| 愛川村の移民は、大正初年に関東府の福島安正氏の旗振りで推進されています。
この福島氏は、長野県松本市出身、1892年〜93年にかけてロシア・シベリアを単騎横断しており、このときの経験が、大陸へ移民を展開を推進するベースとされます。
愛川村は邦人計画的な移住農村の最初としてがありました。
山口県下愛宕・川下両村の農民が動員されています。
この愛川村移民は、満州移民のさきがけであり、そして今日では成功した移民の例として理解されている印象があります。
しかし、戦前図書での実態の紹介では、相当な紆余曲折があった様です。
当初から、農業移民の実験(試験)としての位置づけがあり、政策(国策)
がある以上、失敗は出来なかった、なので、当初から官民合わせて補助などが行われた、と考えられます。
しかし、それにもかかわらず、なかなか軌道にのっていませんでした。
満州産業体系 (昭和8年) の記述から引用します。
『 愛川村移民
これは大正初年関東府の計画に係るものである。
初め、金州城の北、魏家屯一体の土地二百七十五町歩を六区に分かち
日本人5名、地元民1名に貸付していたが、大正二年、福島都督((当時の関東庁)此地に日本人農村を設立することを採用決定し、之が土地を先づ回収したのが計画の始まりであった。
乃ち水田を経営させる方針で、土地改良工事を行い、大正四年春、十九戸(山口県十八戸四十六人、新潟県一戸二人)の応募農家を受けいれた。
之に対し、家屋を給し、農具を貸興し、当初は共同耕作として作業開始をしたが、初年秋の収穫は不成績であったので、その後、農地を各戸に分割し、随意に自作せしめた。
然し初年の収穫不良に早くも退去者十九戸内十六戸に及びその後補充も行われたとはいうものの、年々、離村者が絶えず、現存戸数は七戸にすぎない。
元来、愛川村は水田を以って本とする計画に出発したのにも拘わらず、過去十数年における最大困難は灌漑用水の不足であって之がために、年々の農作上、悪結果を反映するばかりであったが、其後、豊富な地下水利用策が発案されてからは好望に転じつつある。 』
大正時代から紆余曲折があり、離散者まで出ています。水田をつくろうとして水不足に至るという、なんともお役所仕事的な杜撰さを感じます。
また、愛川村へは、大勢の視察団体が訪問したそうです。と、いうことは、最終的に成功例としての宣伝できるまで発展できたということでしょうか。 |
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| 広々とした、区画の整った水田が見えます。
この写真は、愛川村を紹介する際に必ず登場する写真で、撮影は昭和5年よりも前と思われます。
写真のキャプションを二種類紹介いたします。
昭和5年:
『 新興の水田
満洲から米が取れるといえば或いは驚く人もあるかもしれない。
が目下すでに二百万石内外の米がとれるのである。
将来三千万意志内外の米を収穫することはさほど、困難では無いといわれている。
本写真は関東州の金州管内愛川村における邦人経営水田の写真である。 』
昭和8年:
『 関東洲愛川村水田
愛川村は、山口県下愛宕、川下両村出身の
移民者によって命名されたものであって
内地人最初の移住農村である。
近年水田面積三十余町、畑地面積十九町余りあり、地下水利用策が発案されて以来、
水減の憂いの無いことも確かめられた。
図は愛川村水田の遠望。 』 |
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| 馬車からこぼれんばかりの収穫物を前に記念撮影です。
写真が不鮮明のため判断が難しいのですが、作物は稲でしょう。
右の二名は日本人ではない様に見えます。
苦力でしょうか。
当時、農作業は、苦力が欠かせず、苦力も仕事を求めて隣国中華民国から満州奥地まで移動していました。 |
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| 穂先を回転するドラムとその突起で叩き、脱穀している風景です。
この脱穀機は日本製でしょう、日本国内で用いている形によく似ています。左足でペダルを踏み、輪で動力を伝えてドラムを回しています。
右後ろに、作業を見守る女の子が見えます。エプロンをしている様です。白い前掛け(エプロン)は、戦前から戦後にかけて女児の定番の衣装でした。長谷川町子の漫画『 サザエさん 』でも古い巻ではわかめちゃんがこのエプロンをしています。 |
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| 子供たちとならんでのスナップ撮影です。
特長ある建物が並んでいます。
非常にごつごつした表面を持つ壁の建物が見えます。
窓が見あたらず、これらは倉庫かもしれません。 |
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| クローズアップです。
小さな子供たちが5人写っています。 |
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