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満鉄





ちゅうごくでは、ちべっとで沢山のひとびとがころされました
てんあんもんじけんでも沢山がなくなりました
ぶんかだいかくめいでも沢山のひとびとがしんでしまいました
ちゅうごくのひとはしりません

                        
満鉄本社全映
満鉄に関しては、さまざまな書籍で紹介され、またインターネットでも記述が多くありますので、こちらでは満鉄の詳細は省略し、収集できました画像の紹介を中心に進めてまいります。

『南満洲鉄道株式会社の本社は市※の東南、東公園町に幾棟かの壮麗な建物を接続せしめた、尨然(ぼうぜん)たる大商事会社である。
四億四千万円の資金と六億数千万円の社債とを運用し社員約4万人、毎月支払う俸給額三百五十万円を下らず、満蒙の教育、衛生、社会施設の如き文化事業のために貢献する資金は、年額一千三百万円に及ぶすばらしさである。
おそらく東洋第一の大組織であろう。
この満洲鉄道株式会社は、ポーツマス条約によって露国から割譲された南満鉄道の支線と付帯事業の経営に当たる半官半民組織のもので、資本の一半は政府より総裁と理事者は政府任命、一般会計は会計検査院、大蔵省、拓務省で管理する。』
※大連市です。

画像は大連の満鉄本社の全景です。
手前の建物を、当満州写真館の大連に掲載しております。

満鉄
『 東洋一を誇る満鉄
大連港を呑吐口とする背後満蒙の大動脈として資源の開発に文化の普及に偉大なる貢献をしつつあるものは、いうまでもなく満鉄である。
港湾、製鉄、炭鉱に広範なる業務を管掌し、顕著なる成績を挙げつつある。
元来、南満洲鉄道経営の権利は日露戦役により支那政府承諾の下に譲り受けた。 』

画像は満鉄奉天事務所

満鉄
さらに報道から
『 建築数は合計二千六百戸この建築費千七百五十万円、本年に入ってからの建築家屋で竣成及び現に工事中のもの合計二千二百戸、この建築費三千万円、 』
とあります。なるほど、貿易の輸出超過が輸入超過に一時的に逆転するほどの勢いが伺えます。
海運業も各地のヤマトホテルもなかなか赤字から脱却できなかったようです。
1935年までに大連港への投資が七億9千万円。この投資が満州を一大農産物、工業生産の輸出大国の源となったわけですので、十二分に元は取れた投資だといえます。
この他、創業以来の鉄道は1937年までに学校図書館公会堂、都市建設に満鉄が投じた費用は4億円と、国造りにも大いに投資されています。

画像は満鉄新京支社。

『 その昔、この地の農民は有名な貧窮階級であったが大農法による農産物の増収によって労働者は友を呼び集め来て荒涼としていた原野はすくったような耕地と化しそこに新都市が建設され、加工の工場が並び立ったのである。
その昔の露西亜人経営時代に於いては和蘭人(オランダ)が東印度(インド)に臨むと同じく満蒙の土着民との接触を禁じ孤独な生活をしていたから沃野千里を徒に荒廃に帰していたのであったが、我が満鉄会社では我が国民の移住者と心を協せて
満蒙民と共存社会の建設の為にあらゆる文化施設をなし、指導を怠らず、経営に十数億円を投じて新都市地区に
約八割強の満蒙民を収容せしめているので、今日では既に血なまぐさい戦場の臭いは失せ殺風景な馬賊の住家もないのである。
新満蒙共和国満州では我に倣ってあらゆる民族を平等に包容して、共存共栄の理想的文化国を建設せんとして急いで居る。
なにも国土※の狭い内地で失業難を呪い兄弟いさかい争うて不愉快にすごすことは無い。 』

戦前書籍に見る満鉄黎明期の記述です。
線路の確保、のみならず最初から文化施設(近代化)の任務を負っていたことがわかります。

画像は満鉄哈爾濱事務所です。
この建物は日本総領事館であった時期もあります。

いよいよ開拓が盛んになると貢献してきた実績の紹介が登場します。

『 偉大なるその使命
かつては維持不可能とみられアメリカ資本団に売り渡そうとした南満鉄道は、この会社の創立によって日本人の手に保留しえたのみならず、創業に際し、当事者その富を得て、貧弱な狭軌のぼろ野戦鉄道は忽ち(たちまち)東洋一の米国式広軌鉄道に改築され、毎日、ブルマン・エキスプレスすら運転するようになった。 』

画像は満鉄斉斉哈爾事務所

実際に産業を起こし、文化都市を築いた際の記述です。
本渓湖の記述です。

『日露役当時、人口漸く(ようやく)二千を算える(かぞえる)山間の石炭町が、県庁所在地となり一万以上の人口を擁し(ようし)、巨大の煙筒と三基の溶鉱炉から間断なく吐き出す白雲黒煙は天に冲し(ちゅうし)、洋風の大廈高楼(たいかこうろう)密集し、上下水あり、公園あり、学校あり、病院あり、あらゆる文化施設を整えた都会となったのも、満鉄の投入した二千万円の資本の賜物である。』

満鉄施設の内、科学的なアプローチを大規模に行い近代化に貢献したものとして、農事試験場が挙げられます。
既に満鉄農事試験場の頁にて紹介しておりますが、さらに画像にて紹介してまいります。

豪州輸入羊到着状況 
 
農事試験場では、農作物、家畜の品種改良が行われました。

特に羊については各国で飼われているものを研究、掛け合わせていました。
こちらははるばるオーストラリアから羊が届いたところです。
船にぎっしりと羊が見えます。

品種改良後、爆発的に飼育数は増えたそうです。昭和7年当時、満州での羊の飼育数は二百五十六万頭でした。ちなみに同時期の日本での飼育は二十万頭で、満州は日本の十倍以上の羊がいたわけです。

綿羊舎
公主嶺の綿羊舎です。
4階建て相当の大きさに見えます。

宇垣前総督視察
これは公主嶺での撮影ではありません。
順川郡城岩里での撮影とあり、朝鮮半島です。 

綿羊舎
綿羊舎の内部です。明るく清潔そうに見えます。
窓の形から見て、先程の順川郡城岩里での撮影でしょう。

純血アラーブ種牡馬
改めまして、公主嶺での撮影。
アラーブ種(アラブ種)とあり、これは競走馬で有名なサラブレッドより小柄です。乗っている人とひかくしましても そんなに大きい馬ではないことが判ります。また、この品種は、あまり早く走れません。ただ耐久性に優れ、農耕に向いています。

昭和7年当時の資料から
『満蒙の地は良駿(りょうしゅん)を出す自然の産馬地である。全て蒙古系である。粗飼に堪え持久力に富む。満蒙で二百五十万頭。』
ちなみに同じく昭和7年当時、日本では百四十九万頭が飼われていました。 

種採取場
種を採取するための畑で、何種類かの作物が見えます(撮影場所は不明ですが、恐らく公主嶺です)。 

萬家嶺農事試験場
農事試験場は公主嶺以外にも設けられました。
稲作を初め、様々な農作物の試作は満州のあちこちで行われていたようです。

さて、こちら、萬家嶺の農事試験場です。
公主嶺の様な、大きな塔のある建物はありませんが、右端に大きな建物も見えます。
撮影者は斜面の上から見下ろすようにカメラを向けています。
画面下半分に、その斜面が見え、木が植えられていることが判ります。
こちらの写真は、萬家嶺蚕場というキャプションが付けられているものがあり、蚕の試験をしていたことがわかります。
手前は桑畑、右の大きな建物は蚕の越冬用ではないかと想像します。 


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