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開拓 機械化





ちゅうごくでは、ちべっとで沢山のひとびとがころされました
てんあんもんじけんでも沢山がなくなりました
ぶんかだいかくめいでも沢山のひとびとがしんでしまいました
ちゅうごくのひとはしりません

                        
農業開拓の流れを、非常に大雑把に述べてみますと、
まずアメリカの大規模開拓が成功、
日本で北海道の開拓はこの技術を参考導入して推進
満州では北海道の開拓の成功例を手本に導入して推進、
とまとめられます。

特に満州では機械化による大規模に開拓がおこなわれました。
地質の改良など大掛かりな作業で広い土地が農地に生まれ変わっています。
この満洲農業と農業機械についてはさまざまな検討や試行錯誤がなされました。
特に機械化については、北海道の農業指導者から転身した松野伝(奉天農科大学教授)の貢献が大きく、北海道で当時、実績のあった大規模農業以外を満州でもとの方針で推進がなされます。

機械化への期待は大きなものがありました。満州国開拓当時、農業の生産費の7〜8割が"労銀"(人件費)にかかっていました(ちなみに、その半分は除草作業に必要)。
実は満州の農業生産力の貧弱さは早くから指摘されていました。
満州国土の三割は農耕可能とされたである一方で、これらの開拓を進めても、農業労力は圧倒的に不足してしまうと予想されており、機械化にはますますの期待がかかっていました。
満州に関する資料では、"沃土"という宣伝がおおくなされました。つまり、十分に肥沃な土地だというわけです。実際にはアルカリ土壌など作物の栽培にはあまり適さないエリアもありました。
"家畜が多く飼われているので、その糞を肥料にして地力の維持は出来りであろう、しかし労働力だけは足りないのでは"という指摘は早くからありました。
この労働力の解消は機械化、というわけです。
もちろん、土壌改良も並大抵の労力では出来ず、機械の投入が必要でした。

機械が投入できない環境では、労働力はイコール苦力など人の力をさします。つまり労働者の頭数といって良いかもしれません。
この人手の話題で、ちょっと脱線します。
港湾の荷役も戦後もしばらくまで人手に頼っていました。
港湾にあるクレーンなどの荷役の機械があっても、荷主が荷物を船に積むためには機械の利用料を払う必要がありました。
その利用料が人を雇って荷物を積むよりも高かった時代があったわけです。昭和20年代後半になっても、港といえば港湾動労者がどっさり居るというのが割りと当たり前の風景でした。荷物を船に積む場合、人が運んだほうが安くつく、そのくらい機械は高価であったわけです。

満州国が設立されたころの農業機械の価格は決して庶民が手軽に入手できるものではありませんでした。
欧米、そして日本では農業に役立つトラクターが多数開発されていましたが、やはりこの価格は大きなネックであったといえます。

では、画像と共に、満州で活躍した農具や機械類で入手できております画像を紹介いたします。プラウ ( plough )、 ハロー ( harrow )、カルチベーター( Cultivator )や様々な機械が普及しつつありました。

プラウ ( plough )
まずはプラウから。
プラウは犂(すき)のことで、特に洋犁(ようすき)と呼ばれます。かぎ状のとがった形状のもので、地面を抉ります。
プラウの使用についてはwikiに詳しい記述があります。
『壌を反転させて新鮮な養分を地表へと運び、作物の残渣や雑草などを土中に埋め込んで腐食させることである。それは、土壌を空気に晒して、より水分を保ちやすい状態にすることでもある。』
とのことです。
写真は満鉄の撮影で撮影場所は不明です。
ずらりと並んだプラウの爪が、小さな草の生えた地面を大きく抉り、捲っている様子がわかります。横にいくつもの犂が並んで一気に広い地面を抉っている様は、さすが機械のパワーです。牛、あるいは馬が牽く場合、たいていこの犂は1本が多い様です。
当時のフィルムの感度の低さから考えて、もっと被写体がブレていそうです。綺麗に地面がめくれたところで一旦停止させてから撮影をしたのかも、と想像します。

プラウ ( plough )
広い台地を抉るプラウです。

ハロー中耕整地機
これは満鉄農事試験場での撮影です。
ひらべったい構造で、下側に小さく棒がいくつも並んで出ており、これで土の粉砕を行い、平らにします(プラウで起した土の粉砕と地ならし)。

