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満州交通 船舶その3





ちゅうごくでは、ちべっとで沢山のひとびとがころされました
てんあんもんじけんでも沢山がなくなりました
ぶんかだいかくめいでも沢山のひとびとがしんでしまいました
ちゅうごくのひとはしりません

                        
さてここから、当時の客船の内装をピックアップしてみます(満州周辺航路に限らず)。
ここでは一等二等三等それぞれの船室を紹介、当時の雰囲気をごらんいただければと存じます。
先にも述べましたが、残念ながら画像がわずかしか入手できておらず、同一の船での一等二等の比較は出来ておりません。

世界一周新造船 あるぜんちな丸 一等社交室
初代の、あるぜんちな丸の内装です。先の八幡丸とおなじく優秀船舶建造助成施設の援助により建造された船です。名前はあるぜんちな丸ですが、シンガポール航路に就きます。その後、太平洋戦争勃発の頃、大連航路へ転配しています。南米航路へは就かずじまいでした。

一等船室ならではの社交室です。ここでくつろげます。豪華な内装が目を引きます。ピアノもありますね。

戦争が始まると日本海軍に売却、航空母艦海鷹となります。そのため艦橋は撤去され、航空甲板が作られました。
これら一等室は空母になってからは残っていなかったものとおもわれます。

世界一周新造船 あるぜんちな丸 一等食堂
天井の高さが目を引きます。
明るく、また壁、そして柱には間接照明と思われますものが取り付けられています。
白いクロスのテーブルは4名程度が座れ、また一人ひとりがゆったりとした椅子に座れます。

黒龍丸 二等食堂
黒龍丸は大阪商船所属の大連航路に就役した船です。姉妹船に鴨緑丸があり、満州由来の名前を持つ新鋭客船でした。残念ながら、これも大戦中に、潜水艦攻撃で失われます。
さて、これは二等食堂です。
窓、証明、扇風機が見えます。
テーブルは長いタイプで、皆で並んで座る配置となっています。
床などは意匠をこらし、天井は半円形のものがみえ、これは照明とおもわれます。
一等に引けを取らないふうに描かれています。

新田丸 一等食堂
当時、最高レベルの内装を誇った内装の新田丸の一等食堂です。
新田丸、八幡丸は春日丸とともに日本郵船で就役した船で、優秀船舶建造助成施設で誕生した船です。

天井にはいくつもの灯りが配置されています。壁には絵画も配置されています。

新田丸 一等大 遊泳場
内装、というよりも甲板になりますが、遊泳場です。テントが張ってあり、日陰も設けられています。
設備として遊泳場を持つ船は当時でもいくつかある様です。
この新田丸では、一等および二等の客が利用できた様です。プールの水は海水なのか真水なのか、興味があります。
ちなみに、この壁の向こうはバーラウンジです。

さらに、八幡丸の内装(一等客室等)を紹介、これは別ページにて紹介いたします。
(春日丸については資料が収集できておりません)。

竣工時に刷られましたパンフレットです。画像数が多く、ダウンロード形式としました。
それぞれダウンロードボタンをおされましてご覧頂きます様、よろしくお願いします。
こちらをクリック願います。

ここには八幡丸の優れた内装が紹介されています。
艦内に空調を設けるなど、当時の客船としては最高峰の設備を誇りました。1940年7月に完成した「八幡丸」はシアトル1往復、大連1往復のみで旅客の運用を終え、空母「雲鷹」へ改造されます。飛行甲板を形成するため艦橋部分はそっくり取り払われます(一等及び二等船室が撤去)。

スライドショーでもご覧いただけます。
こちらをクリック

一等、二等は設備も優れるだけでなく、そのサービスも優れていました。
ボーイと呼ばれる客室乗務員には女性もいました(大連航路において女性ボーイにチップをはずみ、子供を風呂に入れてもらった、というエピソードも、ブログにて紹介されていた例があります)。
子供連れの母親には心強かったであろうと思われます。優秀な船舶技術を持って開かれた日本の航路は、当時の最先端です。その職場に女性の進出と活躍があったとも理解できます。

さて、大連航路において、一等船室を用いますと費用が55円程度かかった様です。
当時、比較的高給取りであった教師の月給が50円ですので、これと比較しましても高価です。
東京で、日本国内の汽車、船、満州での汽車をまとめた切符が買え、これが77〜80円かかりました(昭和7年最新満蒙移住案内、及び当HP管理人の当時の旅客利用者からの取材による)。
但し、これは一等客室を利用する前提での値段で、船を三等室にすれば20円程度は安くなったそうです。ただ当然ですが、安いなりの部屋で、大広間に雑魚寝ということになります。大阪商船パンフレットには"三等には電灯や暖房機も完備ついていますよ"と記載したものがあるそうです。が、逆に言えば、電灯もちゃんとつけていますから、とわざわざ言わなければならない程度の大部屋とも言えます。
以上、費用につきましては、直接当時の旅客関係の資料(時刻表や伝票類)からの引用ではなく、旅行を紹介する書籍からの引用と当時を知る人の伝聞を加えて書いておりますので、誤差があります点はご容赦ください。

