このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください




満洲の言語





ちゅうごくでは、ちべっとで沢山のひとびとがころされました
てんあんもんじけんでも沢山がなくなりました
ぶんかだいかくめいでも沢山のひとびとがしんでしまいました
ちゅうごくのひとはしりません

                        
満州国の言語
満州国で使われていた言葉の話題が、当みに・ミーの部屋掲示板、さらに当HP管理人がお邪魔をしている掲示板にて取り上げられました。
こちらでは、それらを抽出、編集して紹介いたします。
あわせて、戦前図書「満蒙移住案内」に掲載された現地の言葉の一覧を画像で紹介いたします。


戦前図書などでは満州国の言葉を満語と呼んでいた様ですが、実際には漢語、中国語だった様です。
添付資料は当時の移民案内にあった言質の言葉の紹介ですが、詳しい方に見ていただいたところ、漢語でした。
では、満州語は、となると廃れたとのことで教わり、当方HPもその内容で編集しました。
満州国には多彩な言語がありましたが、おおむね中国語(漢語)です。また同善堂のページで付属小学校の写真を掲載しておりますが、この黒板の文字も漢語です。
ちなみに満州皇帝溥儀も満州語は話せなかったとか。

大連にお住まいだった方のご子息の投稿を紹介します。
『 亡くなった母から聞いた話ですが、大連なんて向こう三軒両隣、全部外国人ダラケだったそうで、正に国際都市だったそうです。 随って、飛び交う言語も様々で外国語に違和感が無かったそうです。 その所為か、母の兄、詰まり伯父は早稲田の英文出でしたが、大学に行く前からロシア語、漢語が話せましたので、英語を入れて3つの外国語が話せたそうです。 その所為で、卒業後商社に勤めて居たのですが、徴兵されて直ぐスパイの訓練を受け、終戦時は上海に、ロシア人として潜入して居たと聞いて居ます。

 その伯父でさえ、「正式な満語は聞いた事が無い」と云って居ました。 但し、祖母が子供好きで家にしょっちゅう遊びに来て居た大勢の満人の子供たちは、漢語とは違う言葉を話す時があったと、一緒に遊んでいた母が云って居ましたね。

 母達が帰国したのが22年ですから、終戦から2年は、大連に隠れ住んで居たワケですが、匿ってくれたのは祖父の会社で苦役頭を遣って居た満州人とその部下達だったそうです。 私が思うに、引き揚げ時に発生した日本人の遺児や孤児を引き取って育ててくれた恩人って、表向き漢民族になって居ても、実は殆どが満州人だったのでは無かろうかと思って居ます。

 「日本と満州人は概ね仲が善かった」とは、母の言葉ですが、朝鮮の済州島だって、呉善花さんに拠れば、「泣く泣く別れを惜しんだ」と云う事ですから、日本人の評判って何処でも善かったんですね。 』

こうした満州国の言葉はおみやげ物屋の観光パンフレットなどにも記載されていました。
別途、奉天のおみやげ物屋、ユニオンのパンフレットを掲載しておりますが、これにも記載があります。また、これらパンフレットにおいても、満語とは呼ばれているものの、実際には漢語が掲載されております。

日満用語一覧その1

日満用語一覧その2

日満用語一覧その3


当時の在満邦人達が、現地の人の言葉を理解できなかったケースはかなりあった様です。
当時、撫順の主婦に向けての注意に、"現地の人の物売りは、中華民国などの小銭を混ぜるなどしておつりの額をごまかすので注意しましょう"というものがありました。撫順の日本人、あるいは撫順に限らず日本人は、わりとお人よしだったのかな、などと想像しました。

(ちなみに、言語の話からは脱線しますが、お人よしな日本人、そして撫順で連想しますのは、石炭泥棒の件です。撫順には満州の地元民の鍛冶屋さんがたくさんありました。が、これは撫順の石炭置き場から石炭を盗んで運営していたのです。なので、警邏に犬を採用、石炭泥棒を取り締まると、鍛冶屋はさっさとたたんでいなくなってしまったとか。なんともお人よしな日本人といった印象です)。

また、「満蒙移住案内」に掲載された現地の言葉の一覧を、かつて満州に住まわれていた引き上げ者の方々の集う掲示板でも紹介をし、様々、ご経験などの返信を頂戴いたしました。こちらでも紹介したいと思います。
ちなみに、ハンドルネームはこちらに移します際に書き直しをし、また編集をしておりますので、予めご紹介ください。

N様 
『 終戦後の1年間、これらの言葉を自然に覚えて、結構意思か通じてましたよ(^-^)
 戦前、当時60歳代の祖母が物売りが来るたびに
「チンテン プヨー」と断っていたのを4歳くらいだった私は覚えてます。 』

A様
『 満語についてですが、戦前、我々が満洲にいた時、満語といっていたのは、いまの中国語であって、満洲族古来の言語(ツングース系・女真系)ではありません。中国本土と区別するため、意識的に「満語」とか「満人」を強調したと思います。

数年前、わが中国語学習サークル(新潟)で講師をお願いしていた中国人女性は、新潟大学大学院で満洲語と満洲文学の研究をして、博士号を取得しました。当時、東京の研究会へ出席した、といっていましたから、いまでも、日本に研究者はいるのかもしれません。そういえば、いつだったか、新聞で、北京に満洲語保存会があるという記事を見た記憶があります。細々ながら、民族の灯を守ろうとする人々があるようです。 』


B様
『 カタカナで発音をつけた満州語のページを懐かしく読みました。
声に出して一語づつ読んでいくと、母や家に出入りしていた人々の面影が浮かび、自分の幼いころが思い出されてほんとうに昨年のことのように身近に思いました。とても懐かしい思い出の言葉たちでした。 』

