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鏡泊湖 開拓





ちゅうごくでは、ちべっとで沢山のひとびとがころされました
てんあんもんじけんでも沢山がなくなりました
ぶんかだいかくめいでも沢山のひとびとがしんでしまいました
ちゅうごくのひとはしりません

                        
鏡泊湖
鏡泊湖という湖に、開拓団が入りました。
場所は、吉林(地図左)、牡丹江(地図上)、そして朝鮮半島の港(右下)から等距離にあり、一見、立地はよさそうですが、山がちで、開発当時は僻地でした。

鏡泊湖移民地 北湖頭港の全景
『 鏡泊湖を中心とする大区域は移民適地として知られている。
 鏡泊湖移民事務所国士舘、 鏡泊学園の同人は、近時非常な活躍をしている。※
其の道の専門家も言っているが、水稲はこの地方がもっとも有望である。 』

鏡のような湖面のそば、大型テントから煙があがっています。
周囲はなだらかですが斜面です。
※の国士舘については、下のほうにて記述します。

船着場をクローズアップ、湖がなければ、まるでアメリカの西部開拓の様です。

鏡泊湖移民地  石頭河、鶴見支隊主力露営の光景
開拓団、野営の様子です。
手前は畑でしょう(大豆?)。

鏡泊湖学園実習農園予定地

鏡泊湖移民地小山

鏡泊湖石頭河船着場と今まさに着かんとする水上輸送船

満州へ開拓を目指した移民団は、地方自治体や拓務省、そして各種団体が募集していました。そして様々な職業を経験した人たちが現地へ入植しています。

こちら鏡泊湖では珍しく、国士舘中学という学校が関与しています。これは旧制中学の国士舘で、現在の東京都世田谷にある国士館大学及び中学校の前身です。

1933年4月 - 国士舘関係者により、満州国に鏡泊学園が設置されています。
設置にあわせ満州へ渡る学生の募集がなされ試験を受けて合格したものが満州は鏡泊湖方面へ渡っています ( 試験は作文と面接であったらしく、一般の中学の入試とは様子が異っていた様です )。
ちなみに入学金が三百円であったそうで、これは比較的高給取りであった教師の半年分半年分給与にあたる大金です。
この第一期生は二百名でした。

場所は、駅のある町から馬車で二泊三日かかっています 。

ただ、開拓はうまく進まず、匪賊といわれた原住民らに襲撃・略奪を受け、頓挫した経緯があります。
第二次 ( おそらく翌年の1934年 )も同様の襲撃を受け、
食糧不足に至っています。とうもろこし、豆の備蓄では足らず、米は欠乏、野草まで食べ集団で赤痢を起こし、全滅の危機であったそうです。
その後、三次、四次、までは渡満していますが、どうもそこまでで中止らしく、鏡泊湖からほかの場所の開拓団へ移動するなど、順調とは言いがたい状況となります

当時の開拓関連の資料を紐解くと、こういった開拓を行うという政策に対し、当時、開拓民を送り出す側には少なからず、杜撰 (ずさん)な印象を持つことがよくあります。
お役所仕事とでも言うのでしょうか、国民を煽って募集して現地へ送り出すまでが仕事で、送り出したあとの事は現地に行った人が自分で考えればい、といわんばかりの印象です。
特に食糧不足がおきるというあたり、当然送り出す側が想定して然るべきだ、というのは、今日の感覚でしょうか?(開拓に入るということは、農業をあらたに始めるわけですから、収穫が得られるまではあらかじめ準備した蓄えしか食べるものが無い/この傾向は戦後の農業開拓関連でも散見されます)。

鏡泊湖に話を戻しますと、鏡泊湖に残った学園の人員に対し、1936年には解散してはどうか、との打診も出ていますが、学園側は粘り強く説得、残留が決定しています(学園そのものは解散し、支援はこの時点で無くなったことになります)。
作物は、水田、大豆、とうもろこし、麦、馬鈴薯、白菜、大根を栽培、家畜は豚に加え、満鉄から羊や馬の寄贈も受けています。こつこつと地道な開拓が進みました。

ちなみに、湖の周囲は豊かな自然環境がありました。当時の資料にも、にんじん(朝鮮人参?)、鹿や猪などの野生動物、蜂蜜、さらに山葡萄(野葡萄)、山査子が挙げられています。
そして、湖では、豊富な種類と量の魚が取れ、開拓村の蛋白源となっています。冬場でも氷を割り、魚を追っています。


鏡泊学園からやや離れたところ(約30キロくらい)に開拓義勇軍の訓練所が設けられ、三千数百人が投入されています。農業を行う場所としては有能なのでしょう。また1940年に入ってから、漁業開拓団もあった様です。これは開拓義勇軍とは別の様ですが、現在、資料を見つけきれておりません。

画像は、鏡泊湖での漁の風景ですが、移民ではなく地元民の様です。大きな魚が引き上げられています。


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