三等船室につきましては、残念ながら資料がほとんど入手できませんでした。
理由としてパンフレットや絵葉書は、やはり一等などの豪華な内装を見せたく、これを中心に作成されるという理由が挙げられます。
もうひとつ、理由として暗くて撮影しづらかった、撮影するほど興味を引くものではなかったというのが挙げられるかと思われます。
カメラを持つようなお金持ちは三等には乗らなかったかもしれませんので、乗ってもいない三等船室をわざわざ撮影はしなかった、さららに三等と二等・一等は仕切られていて行き来が出来ない(このあたりは映画タイタニックでも描かれていて、締め切りをはずして三等船室に下りていく場面があります)。なので、一等の客がカメラを持ってわざわざ三等の写真を撮るというのもなされないわけです。
また、三等は一般に船体内に作られ、窓がなく、暗いので、ますます撮影に向いていません。

三等のデザインは船により異なりますが、主に平たい床を仕切った、丁度、相撲の観客席の升席の様に区切った構造で作られています。ですので、乗り合わせた人との間には壁も何もない状態でした。
昭和10年の大阪商船パンフレットにも、三等室の紹介に、絨毯を敷き、平たい床を多数の小座敷に区分けしたと紹介されています。また電気で動く換気装置もある、とも紹介されています。逆に言えば、このこともパンフレットで紹介したくなるくらい、三等は船倉と変わらないレベルであったといえます。

比類なき三等室
画像は三等室を描いたものです。
これは平たい床ではなく、支柱で支えられたボードが升席の様に仕切られています。
新聞を広げてくつろぐ男性、その隣、座ってその男性に話しかける男性、向こうから、どうかよろしく、という表情でこちらにくる男性。それぞれ三等船室で初めて出くわした人たち、と想像します。
壁には窓は無く、天井はやや薄暗く見えます。右奥、階段が見えます。
画面右側向こうは夫人の後姿が見えます。男女混同であることがわかります。


三等ですが、一般に客室はすし詰めであったとされます。
人数を比較してみますと
氷川丸(1930年竣工・日本郵船):一等船客76名、二等船客:69名、三等船客:186名
サイパン丸(1936年竣工・日本郵船):一等31名、特三等85名、三等262名
一般に一等は広々と間取りがあり社交室や喫煙室なども設けられています。そうした施設の無い三等に一等より多い人たちが乗っていたことになります。
ちなみに有名なタイタニック号では、一等329名、二等285人、三等710人です。

但し、例外もある様です。
八幡丸では一等127名、二等88名、三等70名です。
これは想像ですが、八幡丸の三等の設備は他の船より優れていた、例えば平床にすし詰めではなく、狭いながらも二段や三段のベッドが設けられていたのではないでしょうか。それだけ長距離の航行に備えた設備としたのだ、と考えました。
そこで、八幡丸のフロア別部屋割り図の三等の部分をクローズアップしてみます。
仕切られた部屋が幾つも見えます。また、四角いつぶつぶは、ソファーを示します。
数字は1から70まであり、70名に振り当てられていることが判ります。おそらくですが、二段ベッドではないでしょうか。
一部屋あたり2つの二段ベッドがあったと考えられます。

三等は、船体の左後ろに設けられていました。図は、この左舷のみをトリミングしたもので、右舷は二等船室です。

この三等のフロアは艦橋より下部にあり、八幡丸が空母に改造後も残っていたはずで、空母で利用されていたと考えます。パイロットなどに充てられたのでは、と想像しています。
さて赤く塗られているのがDINING SALOONとあり、食事はここでできる様です。丸印が46並べてあります。もしかすると座席を表しているのかもしれません。数えましたところ、46名が座れる様です。三等の客を二度に分ければ余裕を持って座ることが出来ます。

愉快なる食堂
三等顧客の食事風景です。
三等は他の等級と分けてありました。
絵には様々な国籍の男女が明るく楽しそうに食事をしています。
メニューはなにかはわかりませんがナイフとフォークから洋食であることがわかります。オムレツかもしれません。
右端手前の男性は実に楽しそうです。
テーブルには果物が乗っており、黄色いバナナの様なものも描かれています。

さて、メニューですが、アメリカ航路の三等でオムレツ、牛肉のグリルという例がありました。当時の大連航路なども同じようなものであったのでは、と考えます。
当時の客船のメニューを掲載しているブログもある様ですので、色々調べていただきますと当時の雰囲気を感じられるかと存じます。

さて、三等船室関連でいくつか。
未確認ですが、三等の客の荷物は重さ寸法に制限があった、また船によっては男女を分けていた、という話があります。具体的な資料が確認できず、参考情報としておきます。

また三等船室に乗った、外地 (満州ではなく、おそらくアメリカ航路) へ向かう船に乗った新婚の芸人夫婦が三等船室に搭乗しました。ぎゅうぎゅうの三等船室では二人きりになれず、皆が寝静まってからシャワー室へ移動し、二人の時間を過ごそうとしました。そのとき、壁に寄りかかっていた女性のが姿勢を変える際にうっかりシャワーのお湯の蛇口だけをぎゅっとひねって旦那がお湯をかぶり、アッチッチと飛び上がる羽目になったという逸話があります。

今後とも、一等二等、そして三等の客室運用については注目してまいります。

参考:
主要な航路の距離

大連〜門司 六十五浬
大連〜神戸 八五十七里

大連〜敦賀 八百九十一浬
営口〜敦賀 一、○四○浬
葫芦島〜敦賀 一、○七六浬
営口〜門司 七六九浬
営口〜神戸 一、○一一浬
葫芦島〜門司 八○○浬
葫芦島島〜神戸 一、○四二浬


神戸大学のサイト、新聞記事文庫 海運(29-016)、神戸又新日報 1932.4.2(昭和7)に、大連を足場に郵商の競争激化、商船の新造船北支進出のトップ みな満船の盛況とあり、各海運会社が競争しつつ、海運業が右肩上がりに発達していたことがわかります。


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