写真は馬が牽くタイプです。
ハローにつきましてはデスク・ハローと呼ばれるものもあり、これは円盤が並んでいる構造で、ぱっと見、カルチベーターにもよく似ています。

こちらもハローです。
中耕整地機とキャプションがついています。
構造は先ほどのものと同じです。斜めに棒状のものが飛び出しています。
もしかすると、これで下向きの並んでいる棒の角度を変えるのか、とも創造します。
ちなみに機械で牽くタイプはもっと大きく、これは地方都市その4の、克山にて彩色絵葉書の画像で紹介しております。

カルチベーター(Cultivator)
トラクターに牽かれ土を耕す風景で、カルチベーター(Cultivator)です。。ただし、この画像はディスク・ハローかもしれません。農業機械に素人の私には、ディスクタイプのハローか、カルチベーターかの見分けはし辛く、またもしかするとディスク・ハローは両方の役割で使えるのかもしれません。

撮影場所は不明です。
ちなみに、牽引しているのは小松のG25です。
小型ですが有用な働きをした様で、日本国内でも非常に重宝された様です。
この小松T25のユニークな使い方として、千葉県浦安で、砂浜を耕し、アサリの種付け作業をすすめるという作業が実施されました。
NHKサイトの『日本ニュース』から船から降り、軽快に進むトラクターを動画で見ることができ、またカルチベーターが活躍しています。
こちら。
http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300447_00000&seg_number=002

カルチベーター
満州でも、北海道農法で実績のあるカルチベーター(Cultivator)が使用されました。画像は馬で引くカルチベーターで、満鉄農事試験場での撮影です。馬二頭で牽引することがわかります。
ずらりとディスクが並んでいますが、この写真ではわかりにくいのですが、このディスクは角度がつけてあります。

カルチベーターとは、いわゆる耕耘機(こううんき)で、土を耕す機能があり、作物の中耕・除草・土寄せ等、幅広く用いる農耕機械で、す。
あらかじめ耕された土で使用します(開墾前の土地で使用するのではなく)。
撮影した場所の地面は固いのか、ディスクは土に食い込んでいません。またこの写真では分かりませんが、ディスクは進行方向に対し、やや斜めに取り付けるのが一般的です。
これは大正期に北海道で導入され開発が進みました。
地面を耕す役割は勿論、大豆などの除草に効果を発揮しました。これは大豆を植えている畝の溝の部分をこの円盤で耕す(大豆が植えてある畝の山の部分を避けて、溝だけを掘り返す)事で、中耕と除草を一度に行うわけです(この農具がないと、鍬でずっと掘り返さなければなりません)。

北海道開拓は気候土壌の差はあるものの、満州国が出来た時点で日本の北海道開拓は七十年の実績がありました。
プラウ、ハロー、畔立器、カルチベーター、除草ハローと北海道で実績を上げた農具は満州開拓において魅力的です。
が、前述しましたとおり、これを購入するのは大変でした。
プラウ一台百二十円、カルチベーター百五十円という相場です。
比較的高給取りであった教員の給与が五十円、東京の浅草で天丼が三十五銭、映画が五十銭の時代です。

日本でも戦前と書を見ても、機械を用いた農業は魅力的であったことが分かりますが、普及したのはやはり戦後からで、当時の農林省が1950年より農業試験場で機械化の本格的な検討の開始、1953年の農業機械化促進法が制定されるなど、目覚しく発達していきます。
もうひとつ、昨今の話。農業をされている方に伺うと、今日、よほど広い土地を耕すのでない限り、プラウで地面をえぐり、ハローでならし、カルチベーターで耕して、畝を作る、といった手順は踏んでいないそうです。回転式の犂で一気に深く耕して、畝まで作ってしえるのだとか。農業機械の発達を感じます。

広野にうなるトラクター
広い台地を耕すトラクターです。
トラクターは後ろに農具を牽引しているものと思われますが、車両の陰で見えません。
地面が大きく掘り返されていることから、プラウを牽いているものと思われます。
このトラクターは、米国キャタピラー社のRD4、あるいはD4です。
米国でも1930年代で大活躍しているものです。

