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阿弗利加南米航路新造船 報国丸
総トン数一万五百トン速力21_5ノット |
| 報国丸です。
これはwikiにも詳しく載っています。
かいつまんで船を紹介しますと、東アフリカ航路や南米航路など長距離航路の拡充の為に建設された高速大型船のひとつです。
俊足ライナーで、且つ豪華な内装が売りでした。
姉妹艦は愛国丸です。
こちらは貨客船時代を描いたものです(愛国丸も同じアングルで、客船として就航している絵葉書があり、塗装や日の丸のつけ方はよく似ています/未入手)。
またこの船は姉妹艦と共に有事(戦時)の徴用を前提として建造されました。
その為、南アフリカ航海を行ったのは1度きり、南米へは行かずじまい。それ以外は大連航路についていました。
煙突を見ますと大阪商船のマークが見えます。 |
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| こちらは報国丸の高級スイートルームで、「奈良」と命名されています。ちなみに愛国丸の高級スイートルームは「京都」と命名されています。
報国丸は開戦と共に姉妹艦の愛国丸と共に海軍に徴用されます。輸送船としてではなく、多数の大砲を載せて特設巡洋艦、つまり軍艦として活躍します。
大砲は、14センチ砲8基8門,8センチ高角砲2門,25ミリ機銃4門、魚雷発射管の連装を2基(計4門の魚雷発射管がある)。愛国丸も同じ武装でした。
球磨型軽巡洋艦が14センチ砲7基7門ですので、如何に重武装かがわかります。
報国丸、愛国丸は、こうした軍務、しかも巡洋艦としての任務を視野に入れた設計がなされています。三等客室も軍事転用しやすいように予め設計されていたそうです。おそらくは砲弾などの物資置き場に、且つ、それらの搬入搬出に便利な工夫がなされていたのではないかと考えます。
報国丸ですが、敵艦との交戦で被弾、沈没しています。
ちなみに、姉妹艦愛国丸は報告丸と違い、民間航路に就航する機会がないまま軍務についています。先に愛国丸の同じアングルでの民間航路就役を描いた絵葉書がある、と紹介しましたが、想像図ということになりますね。 |
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| では大連〜神戸以外の航路を。
満州へ渡るには、朝鮮半島の釜山から列車で移動するルートがありました。
ではここで、下関と釜山を結んだ航路で活躍した船を取り上げます。 |
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| 『朝鮮の南端に位し、朝鮮海峡の西水道を扼して(やくして/要所を占めること)天然恵興の良港をなしている釜山は、東亜の関門として旅客の往来、貨物の衆参の焦点である。絵は金剛丸。』
鉄道省建造の関釜連絡船です。
日本と朝鮮半島を結ぶ大型船で、朝鮮半島の金剛山にちなんで名づけられた船です。内装も朝鮮仕様であったそうです。
そして博多と釜山、下関と釜山を結びました。
太平洋戦争時に博多湾で機雷に触れ、博多湾内の能古島に座礁してしまいます。この時の機雷はB29が投下した航空機雷であったとされます。また戦後引き上げされ、修理されています。 |
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| スタンプのところをクローズアップ、色を鮮明にしてみました。
プサンの観光記念スタンプです。
さて、この関釜連絡の取材で、金剛丸について、戦時中、デマが飛んでいたことがわかりました。米軍の潜水艦の攻撃をうけたというものです。
当時中学生だった方が朝鮮半島の家族のところへ渡ろうと下関で汽車を降り、関釜連絡船へ向かおうとしたとき、行き先を聞いた下関駅の駅員が耳打ちをしてくれたそうです。それは、「今、対馬海峡は危ないので、半島へ渡るのは延期したほうが良い。あの金剛丸も潜水艦に魚雷4発を喰らい、轟沈した。」というものでした。
この忠告を受け渡航をあきらめたため、生き延びることが出来た、下関駅員にはお礼を言おうと思って、そのまま出来ていない、とのことでした。
が、実際には金剛丸は機雷に触れたための被害であり、さらに轟沈はしていません。しかし金剛丸が行き来した航路ではアメリカ潜水艦の攻撃による犠牲が出ています。これらの情報が錯綜していたことがわかります。また当時のマスコミの被害報道がちゃんとなされていなかったことも背景としてあげられます。また、金剛丸に魚雷が4発もというあたり、大きな船ですから、1発や2発ではないだろうという思い込みが一人歩きしていた、ともいえます。 |
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| では、ちょっと下関についておさらいをしてみます。
航路は、下関からは釜山へ、大連へは門司からが主だったようです(勿論、逆もありますが)
ですので、九州の旅人が朝鮮半島に渡るには下関へ移動するのが便利です。その際に用いたのが関門連絡船です。下関と北九州を結ぶ連絡線の桟橋です(大陸や半島の桟橋とは別です)。
