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鉄嶺





ちゅうごくでは、ちべっとで沢山のひとびとがころされました
てんあんもんじけんでも沢山がなくなりました
ぶんかだいかくめいでも沢山のひとびとがしんでしまいました
ちゅうごくのひとはしりません

                        
鉄嶺
こちらでは、地方都市、鉄嶺について取り上げます。

場所はこちら左下の赤丸です。

『 北に柴河流れ東に龍首山を頂く麓
  三基の仏塔に護られた鉄嶺の町は見るからに平和である。
  歴史上、古く渤海時代は富州、遼代は銀州の名に現れ明代に至って鉄嶺衛が置かれた地である。
  ここは綿糸布の産地で、鉄嶺綿布の名に広く知られ三十余軒の綿糸布商が城内に在る。
  鉄嶺はその後方に特産物多き東山地方を融資遼河水運の盛んであった頃は商勢甚だ振るっていたが、鉄道開通後、地の利を得て開原が特産市場として活躍するに及び反映を奪われるに至った。一方では満洲に於ける米の一産地として存在を保っている。昭和十五年末現在、人口約五万六千(内地人三千五百余人)を有する。 』

 『 鉄嶺視察:
  龍首山
  鉄嶺公園
  園通寺の白塔(所要時間馬車にて約三時間)
 
 土産:牛肉、味噌漬け、絵葉書、モダン羊羹、深山餅
 
 旅館:松花ホテル \5.00〜700
別館    \5.00〜700  』

鉄嶺の市街地地図
あまり広い町ではなさそうです。
線路にそってある街が新市街地です。
右側は等高線が書き込まれ、山があることがわかります。
この等高線の山、右端ややうえが龍首山です。ここに2つほど仏塔(ラマ塔)があります。この二つの大きさは概ね同じ大きさの様です。
この山の右上の端に河があります。この河は遼河で、遥かに下り遼東湾へそそぎます。この河の水運と共に鉄嶺は発展しています。
画面中央やや上、四角く描かれた市街地が古くからある城塞の部分で、この城塞の端に、もうひとつ仏塔があります。この仏塔は龍首山の2つの塔よりもはるかに大きなものです。

鉄嶺市街
鉄嶺は古くからある城塞都市です。
画像は西門から大通りを撮影したものです。
遠くに見える高い位置の建物は城塞の門の上に建てられているものと考えます。

手前、瓦葺の家がぎっしり立ち並んでいます。家々の建て方はおおむね同じですが特に都市計画があるようにも見えません。二階建てではない様ですが、屋根がやたらと大きく屋根裏部屋が作れそうです。
この鉄嶺は明治時代の日清協約により通商市街として解放され、日本人の往来が多くありました。 
さて画面右、遠くに見える山が先ほど記述しました龍首山で、ここに別途紹介いたします古いお寺や仏塔(ラマ塔)が2つあります。
また城塞都市の大きな仏塔は写っていません。

鉄嶺城内
正面に城門があり、中央に見えるのはメインストリートでしょう。
こちらも瓦葺の家がぎっしりと並んでいます。同じ鉄嶺ですが、先の写真と家の形や建て方、屋根の形は違ってみますし、屋根もさらに大きく見えます。仮に屋根裏に部屋や倉庫があるとしても、その明かりを取るための窓などは見えません。屋根を高くするのは、単に空間を設けるだけでしょうか。
屋根には煙突が付き物ですが、その煙突も小さいものしか見えず、意外な印象です。想像しますに暖房はオンドルを使っている場合、ペチカほど轟々とは燃料を焚きませんので煙突が小さく見えてしまうのかもしれません。
それにしても、城門からまっすぐ伸びる道ですが、轍が見えます。舗装はされていない様で、地面はすっかりえぐれています。馬車同士の離合は出来そうに見えません。通りひとつ見ても、おおよそ都市計画があるようには見えない印象があります。 

ちなみに前述の大きな仏塔(ラマ塔)は向かって右奥にあり、この写真では写っていません。
この写真と同じ場所から撮影したものを別途、『ファイル:11鉄嶺城東門より皷楼白塔寺を望む』にて紹介いたします。これですと、右端に仏塔が写っており、大きさもよくわかります。この仏塔の足元にお寺があります。鉄嶺城北裡喇嘛塔という紹介がなされる例もあります。

商品陳列所(陳列館)
ここまで城内の古い町並みを紹介してまいりました。
ここから新しい市街地の紹介を進めてまいります。
まず下記の画像は商品陳列所です(商品陳列館とも)。
この商品陳列所ですが、鉄嶺には既に大正時代には設営されていました。その頃には、鉄道の鉄橋もかけられ、交通の利便が向上していました。また、大正時代に満州に設営された商品陳列館は長春、そして哈爾濱(ハルビン)に設営されたくらいでした。こうしてみますと鉄嶺には、早くから、商業の発展が見込まれていたということでしょう。

