| ここでは苦力その2として、苦力の姿と、大連にあった彼らが暮らす施設について紹介します。
画像は豆粕を運ぶ姿です。大豆、豆粕という満洲の特産品の輸出は彼らが担っていたといっていいでしょう。石炭も苦力の手で(つまり人力で)積まれていたと記述した資料もあります。今日の様な港湾の機械化は、当時は望むべくも無く、やはり人力が頼りだったわけです。 |
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食事も簡に済ます苦力たち
PICTURE OF THE COOLIES TAKING DENNNER |
| 苦力の食事風景です。
遠くに柱が幾つも見え、ジャンク船の波止場であることがわかります。
ちなみに、この絵葉書のキャプションには、COOLIESとあり、英語の綴りがわかります。 |
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| クローズアップします。
左下の人物がみなの食事の面倒を見ている様に見えます。
食事の内容まではわかりませんが、大きなどんぶり、お箸が見えます。その場にある適当なものをテーブル代わりにしているさまです。
苦力達は皆、顔が真っ黒です。また、以後の写真もですが、皆、髪の毛を短く刈り込んでいます。 |
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| 『 埠頭に見る苦力達のあのすばらしい労働力、その苦力達のために設けられた、一台宿舎街が寺兒溝 ( 寺児溝 ) の一角にある。名づけて「碧山荘」という。総坪数三八、三七七坪、建坪延数一二、○○○坪、という広大なもので、優に一五、○○○余人を収容することが出来る。また荘内には物品配給所、治療所、浴場、劇場、寺廟までありて彼らの生活をより明朗化している。 』
大きな時計を持つ門が見えます。時計は四方にあるのでしょう(10時35分をさしています)。
門をくぐると、幾つもの寮がずらりと並びます。
これは苦力を集め仕事をあてがう福昌華工会社の収容設備です。
これは、労働環境改善というだけでなく、明治44年に南満洲にペストが大流行しました。そうした疫病対策として、収容所を作り、より快適な生活環境を与えることで疫病にたいする予防としていました。
これは埠頭の荷役作業に大勢の苦力を必要とした大連ならではです。
農閑期に大勢の人が苦力になって日雇いの仕事に就いたそうです。おそらくここで寝泊りしたのでしょう。 |
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| 大きな門をクローズアップ。
行商人と思われます荷車とそれを囲む人々が見えます。食べ物やさんでしょうか。 |
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| たっぷりと水が出ている様子です。早朝でしょうか、周囲の服装をみても寒そうに見えます。
蛇口が見えませんが、一方でそれぞれの配管の上にはガラス窓があります。恐らく窓の中に係員が居て、バケツをセットしたら内側から水をどっと出す仕組みではないか、と思われます ( 雑誌、『満洲グラフ』に掲載のもので、苦力の実力を様々、紹介しています )。 |
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| 何人もの苦力がお湯で顔を洗っているところです。
先ほどと同じバケツが見えますが、こちらはお湯で、湯気がもうもうとたっています。
洗い場なのでしょう、右伊へ向けて排水できる様になっています。これが戦前という点を鑑みても、沢山の綺麗な水で体を清潔に出来る環境というのは大きな近代化だと考えます。 |
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| 碧山荘の資料がありましたので、紹介します。
こちら。
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至れり尽くせりの施設です。
どうも満洲の地方の野原に移民で入った日本人よりも生活環境はよさそうです。 |
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