当時、下関と九州は鉄道連絡船でつながっていました。
神戸で船に乗り、大連に行く航路を紹介いたしました。もし、そのまま下関まで列車で移動して大連航路に乗るには、この関門連絡船を経由して門司へ渡る必要があります。 |
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| クローズアップ
白い連絡船は船体に門司丸と書いてあります。
手前、手漕ぎの船に作業員らしき人が乗っています。船には○○サルヴベヱ−ジ(サルベージ)とかかれており、この最初の二文字が判別できません(東京、あるいは日本サルベージではと推測します)。
下関と門司はほんの目の鼻の先ですが、当時はいちいち船に乗って(鉄道は鉄道連絡線に乗せて)移動していました。
今日、下関から九州へは関門大橋(高速道路)、一般道路の関門トンネルとそれに平行した歩道トンネル、そして鉄道のトンネル、新幹線のトンネルで繋がっています。連絡船もありますが、小型の船です。 |
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| 満洲丸です。撮影は、朝鮮半島の北側の付け根(現在の北朝鮮)、ロシア、満州の国境近くにあった港、清津での撮影です。
この付近には清津港・羅津港・雄基港があり、羅津港につきましては、当HP満州写真館「地方都市その6」にも若干ですが掲載しております。
さて満洲丸は、最初は高麗丸(こままる)で、鉄道省で作られた鉄道連絡船です。後に民間に売却、満洲丸と名前を変えて朝鮮と満州の国境付近(現在の北朝鮮)と日本を結ぶ路線に就航しています。
これもwikiに記述があります。
ちなみに鉄道連絡線とは、鉄道会社やその関連会社が管理運行をするものを指します。鉄道の貨車などを積み込んで運ぶ船が一般に鉄道連絡線として知られますが(青函連絡船など)、そうした船でなくても鉄道省管轄であれば鉄道連絡線と呼ばれます。
高麗は朝鮮半島にあった国で(高麗王朝)、高麗丸の姉妹艦も新羅丸という半島由来の名前となっています。就役する国の歴史や名称を尊重していたことがわかります。
高麗丸は北日本汽船に売却され、改修を受けて満洲丸として就航、敦賀と朝鮮半島の清津港、そして羅津港、雄基港を結びます。後に北日本汽船の日本側は敦賀から新潟へ移ります(敦賀はひきつづき大陸の玄関として活躍します)。この日本汽船は、日満を結ぶのに安く且つ早いのが売りでした。どの程度安かったのかは興味があります。
朝鮮半島の東側の鉄道の発展で港の利便性も向上したものと思われます。また満州東部の開拓が進むにつれ重要度を増した航路であったと言えます。 |
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| クローズアップ。
出港する船から紙テープが渡されています。
白い線が何本か見えます。また船体には、他の船の様な船名の記載は見えません。
ただ、満洲丸には、これ以外のペイントがなされている時期があります。たとえば船体に「 ま ん 志 う 丸 」と大きく書かれている時期があります。
また、この角度ですと煙突のマークがわかりませんが、煙突の横に"日"の字が書かれていた時期があり、そのマークであろうと思われます。これは北日本汽船の "日" をさすのでしょう。
さて、清津、羅津、雄基などの港で下船して満州方面の国境を越える際は、当然ですが、手荷物税関を受ける必要があります。
これはそれぞれの港に出張所があり、利便性が図られていた様です。
手荷物検査では、煙草、織物、宝石、酒類などがチェックされました。持ち込み、持ち出しに制限があった為で、これらは厳重に行われました。
ここでは北日本汽船についてふれましたが、それ以外の航路もこの港を利用していました。
大阪商船も神戸発の船がここの港を利用しています。ちなみに大阪商船パンフレットによりますと、神戸から清津で二等が42円(三等が17円)、下関から乗ると清津が二等が37円(三等が15円)です( 昭和15年 )。ちなみにパンフレットには一等の価格が記載されていませんでした。もしかすると一等を持たない客船が多く配置されていた路線である可能性もあります(つまり高価な船室を利用する旅客のニーズが無い)。 |
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| では港をみてみましょう。
清津港です。
大小さまざまの船が見えます。
左下のほう、護岸工事が行われており、港は拡張が進んでいる様です。
大きなサイズでご覧になる場合はこちらからファイルをダウンロード願います、
こちら●
そのほか、左、中央、右側の一部をクローズアップ、
特に中央は、満洲丸が停泊していたと思われますあたりです(岸壁がへの字に曲がっていて、大きな屋根の倉庫がある)。
こちら●
こちら●
こちら●
ちなみに日本の神戸港などで軍艦が出入りする場所は要塞区域として設定され、写真撮影が禁止されていました。これは当時の旅行パンフレットなどにも注意が記載されていました。が、こちらの清津港は全景が撮影されており、対照的に感じます。おそらくは場所的に空襲がない、そして軍艦が出入りしていない、といった事情でしょう。 |
