| こちらでは、満州東北の外れ、ソ連のブラゴエスチョンスク市と黒龍江(アムール)を挟んで接する国境の町、黒河を紹介します。 |
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| 『 1858年に締結セル
アイグン条約実施条約後、現在の対岸、ブラゴエスチエンスク及び黒河を称して黒河とし、開市せるものにて、目的は露西亜領金鉱地方面より南下するシナ人採金苦力に黒河を慰安地たらしめ、一方、黒龍江右岸金鉱地方への物資供給地たらしめんがため、当時、山東人王治興に北地新興の特権を与えて華農を招致し、付近耕作地開発に努めたるに始まる。
1900年、北清事変の際、露西亜兵による在住民四千人の虐殺に合い、廃村となるも、六年後、南満州の物資の露西亜領への輸出に起因して、この地に店舗を開くもの、次第に増え、行政を設置、第一次世界大戦勃発により対岸防疫は一段の活況を呈し、人口も五万を数えたが、国境紛争、水害、採金行の不振に住民の離散、商工業は逐次、集落の一途をたどり、人口も一万に減少して極度の衰微を示せり。
満州国建国後は、治安の確保、黒龍江高校の復活、北黒線の開通、道路の完成、林業の開発、新規金鉱脈採掘など新興工作の進歩により、著しく復活発展し、
人口も三万五千余りを数えるに至った。 』
『 視察箇所
黒龍江 - ロシア人小学校 - 金鉱 - 製材所
視察斡旋
東亜旅行社、満拓後者
旅館
常盤ホテル
二食付き、5,50
- 15,00
蔦屋旅館
二食付き、6,50- - 15,00 』
対岸のブラゴヴェシチェンスクについては、wikiにも記述があります。
アイグン条約が結ばれると、ロシアはブラゴウェシチェンスク(ブラゴエスチョンスク / ブラゴエチェンスク)の町を建設。
これに対抗するべく、清国は、その対岸に国境警備軍司令部を置き、さらなる南下をもくろむロシアをけん制します。
これが黒河市の最初です。
ブラゴウェシチェンスクは、後に満州側から武市やブ市と呼ばれ、絵葉書なども多くが武市で書かれてかかれています。
満州国地図での黒川の場所を示します。満州の北東側、山を越えた場所です。
このほか興安嶺一帯、そして黒河沿岸には砂金が大量に埋蔵されていると考えられており、満鉄も研究に取り組んでいました。 |
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| では、黒河付近を地図(鳥瞰図)で見てみます。
線路が山脈を越え、山中に孫○という駅があります(当方の環境では表示できない漢字)。その先に黒河が、さらに国境を兼ねる黒龍江の向こうにソ連の街があります。
さて黒河は、黒龍江に沿って出来た国境の町で、ここは清時代からロシアと対峙してきた歴史があります。
この黒河は日本人も進出しており、日本人小学校もありました。
一方で、当HPの画像を収集するにあたり、この町の画像を見つけるのは困難でした。観光地目的の日本人も多くないことから絵葉書も稀だったのか、とも想像しています。
画像は、いかにも満洲といった形の門から黒龍江方向を見ています。この黒龍江が国境で、対岸には清国時代にロシアが作ったブラゴエスチョンスク市が写っていますが、残念ながら画像が荒く、はっきりとは見えません。このブラゴエスチョンスク市は武市と記述されることもあります。
黒河はこの地方を訪問したジャーナリストが写真を多く撮っており、満州の写真集に掲載されたこともあります(各地域の市立図書館や県立図書館においているところがあります)。国境の町といえば北西でソ連と国境を接する満洲里の街並みに、やや似た印象のある街並みでした。
黒河は、黒河事件の悲劇があった場所でもあります。 |
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| こちらの地図から。
地方都市その4で
紹介したエリアの、さらに北に黒川があります。
北安(地図の記述は安北)から北に延びる線路の終点が黒河です。興安嶺の大山脈を超えて延びる線路です(北黒線)。
地図によっては大黒河と表記されていることもあります。
北安から終点の黒河まで40近い駅があったとのことです。これは信号所も一緒に数えているので旅客駅はもうちょっと少なかったのでは、という指摘もありました。が、少なくともこの冬は極寒の北満、しかも大山脈の中にも様々な街があったと思われます。
さて黒河は、小興安嶺山脈を越える鉄道ルートが二つありました。
まずはこちらの図にあります北安から北へ黒河へつながる線路、北黒線です。
もうひとつ、まず北満州の嫩江から山を越えるルートです。
こちらの図の左側で山の中で途切れているルートです。
これは、嫩江から霍龍門へ繋がる寧霍線で、霍龍門で途切れている地図になっています。そして霍龍門から黒河へつながる霍黒線でたどり着きますが、その路線はこの図には書き込まれていません。
地図によってこちらの様に嫩江からの路線が霍龍門までしかないものがあります。
また嫩江から黒河への線路は描かれているのに、北黒線が描かれていないものなどがあります。 |
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| MAP_ブラゴエスチョンスク大黒河への線路なし二重線は道路
こちらの図には、北安からの北黒線、そして、嫩江から霍龍門をとおって黒河へつながる寧霍線 ・ 霍龍門、ともに書き込まれていません。
嫩江からの二重線は道路です。 |
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| こちらの地図では、赤丸にて日本人入植地を示しています。黒河は、線路の端にあります。
黒河から黒龍江を下ったところにも日本人は入植しているはずですが、これには書き込まれていません。
黒河への日本人入植では周辺に孫呉という町にも印があります。
