通り、周辺の農作物の集散地としての重要性もあったものと思われます。
画像、街並みの様子がわかります。電柱があり電化が進んでいることはわかりますが、街灯は無い様です。
画面中央の建物は大きく立派な屋根の上に立派な物見櫓(やぐら)があります。
撮影者も何らかの櫓の上にいるのでしょうか、この屋根の上の櫓と同じくらいの高さで撮影が行われています。 |
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| 遠くに建物がいくつも見えます。農家のものでしょう。かなり大きな農村です。
綺麗に稲穂が揃っています。この地域の水稲は朝鮮半島移住者の開墾努力によるものです。 |
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| 『朝鮮半島と満州の国境の北部、琿春平野穀物の集散場として知られる。』
街並みには電柱も見えます。足元は白っぽく映っており、どうも水溜りでぬかるんでいるようです。 |
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| 土門子は古くからある町ですが、ほとんどの地図で省略されています。線路こそ敷かれていませんが、水の利を生かした稲作で発展をした町です。
『琿春(河)から紅旗河をさかのぼれば土門子街がある。多数の移民者が居る。』
交通はこれらの河を生かした水運が盛んだったのでは、と想像します。
遠くに民家が、手前は水をはった畑が見え、水田の様です。
またこのあたりはクリーク(沼)からの水を利用して稲作が行われていました。 |
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| 高低差が色分けしてあります。
土門子を赤く塗っています(地図の中央上)。琿春河が交通の要であることがうかがえます。
最初に示しました白地図では、土門子は省略されています。
ちなみに、先の白地図では琿春から上の方へ(東寧まで結ぶ線です)線が書き込まれており、あたかも線路が通っている様に書かれていますが、実際には線路はありません(今日も線路は通っていない様です)。
この地図はローカル線を細い線で、河を蛇行線で書いており、本来、河を描くはずの蛇行線を細い線で描き誤ったものと思われます。
地図には赤い線で線路が描かれています。満州国境を越えて線路は続き、雄基、そして終点は羅津です。雄基、羅津は、南の方にある清津と共に港があり、海上交通の要所です。 |
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| まずは地図から。
まず、これは
昭和5年で、最初に示した地図の様な線路は敷かれていません。
実際、延吉から朝陽川そして銅佛寺へ、さらに西へ線路が伸びています。
しかしこの地図はまだ計画段階で述吉(局子街)から北西へ線路が延びる予定として書かれています(白四角線は計画線です)。当初の予定と実際に敷かれた線路とでは随分と位置が異なることがわかります。
今一度線路を見てみますと、銅佛寺までで線路が途絶えています。またこの頃の銅佛寺への線路は、天図鉄道という軽便鉄道です。 |
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| 銅佛寺とその左に見える鉱山の地図マークについて、ここには銅山があります。この土地を撮影した画像は入手できておりません。戦前書籍の記述を掲載し、紹介に代えてまいります。 |
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| もう一つ、銅佛寺の左に見えた鉱山は天宝山で、銅佛寺と同様、満州で重宝された銅鉱山です。
これもこの地を撮影した画像を入手できず、戦前書籍の記述の紹介のみ、掲載いたします。
残念ながらこの地域の画像は未だ入手できておりませんので、昭和5年の図書の記述をピックアップして紹介することと致します。古くからイギリス資本による開発が成されていたことがわかります。 |
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| では、ここからは国境を越えて朝鮮半島の付け根(現在の北朝鮮)の風景を見てみます。
この地域は、満州から日本海へ抜ける玄関として交通の発展が顕著でした。
『京図線鉄橋
東部満洲と北部朝鮮半島を結ぶ国際大鉄橋。』
推量の多そうな川の上に立派な橋がかかっています。
橋の上を白っぽい服装の人達が行き来しています。
これは安東(朝鮮半島西側)の国境の橋でも同じですが、朝鮮と満州とは人が徒歩で行ききできたことがわかります。 |
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| 日本と朝鮮満州を結ぶ主要駅です。
手前の建物も立派なつくりですが、その左隣には近代的名印象の建物も見え、両方とも駅舎の様です。 |
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| 羅津港の様子です。
いままさに出発しようとする貨客船から別れのテープが見送りの人との間に投げられています。 |
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| 日本海に面して羅津以外にも日本を結ぶ航路がありました。
こちらの図はその航路を示す図の大陸側をクローズアップしたものです。
右から浦塩(ウラジオストック)、雄基、羅津、清津が
それぞれ右下のほうにある敦賀、左下の方にある門司、
神戸と海路で結ばれていることを点線で描いています。
ちなみに雄基、羅津、清津を結ぶ連絡船もありました。
大小いくつかの種類があったようです。この地を経て満州へ行ったジャーナリストの記述があります。
羅津へ向かおうとするジャーナリストですが、出発前似トラブルに見舞われます。直に出発するからと料金を払って船に乗り込んでもなかなか出発しない。船主にしてみれば、船を動かすなら満員になるまで待ってからの方が儲けはよりよくなるわけです。どうも日本人だからとぼったくられたふうでもあり、結局、ジャーナリストは早く出る船を捜して右往左往したとのことです。 |
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