市街地の画像をアップしました。
こちら○

スライドショー
こちら○

満州では、満鉄指導部の指導のもとで、あちこちに農場を開拓しており、鉄嶺にも開拓農場がありました。
水田、畜産が営まれ、実績は順調だった様です。

周辺は、農業にも恵まれたことから、農産物の集散地として発達、河の水運、そして鉄道により発展、新市街が出来るという、満州ならではの発展があった様です。
大きな鉄橋は大正時代にかけられており、古くから鉄道輸送の要所であったことがわかります。
この街は、古くからの町並み、そして交通の要所を中心に発展した新市街が共にありました。満州らしい街だといえます。
町並みの看板には日本語も見え、同時に満州風の看板もあり、日満が一緒に住んでいた様に思われます。日本人がどの程度、この鉄嶺にいたかは、現在、資料を得ておりませんが、日本人が通う小学校もあり、一定数が生活をしていたことがわかります。
朝鮮半島の出身者が子弟を教育するべく支援を各方面に求め「鉄嶺育英学校」を建て、周囲にその支援を要請したこともありました(張宇根氏学長)。


商店、そして商店街も発達していました。『ファイル13:鉄嶺敷島町三丁目』には左下にお湯屋、右側に日本料理屋、中央奥には時計の看板も見えます。

さて前述、モダン羊羹というのが特産として挙げられています。土産物として売られていたのでしょうか。また満州でも甘味としての羊羹は人気でしたが、この鉄嶺の羊羹はモダンと名前がつけられており、その由来に興味があります。
ちなみに満州の羊羹は売られており、小城羊羹と同じ寒天を用いる煉羊羹(火にかけてこねて固める)でした。小麦とくず粉に小豆などの餡を混ぜて蒸す蒸羊羹ではなかったとか(この蒸羊羹は、今日、あまり見かけないような気がします)。
さて、満州では養蜂を盛り立てようという動きがありました。南満州での成功をもとに北へ北へと展開していたそうです。
もしかすると、この蜂蜜を甘味にした羊羹だったら、当時としては結構モダンなのでは、などと想像しています。

また近代の建物として、今回、鉄嶺製粉会社及び発電所を収録できました。『ファイル:15鉄嶺製粉会社及び発電所』
おそらく左の煙突から煙を吐いている建物が発電所と思われます。
鉄嶺製粉は、日満の合弁会社で、付近の農作物を加工し、都市部へ
引込み線も写っており、鉄道輸送が要であることがわかります。
この鉄嶺の周辺は、昔から粟、大豆、米(おそらく陸稲)が収穫できました。こちらの製粉も、これら穀物の粉末を製造したものと思われます。

このほか、鉄嶺衛威病院など大きな病院も作られています。

前述しましたが、鉄嶺には、龍首山という山に古い寺、そして塔がありました。そして市街地にある塔と合わせて合計で三つありました。
今回、三つの塔の画像がそろいました。縮小して並べております。大きな画像はショートカット先でご覧ください。
まず龍首山に塔が二つある様です。これら二つは大きさも形も似て、さらに河を見下ろす山の突端に立っていて写真だけでは見分けにくいものです。
まず、直ぐ傍に「滴翠亭」という、あずまや(あずまや、庭園などに眺望、休憩などの目的で設置される簡素な建屋)があります。
いまひとつは、どうも付近に東屋は無い様です。
さらに三つ目は太く大きな塔です。市街地の端にある様に見えます。ちなみに、この写真のキャプションは白塔寺とあります。一方、"城北裡喇嘛塔"という、喇嘛(ラマ)の塔というキャプションもあります。ラマ教は、チベット仏教を指します。ラマ教のお寺に建つ塔が三つ目です。デザインは、他の二つとやや異なり、下のほうが太く作られています。

山とお寺と塔の画像をアップしました。
こちら○

スライドショー
こちら○

また三つの塔を比較の為、ならべてみました。

もうひとつ、鉄嶺の周辺としまして、交通関係をアップしました。
こちら○

スライドショー
こちら○

遼河に沿う鉄嶺の港、馬峰溝、陸路の在明端、そして柴川鉄橋です。

昭和8年、砂金採取のゴールドラッシュがありました。好調だった様で、黄金狂時代が出現、と報道されました。
参考:
『満州日報 1933.1.31(昭和8)
ゴールド・ラッシュ 鉄嶺に砂金鉱発見


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