この地図では嫩江から霍龍門までの線路しかなく、霍龍門から黒河へつながる霍黒線は書き込まれていません。 |
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| こちらの地図では赤色で線路が書き込まれており、北安の線路のみつ黒河へつながっています。また、この地図も嫩江から霍龍門までの線路しかなく、霍龍門から黒河へつながる霍黒線は書き込まれていません。地図が作成された時期によるのでしょう。
ちなみに、こちらの地図は、色が濃いほど標高が高く描かれています。
さきの孫呉の町の右に入植地を示す赤丸がありました。その孫呉の東側はやや谷になっており、また川も描かれています。
川のあたりに入植した日本人が居たのだろう、と考えます。
もうひとつ、黒龍江を挟んで黒河の対岸にあるブラゴウェシチェンスクですが、黒龍江に合流するゼーヤ川(ゼノヤ河)河口に作られていることがわかります。ブラゴウェシチェンスクから右に分かれている河が、それです。 |
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| では、まず黒河の町並みを連続写真で。写真をつなげるとパノラマになります。
背の高いビルこそ見えませんが、ぎっしりと建物が見えます。
町並みはロシア的な印象があり、これは満州里も同じですが、こちらの黒河のほうは二階建てが多く、建物の規模が大きくみえます。
さらに街をよく見ますと、木が贅沢に使われている印象があります。街角の歩道も木の板が敷かれています。
黒河周辺は林業が盛んでしたので、街づくりにも反映されているのでしょう。
こちら○
スライドショー
こちら○
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| 続いて、黒河のスナップ写真を。
黒龍江の川岸も。
ファイル:08_国境監視筏もユニークです。これは移動が可能なものです。屋根から出ているのは通信機のアンテナの様です。
ファイル:09_黒河を起点にハルピン漠河を往復する汽船
では外輪船が写っています。
哈爾濱(ハルビン)から松花江を下り黒龍江へでて、今度は河を黒河まで遡っていました。
この航路に関する資料が見つからず、様子はわかりません。哈爾濱から黒河までは何泊か日程がかかりそうに思えます(哈爾濱から佳木斯でも一晩かかりますので)。
神戸大学電子図書館システム掲載の満州日日新聞によれば、定期航路として、哈爾浜−黒河(一四一八粁)汽船三八隻、富綿−黒河(七九五粁)汽船二四隻が運航されていました。
あとパノラマで紹介しました街並みで、いくつかクローズアップをしてみました。
こちら○
スライドショー
こちら○
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| 国境のアムール川の向こうに対岸のソ連の町が、手前に黒河が描かれています。
右上のかすれているところは、ブラゴエチエンスク、左下は構内販売店と書いてあります。
満州ではあちこちの駅にスタンプがありましたが、黒河駅にもちゃんとスタンプが設置してあったことがわかります。 |
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| では、ここから、さきほどより画像で紹介しております黒龍江についてもいくつか画像で紹介してまいります。
まずは黒龍江での釣り風景から。
水面は、まるで池の様に静かです。
左側の釣り人は和服の女性の様です。 |
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魚の写真から。いずれも黒龍江でとれたもので、1メートルに近いおおきなものです。画面右端に防寒服の男性の上半身が写っていますので、比較してみてください。
またいずれの魚も壁に立てかけてあります。寒い満州では冬場も魚はかちんかちんに氷ってしまい、ご覧のとおり、しゃんと立ってることができます。
当時、5メートルを超えるチョウザメが獲れたこともあったとか。今日では川の汚染が進んでしまっているとのこと、こうした豊富な魚類が今も居るのかは、一寸心配です。 |
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| 黒龍江は、流れの静かなところが多いのでしょう、鏡の様に静かな水面を進む船が見えます。船は外輪船です。
黒河を経て遡ってきた船でしょう。
三道溝という地名は地図を探しても特定できませんでしたが、黒河よりさらに遡ったところに似た名前の町はあります。 |
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| 『黒龍江省における農村の豪家である。土壁とそれに付随する土塁。
これらは皆、馬賊の略奪から遁れるためのものである。
向こうに見えるタンクのようなものは馬賊の来襲を観る望楼で、珍しい写真の一つ。』
家の屋根が左端に見えます。それ以外は要塞の様です。
土塁は相当な高さと広がりがある様です。また土塁の手前の四角いところは上の方に四角く小さな穴が開いており、銃眼と思われます。また、画面右にみえます望楼も随分と背の高いものの様です(4階くらいの高さ?)。
清国崩壊後の軍閥の闘争の時代、治安は乱れて匪賊が横行しました。また長く厳しい冬のため、もともと略奪というのは常習化していた地域でもあります。
奪わなければ、冬の間に飢えて凍えてしまう。一度奪われてしまえば、春を待たずに飢えて凍えてしまう。匪賊というのは、そうした行為を専門にする集団もいましたが、普段はただの農民だったのが一変して匪賊になる、というケースも多々あります。
こうした背景から、防御陣地の様な家が出来上がったわけです。 |
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