N様
『 カタカナ中国語は面白いですね。
なにかで読んだのですが、例えば日本人の奥さんが中国人に対して
「ニーデ、チャガ、カンホージ、プシンよ」
という風に使ったそうです。「あなたこんなことをしてはいけませんよ」という意味です。
語順は日本語式になっています。「カンホージ」というのは「干活計ガンフオジー(4声2声軽声)」で、「仕事をする」という意味ですが、ここでは一般に「する」という意味になっています。

15年ぐらい前ですが、長春の空港で、満洲国経験者らしい私よりかなり年上の紳士が、手慣れたカタカナ中国語で空港職員のお姉さんに話しかけているのを見ましたが、お姉さんは困った顔をするだけで、まったく通じていませんでした。

ではなぜ昔は通じたのでしょうか。それは日本人に接触する中国人たちが、日本人のカタカナ中国語という新しい言葉を「学習」したからだと思います。
ある元開拓団員の聞き取り記録で、現地人との会話について「中国語で言うんですか?」と質問されて、次のように答えています。
「ことばっちゅうもんは、まあ混ざり言葉だな。日本語でもない、中国語でもない、あいのこの言葉がしぜんにできとるんだな。」

ニューギニアの現地人と、支配している英国人との間で、ピジン語とかピジン・イングリッシュとか言う混ざり言葉が生じて、これが今でも現地人の間の共通語になっているという話があります。その英語自体が、オランダ語や北欧語のような言葉だった古英語と、征服者のフランス語との間の混ざり言葉、ピジン語です。
我々は日本語と中国語との間のピジン語が生じつつある現場に立ち会っていたのかもしれません。 』

NR様
『 「如何です」ツァンモヤンはザマヤンと発音しても通じてました。 』

N様
『 >「如何です」ツァンモヤンはザマヤンと発音しても通じてました。
ザーヤンでも通じたはずです。「ザー」一字で「ツェンモ」に対応しているのです。

私がこの言葉を知ったのは例の「多鶴おばさん」のビデオを見たときです。意味からしてどうしても聞き取れないので字幕をよく見たら、文字が違っていました。
「ツェンモ」の「ツェン」は乍の下に心ですが、「ザー」は口へんに乍です。辞書には方言としてありますから、たぶん東北方言なのでしょう。

ついでにもう一つ。
「安いです」は「チエン」となっています。以前に、李さんが記憶していた李さんのおじさんの売り声で:
「チエンナチエンナ、チェイガトンシチエンナ」というのがあり、「チエン」の意味が分かりませんでしたが、調べて「賎ジエン=安い」と分かりました。

なぜ最初は分からなかったかというと、現在は同じ意味の「便宜ピエンイ」のほうが優勢だからです。古本屋の常連さんご紹介の冊子は、李さんの記憶の通りに満洲国当時は「賎ジエン」のほうが優勢であったことを証明しています。 』

R様
『 >ではなぜ昔は通じたのでしょうか。それは日本人に接触する中国人たちが、日本人のカタカナ中国語という新しい言葉を「学習」したからだと思います。
わたしは、兄たちが「オーデ」「ニーで」とやりあい、母からは「カイカイデー」と催促され、「メイフア〜ズ」と言われ、それが日本語だと思って使っていたのです。 』

RS様
『 忘れたと思って居た中国語でしたが画像内のカタカナ中国語は大部分覚えている事に思わずびっくりしました。お陰様で亡き叔父を思い出しました。』

私の小学校の中国語先生は確か満州族で姓が張だと覚えていますが彼氏が私の友の一人が三年生の時落第した時先生が彼に<毎年毎年三年三年ツアンマヤン?>と冗談してた事を思い出します。 』


N様
『 「満洲語」は小学校五年生からだったと思います。
「満洲語教科書」と書かれた立派な教科書で、専門の先生ではなくクラス担任の先生が教えてくれました。ちゃんと四声をつけた発音指導でした。先生も勉強されたのでしょう。
最初の見開きは「我是学生。爾是学生。」、次の見開きは「他是誰? 他是先生。」(「老師」ではなかった)、次の見開きは「快来、快来、我イ門一塊児去ロ巴!」でした。なぜかそこまでしか覚えていません。
もっと低学年でも使えるような、中身の少ない、絵入りの教科書でした。恐らくお役所の方針で、それまでは無かった中国語教育が、この年度(昭和20年?)になって一斉に導入されたのでしょうね。
そして、すぐに戦況が厳しくなって、中途半端に終わったと考えられます。 』

B様
『 私も小学校4年生で同じような教科書で、授業を受けたのではないかと思います。初めての満州国語のクラスでした。確か数の数え方から始まって、「先生来了マ」「来了」とか覚えていますが、4月から始まったものの,ろくにクラスがなくて防空壕堀りとか、ヒマの収穫とかで教室外で忙しくしているうちに敗戦になったのではないでしょうか。あの頃しっかり勉強していたら良かったのにと思います。 』

NR様
『 私は5年生だったかな。ノロさんのおっしゃるようにクラスの担任が教えてくれました。
しかし、戦後の日常会話では余り役に立たなかった気がします。 』

N様
『 話は変わりますが、私は上の書き込みで「ピジン語」という言葉をなかば冗談で使ったのですが、この言葉を用いて満洲国の言語状況を学術的に研究しているページを、偶然、見付けました。
http://www.urayasu.meikai.ac.jp/japanese/meikainihongo/17 /sakurai.pdf   』


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