このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください




佳木斯





ちゅうごくでは、ちべっとで沢山のひとびとがころされました
てんあんもんじけんでも沢山がなくなりました
ぶんかだいかくめいでも沢山のひとびとがしんでしまいました
ちゅうごくのひとはしりません

                        
佳木斯(チャムス)
チャムスは松花江岸にあり、ハルビンと撫遠との中間に位置し、十四万六千平方キロに及ぶ沃野を控えた東満の一大都市である
明治末期までは戸数僅かに百余戸に過ぎず対象五年ごろ、鶴立崗金鉱の開鉱山に倣って人口の増加を見たが未だ三百余戸という状態で微々たる一部落であったが、松花江岸に位置しながらも水害を蒙った(こうむった)こともなく、この為、依蘭、富錦よりも恵まれており、このことが今日の隆盛をつくる大きな素因ともなったのである。
 
図佳線の開通は、従来の物資輸送経路に一新機軸を促して北鮮諸港とも緊密な関係を生じ、水陸兼備の貿易市場となり松穴江岸随一の良港として北東満に於ける物資の集散輸出入貨物の荷卸地として全満屈指の商業都市として条件を完備し、都市計画着手以来、僅々、三年にして近世都市の発達史上類の無い高速度を示している。
また対岸、鶴立崗炭坑を控え、良質の水を有することとあいまって、工業都市としても将来を渇望されている。
昭和十五年、人口は十一万四千三百(内地人一万一千)を数えるにいたり、明日への大飛躍が期待されている。
有名な彌榮・千振の開拓地は南方十数里にある。 

『 視察にあたり
 視察斡旋:東亜旅行社
 旅館:
 ・チャムス駅ホテル
  駅舎楼上
  室料 3,00 − 4,50
 ・伊勢屋旅館
  南崗大街
  二食付き 7,00 −12,00
  ・三光ホテル
  新興街
  二食付き 6,00 −12,00 』

別途掲載しております 『 満洲旅行の栞 』 の記述からの抜粋ですが、
視察に行く価値のある場所として紹介がされています。

佳木斯(チャムス)は、肥沃な土地が広がっていたとされます。一方、松花江の水運が主な交通手段だったため、陸の孤島といわれた時期もありました(ハルピンから船で一晩程度の時間がかかった)。
が、鉄道網の発展に伴い、街は発展しました。
昭和12年には図佳線(佳木斯と朝鮮半島の東側の付け根の図們を結ぶ)、昭和15年に綏佳線(綏化〜佳木斯間)、対岸の蓮江口からは浜北線(ハルピン〜北安)と便利になったことによります。
特に大連を回って佳木斯へ着くよりも日本海を横切るほうが交通費を安く出来ることとなりました。

周辺には日本人の開拓村がいくつもありました。彌栄村 (弥栄村 いやさかむら)、 勃利村(ぼつりむら)、 千振村(ちぶりむら)、 永豊鎮(えいほうちん)等々。

一方で、土地は痩せていた、内地の何分の一の作物も取れないではないか、という体験談がありました。これについては土地の肥沃さにムラがあったとも考えられるのと、さらに地元民から買い上げをした土地は古くから耕作がされていて土地がすっかりやせていたという原因が挙げられます。こうしてみますと、どうも移民を送り込む側(拓務省など)の対応は万全であったか、など疑問もあります。また2・26事件に参加した将校(士官?)がこの地に配置され、事実上の左遷であったろう、といった話もあります。
豊かな土地だとする資料の一方で、実はあまり重要視されていなかった地域なのでは、と思ってしまう資料もあり、まちまちな印象があります。
また内陸であったため、極寒の地でもありました。薪を使い切ってしまい、家屋内で凍死者が出た事件も起きています。

佳木斯、そして日本からの移民の実態を知る良い資料があります。
当時の新聞に掲載されたものです。
費用、食べ物とさまざまな不安を克服し、必死に一歩一歩前進する様がわかります。

『 満洲移民の最前線たる佳木斯を訪う 』
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10026400&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1

佳木斯の地図をみてみます。
赤丸は日本人入植地です (昭和16年) 。

先の『満洲旅行の栞』の引用から "対岸、鶴立崗炭坑を控え"とあり、地図で見てみますと、松花江に届く線路が敷かれています。重要な炭鉱であったと同時に松花江が物資運搬に重要な役割を担ったことがわかります。

地図にあります彌栄村 (弥栄村 いやさかむら)他の入植地を訪問したルポ、民族の緯絲 (湯浅克衛著)から抜粋し、掲載します。これも日本からの移民の実態を知る良い資料です。
●こちら

また "依蘭、富錦よりも恵まれており" と前述しました豊錦は、別途、頁を設けて掲載をします。
千振村と 永豊鎮も開拓村の画像を収集できました。

では、引き続き画像を紹介します。
まずは昭和8年の書籍から、黎明期のチャムス移民を捉えたものです。
何もない野原や山を切り開いた開拓です。
ファイルをダウンロードの上、ご覧ください。

●こちら


こちらに当時の様子を記載したページを抜粋してアップします。
●こちら
ちなみにファイル「佳木斯移民その2」に、茨城県日本国民高等学校長 加藤完治 が登場しています。満蒙開拓団で若人を義勇軍として募集し、満州へ送り込んだ張本人でもあります。

もう一つ、チャムスの市街地とその周辺の様子を紹介します。
●こちら

いくつもの建物が立ち並んでいます。道路は、舗装していない様に見えます。
そしていくつもの百貨店があった様です。
○に”と”の字のマークの登喜和百貨店もありました (ハルビンにも同じ系列の登喜和百貨店があり、こちらは地上4階の鉄筋の大きな店舗でした )。
これら新しい町並みのメインストリートは向陽大街という名がありました。
周辺には飲食店、特に日本料理屋もありました。また夜遊びも出来たとのこと。
佳木斯は交通の要所で周辺の開拓村の農産物が出荷され、且つ入植者達の消費を支え休暇を過ごせる街として賑わいました。



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