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| さて、港に伴い線路が敷かれ、立派な鉄橋がかかっています。この鉄橋は別ページでも紹介しましたが、こちらでは橋全体がわかるアングルで。
港、そして航路は、こうした線路の完成によりさらに発展したものと考えられます。
「図門は図門江の左岸にあって京図線の終点、新京まで約五百四十七キロ。図門江には新装美しき国際鉄橋が架かり、渡れば朝鮮、成鏡本線に連結している。」
( 注:図門の門は、正確には們 ・ 人偏のイに門 ) |
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| 大きな港に入る大きな船は船舶会社が運営し、運賃も航行スケジュールもサービスも安定したものだったようです。
が、民間では、いわゆるぼったくりというか、行きたいところへなかなかたどり着けないということになっていた様です(今日においても海外旅行でタクシーを用いると、いわゆるぼったくりに合うケースは少なくありません)。
こちら、清津から羅津という近くに隣接しあう港を連絡する漁船へ乗った際の体験談です。
(「民族の緯絲」湯浅克衛著 育生社 昭和17年刊から)
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| さて、ここまで主な航路、大連〜神戸で活躍した船、下関から朝鮮半島の釜山経由の船、新潟から朝鮮半島の清津の清津経由を上げてまいりました。
これらは主な航路で、勿論、これら以外にも様々な航路がありました。
こちらは大阪商船の大同丸で、大阪と朝鮮半島の羅津をつなぐ(日本海から瀬戸内海へぐるりと回りこむ)航路で活躍しました。
大同丸は太平洋戦争時に大砲を乗せ砲艦として活躍、また輸送船として最前線で活躍しました。他の多くの輸送船同様、米軍の潜水艦により撃沈されています。 |
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| 満洲時代の、主要航路以外の航路を取り上げています。
満州の海の玄関として古くからある営口は、既に別のページで紹介しておりますが、こちらではいくつか写真を追加して紹介いたします。
営口については当時の書物にも、港内は浅く三千トン以下の船のみ運行可能、また冬の間4ヶ月程度が結氷により使用できない、とあります。
また海から24キロほど遡った所に港があり、船の運航においてはあまり便利そうではありません。
『営口は、昔は満洲唯一の貿易港であったが、今は大連にその勢力を奪われ、昔日の如くではないが、尚、ジャンクの出入、繁く遼河流域の物資集散地として栄えている。』
さて、戦前の地図に、海の部分へ航路を書き足したものがあり、その中に鹿児島市から営口への航路を示すものがあります。詳細は不明です。定期便なのか、どの程度の頻度で行き来していたのか興味があります。ただ営口へ入港するということは大型の船ではない筈で、東シナ海ではさぞ揺れたのではと想像します。 |
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| 板や簡単なはしごを渡しただけの簡易な桟橋です。
また岸壁に近づけるのは小さな船だけの様です。 |
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| 港が栄えるにあたり、やはり鉄道が活躍します。
こちら、満州国時代に整備しなおされた営口駅です。 |
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| 大連と当時の中国(青島、上海)を結んだ船です。1913年進水。
この船は最初、満鉄が建設をして運営をしましたが最初は採算が取れず大きな赤字となっていました。しかし、この航路は満洲の地域の交通に重要であるとの判断がなされ、採算は考えず運行されました。結果、運営も順調になり、満鉄は海運業を子会社の大連汽船へ譲ります。
榊丸も、大連汽船へ移籍します。 |
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| 大連汽船の本社ビルです。
昭和9年当時は
資本金 : 25,700,000円
所有船舶 : 55隻 ( 6隻建設中 )
総トン数 : 200,000トン
でした。 |
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| いなみに、大連の汽船会社の昭和5年当時の撮影です。
洋館が移っていますが、良く壁を見てみますと、先の写真の右端にちらりと写っている建物であることがわかります。屋根の上に塔があって周囲を見渡せます。
先ほどのビルは、この時点では空き地の様です。 |
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