| こちらでは新京その4としまして、新京の街並みを紹介します。
新京につきましては別途アップしておりますので、こちらのページではできるだけ鮮明に、かつ大きく拡大してご覧いただける様に工夫しました。是非、ダウンロードをされまして、ご覧ください。
こちらも看板類をクローズアップしますと様々なお店類があることがわかり、活気、賑わいも想像できます。帝都グリルとローマ字で書いてある建物などもあります。実は当時、洋食と並んで、グリルというのが流行りでした(鉄板で、ステーキなどを提供する)。また新京の街角を走るバスにも広告があります(後ろ側にアジアビールの広告があるものも)当時からバスは広告の効果があったわけです。
新京の画像につきましてはこちらよりご覧ください。
|
| |
|
|
栄気漲る明朗なる繁華街_新発路 宝山百貨店附近の盛観新発路宝山百貨店 |
| こちらの画像は、繁華街で数多くあったデパートの中でも有名な宝山デパートです。建物は戦後も長く使われ、先日も確認をした、という情報がありました。この建物だけではなく、この付近一帯の区画は、基本的に新京建設時のそのままです。 |
| |
|
|
| これらの画像は、かつて新京に住まわれていた引き上げ者の方々の集う掲示板でも紹介をし、様々、ご経験などの返信を頂戴いたしました。こちらでも紹介したいと思います。
ちなみに、ハンドルネームはこちらに移します際に書き直しをし、編集をしておりますので、予めご紹介ください。
J様 (ファイル"10舗道も明るき八島通りと新発路の交差点"について)
『懐かしい写真をよくぞ、集められました。この写真は宝山の入口から八島通り、児玉公園(旧西公園)の方角を撮ったものですね。たしかに映画館がありました。
この一角には関東局、ダイヤ街などもあって賑やかな場所でした。日本橋通りのこの先に電業の店というのがあり、その隣が正金銀行でした。さらに1キロほど行くと新京駅。反対に日本橋の南は城内といい、サンマロ、スマロは満人で溢れていました。そこにローテンゴーというでっかい店があったのを憶えています。』
A様
『色々なことを想い出しています。』
『○ ハーレー・ダビッドソン
桜木小学校の同窓生に、ことあるごとに、「ハーレー・ダビッドソン」と叫ぶ少年がいました。なんのコトが分からなかったのですが、ある時、新京神社の道路を隔てた向かい側に、「オートバイ」屋さんの看板を発見しました。当時の新京市の経済的豊かさを象徴しているように想います。』
『○ 有斐閣
新京駅から南へ、西公園のあたり、「有斐閣」の店舗があったような気がします。当時、来店の客には、「紅茶がふるまわれた」という話を聴いています。
「満州国」という存在が、しっかりした法体系のもとに構築されていたという気がします。多くの人たちが、理想国家を実現しようと意図していたことは「満鉄・調査部事件」に現れています。私の父も(満洲国官吏をお勤めとのことです)も、満洲国の事を「我が国」と呼んでいました。法が支配していたことは、父の同僚で『収賄罪』の容疑で逮捕された人が居たことからも、伺えます。
また治外法権撤廃は、昭和12年ころに行われています。
父は、満蒙の地区からの「英米の石油販売網」駆逐に関わったようで、満洲国政府から、いくつか勲章を授与されています。
その後 ヘッドハンティングをされたようで、大連の「満洲石油」本社(甘井子)に転じました。』
『○ 安達街
ボクたちにとって、ノスタルジアの対象であるこの通りも、南新京の南西の要衝「孟家屯」と「新京空港」を結ぶ軍事道路でした。
「孟家屯」には、強力な通信施設があり、特殊任務の部隊が駐在していました。
叔父が、通信所に勤務しており、訪ねて行ったら雑誌「無線と実験」を読んでいて、「将来、電子技師になれ」と勧められました。』
『○ 神社前の街並み
ハーレーダビットソンのバイク店の近くに、「ミュージック」という看板を出していた店舗があったハズです。小生の養母が、この看板を「クツジューミ」と見み間違えたと何度も話していたので、確実な事実と想われます。レコード屋さんかも知れません。』 |
| |
|
|
| A様続き
『○ 新京空港 :
ある時、南満州鉄道の西側の草原に遊びに出たとき、突然「ダグラスDC3」とおぼしき旅客機が頭上に現れ、胴体・翼を銀色にキラめかせて、眼前を一気に通り過ぎ、飛行場に滑り込みました。銀色ヤンマを手にしたような興奮を覚えました。飛行機の発着は、興安病院の屋上からよく見えました。同病院の院長の息子のトコロへ遊びに行き、一緒に勉強もしました。』
『○ DC3型の塗装
塗装されていたか、生地の金属が光ったのか定かではありません。圧倒的な巨体が、突然、頭上に現れたので、斜陽の明るい陽射しの中で、輝いて見えたという表現が実際のところです。』
管理人補足:
新京空港は、新京の隣り駅の寛城子郊外にありました。
新京市街地の北西にあり、新京の西でご覧になったということですので、まさに着陸のために滑走路へアプローチしていたところでしょう。
DC-3は、アメリカの傑作双発輸送機で、旅客でも軍務でも大成功を収めました。
日本でもライセンス生産をされました。
満州の空を飛んでいたDC-3ですが、満州航空がDC-3を運行していたかどうかは確認できておりません。一方、羽田を中心に活躍した大日本航空はDC-3を運行しており、満州にも航空便がありました。
はるばる東京は羽田から満州の中国へ飛んだ機体なのかもしれません。 無論、直行ではなく、いくつかの空港を経由して、と思われます 。
画像は、大日本航空株式会社のダグラス DC-3です。機体には 『 桂号 』 『 J-BDOK 』が読み取れます。 |
| |
|
|
| A様続き
『○ とんぼ・セミ・土筆(つくし)]
小さな池が近くにあり、トンボもおりましたが、ヤンマはおらず、褐色の小さな種類でした。セミも小柄なものがいましたが、緑色で非常に綺麗でした。夏休みに採りまた。土筆は、至る所に生えました。これは、土壌が「酸性」であることを示します。
従って、土葬された遺体は消失したでしょう。』
管理人補足:
北満はアルカリ土壌で、農地開拓における足かせとなっていました。土壌改良しないと農地として使いにくいからです。
一方、新京あたりは酸性土壌というのはあまり知られていないことでもあります(確かに近くの九谷には温泉も出ますし、酸性土壌であったというのは自然なことかと思います)。
こうして見ると、満州は、特に移民の宣伝においては肥沃な土地(沃土)といわれますが、地域によって相当なムラがあったと考えられます。 |
| |
|