最初にも述べましたが、アメリカでは機械化による大規模農業が成功しました。
こちら
『Old Farming Photographs』  ←クリック
では、キャタピラー社RD4が掲載されています。l

Farming with an RD4 caterpillar tractor in 1938
ですが、三種類の農具を一度に牽引しており、パワフルさがわかります。

トラクターのすぐ後ろがプラウ ( 但し、刃は小ぶりです)、その後ろをディスク型のハローまたはカルチベーターが耕し、板で均しています。この一番後ろに牽いている板には重しとして土嚢の様なものが載せられています。
トラクターが1台、これを操縦する人員1名あれば、広い畑もあっという間に耕せることがわかります。

シレッシャーによる大豆脱穀作業
シレッシャーという装置を用い、大豆を脱穀中です。

当・満州写真館の満州農業その2でも同じシレッシャーを掲載しておりますが、同じ場所、同じタイミングで連続して撮影されたものです。
こちらの方がトラクターの後ろの作物の山が小さく見えますので、こちらが後に撮影されたものと考えます。
こちらのトラクターも米国キャタピラー社のRD4(又はD4)です。
トラクターは牽引だけでなく、こうした大型農具の動力源としても有用でした。

フォードソン
これは、農事試験場での撮影で、大正期に米国より導入され
北海道でも活躍したフォードソンの様です。

この角度からは分かりませんが、前側にはエンジンを始動させるハンドルがついています。

グレンドリルを牽くフォードソン
こちらも農事試験場での撮影、牽引しているのはグレンドリルと呼ばれるもので、種子を蒔く、あるいは施肥に用いられるものです。この写真では不鮮明ですが、グレンドリルにも1名が乗っている様です。

さてフォードソンは見た目はシンプルですが、当時としては高い信頼性で人気がありました。流石は工業国アメリカです。
このフォードソンのトラクターには無限軌道タイプ(キャタピラー)もあります。この無限軌道タイプは、日本陸軍で遠隔誘導する無人戦車の研究をする際に、車体のベースとして利用されています。

リーパー
では、さらに満州で用いられた農具を。

櫛の様なアームの並んだ、不思議な形態の農具ですが、これはリーパーと呼ばれるもので、小麦などの穀類を刈り取るものです。前に進みながら麦を刈り取り、堆積させてどさっと定期的に置いて行きます。これを用いることで、人力による収穫とは比較にならないほど高効率な収穫ができるようになりました。

麦などの穀物を刈り取る機械といえば、今日ではコンバインです。このコンバインの一番前の部分にあたります(コンバインには刈り取った麦や稲を束ねる機能がついています)。

軟土機
農事試験場での撮影。

鋤鍬機
プラウでしょうか。
先のプラウの様に土をえぐる刃先は並んでいませんが、
一本刃のプラウに車輪と人が乗るところがついている様に見えます。

草刈機
車輪があり、人が座っています。
進行方向に垂直に、櫛の様に刃が並んで見えます。

収穫機
これは写真では機能がよくわかりませんが、
後ろ車輪のすぐ左上あたりに、歯車やチェーンが見え、前へ進むと車輪から動力が伝わることがわかります。
もしかすると、先のリーパーで刈った穀類を回収するのかもしれません。

収穫乾草機
刈った草を放置して乾草(干草)をつくり、それを回収するのに用いたものと考えます。

苹果経済園薬剤散布(農事試験場熊岳城分場)
苹果(へいか、または ひょうか)はリンゴの実のことです。
リンゴの木へ薬剤散布風景で、馬で牽引できるサイズの移動可能なポンプが開発されていることが分かります。

広い台地に広がる農地と入植者の家族、麦か何かが植えられているようです。
画面右上、トラクターが耕しています。

さて、先にトラクターの紹介をしておりますが、トラクターは、どの程度の普及であったかは資料を見つけきれていません。

春になると拓務省からトラクターが来て農地を一気に耕してくれていた、あるいは入植に到着してみると、トラクターが来ていて耕している最中だったといった話もあります。
数が十分にいきわたったとも考えにくく、公的な機関が何台か持ち、あちこちへ派遣する形で活躍していた様です。


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