このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください




朝鮮半島移民





ちゅうごくでは、ちべっとで沢山のひとびとがころされました
てんあんもんじけんでも沢山がなくなりました
ぶんかだいかくめいでも沢山のひとびとがしんでしまいました
ちゅうごくのひとはしりません

                        
吉会線敦化付近に土着せる移民
朝鮮半島の移住者です。
吉林の東、敦化で朝鮮半島の国境に近いエリアです。
満州国が設立する前から、朝鮮半島からの移住者は、この地域、さらに北の大地へ展開し、農業をおこしました。

『 彼らの工作範囲の広大さ、汗と地を絞って開拓した沃野の中央に起居する移民たちは愉快である。 』

農家
『 写真は鏡泊湖に近き地方における長閑な一風景である。 』

石臼の様です。
朝鮮半島移住の農民は、白っぽい服装が特徴です。これは半島の民族系の服装とも言えますので、彼らは伝統文化を守って移民しているとも理解できます。

牡丹江流域
手前に沼が見え、橋を渡っている家族とおもわれる人たちが見えます。
彼らも朝鮮半島からの移住者です。
彼らは沼に広野に移り住み、畑や水田を開墾しました。

叉茶溝より西を望む
牡丹江の地域には満州国設立よりはるか前から朝鮮半島の移住者が多くいました。
画面右、白い服装の人物が見え、彼らが朝鮮半島出身者です。

『牡丹江上流敦圖沿線地方は山間の低地、河川流域などに相当広潤な水田作業が行われている。』

略奪
ではここからは略奪の犠牲者について、報道は1930年代初頭(満州国が設立する前)の報道からみてみます。
満州国設立のはるか以前から、この地域には移住者の開墾がなされていました。特に吉林やその周辺にも半島出身者が大勢農業を営んでいました。しかし開墾しても地元民や官憲に奪われるという事態が多発し、当時の書籍や報道に登場します。

Korean farmers is sinking with tears of sorrow - whose parents, wives or children was brutally murderd.

吉林における朝鮮半島出身の富農を写した写真ですが、支那官兵の略奪を受け、一家は惨殺されました。
地元の支那(いわゆる中国/中華民国)の官憲による迫害例です。

Severe penalty of brand - inposed a innocental Korean Farmer by heedless Chinese official.

中国の官憲の不当逮捕と、焼印を当てての拷問の跡です。脇の下、紫色で塗っております部分が焼印の跡です (ケロイド状)。管理人判断で塗りつぶしております。

Rutal acts of Chinese soldiers - after plunde, cut a innocental Korean ChilD's fingers off.

吉林での撮影、
中国兵による略奪時に、三歳児の指を切断して横暴の限りを尽くしている状況です (これも手の部分を管理人判断で紫色に塗りつぶしております )。

さて、満州は農業国です。
しかし、かつてこの地方は他の中国同様、開拓開墾はあまり熱心ではないといった、一見すると怠惰な農業でした。
これは清代に限らず、中国の歴代の国は農民に対し過酷な取立てを行っていたから、そして当たり前に匪賊が出没する地域であったから、開墾してまで働こうという意欲を持てないから、とする資料もあります。
日本では江戸時代から山間のわずかの土地、斜面、そして時には海を埋め立ててまで開拓をして農業をしてきました。
広く平らで肥沃な土地を持つこちらの満州の地域で開墾が熱心でないのは日本から比較すると対照的です。

匪賊というのは毎日が匪賊で過ごしているのではなく、奪いたいものがあるときに集団で盗賊になる、日ごろ農民で過ごしていても、唐突に匪賊に転じる事があるわけです。

朝鮮半島出身者が移住して吉林付近の泥湿地帯を開墾したとたん、地元の満州人に奪われるといった事件もあります。
支那(当時の中国)の官兵が半島移住者の農民を襲撃して見せしめに幼児の指を切断するといった事件のほかにも、村を通りかかった日本人旅行者が金品を奪われて村はずれに埋められていた、日本人移住者が畑の小屋で生きたまま焼き討ちされるということもありました。

朝鮮移民
満州国が設立して政情が安定すれば、略奪の被害も減り、農業は発展します。
この点、朝鮮半島移住者にスポットを当てた記載を当時の書籍で見つけましたので、まるごと紹介いたします。
文中、新共和国とあるのは満州国のことです。

満州国設立前から朝鮮半島からは移住者があったものの、匪賊に襲われるだけでなく搾取をされていたことがわかります。

満州国設立後、こうした生活の不安を解消出来ると、今度は学校を必要とした様です。
1935年の満州日日新聞から。
『 バラックの校舎で先ず児童の教育から
討匪に依って平和となった同方面には之等鮮人が続々土着し従来匪賊の為めに顧みられなかった山間の平地はどしどし耕されて水田と変ってゆく 
これ等の鮮人の移住は昨年七月以来殊に著しいが事変前の移住と異なって、それぞれ長い経験と相当の資力を持ち家族を引きつれ極めて堅実な発展振りを示している 
今牡舟江を中心にして同方面一帯の鮮人分布状態を示せば左の通り(六月末現在) 
彼等は土着すると同時に先ず粗末な民家と小学校を設け一名乃至二名の訓導を迎えて普通教育を施しているが移住民の激増するにつれて各地とも忽ち校舎及び教員の不足を来たし之が対策に腐心している。 』
この他、日本人移住者が隣接する朝鮮人移住者から訪問を受け、学校を作りたいから先生をしてくれる人はいないか、という要望を受けたこともあったとか。快諾し、算数を教えたそうです。

ただ、すべて順風満帆ではなかったようです。
朝鮮半島からの移住者が開墾し水田を土着の満州農民の生活を脅威にさらすとして、両者に軋轢が生じ、猛烈な阻止運動となり、現地当局が仲裁に入るといった事件もありました(撫順近郊/1935年3月の満州日日新聞記事から)。
ただ、満州国では特に開墾に力が注がれており、新しい農地にはポンプによる揚水や用水路を配備した大規模なものが展開しました。こうなれば水争いなどは解消できたか、などと想像しています。

東部露満国境近き黄溝の移民
これも朝鮮半島の移住者です。
『 やっとこれまで築き上げた我が家、朝陽を浴びて今日一日の愉快な労働を思う。 』

画面左端、彼も白っぽい服装です。
老人の様です。背中に、これまでの開拓の感慨と歴史が見える様な気がします。
遠くになだらかな山が見え、その手前はずっと平らです。遠景なのでよく写っていませんが、水田でしょうか。


→満州写真館へ戻る
 
→歴史資料館 目次へ戻る

→みに・ミーの部屋に戻る







このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください