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満蒙開拓青少年開拓義勇軍





ちゅうごくでは、ちべっとで沢山のひとびとがころされました
てんあんもんじけんでも沢山がなくなりました
ぶんかだいかくめいでも沢山のひとびとがしんでしまいました
ちゅうごくのひとはしりません

                        
こちらでは満蒙開拓青少年開拓義勇軍を取り上げます。
満蒙開拓青少年義勇軍は昭和12年11月に「満蒙開拓青少年開拓義勇軍編成に関する建白書」の閣議決定に基づき創設されています。この頃、既に移民は募集しても集まらなくなってしまった頃です。代わりに若人を集めようというわけです。
まずは画像から。訓練の様子、満州入りして働く姿を紹介します。
訓練に勤しむ姿、若人の屈託のない笑顔が印象的です。
特に食事の写真は旺盛な食欲を思わせます。今日の飽食の時代と違い、当時は、仕事がたくさんあり、そしてたくさん食べることが出来る、というのは魅力的であったろうと想像します。

●こちら
尚、本文中の記述につきましては、当HP管理人がインタビューで伺ったお話や書籍などを元に、簡単にまとめましたものです。

今日の研究論文で、満洲移民は多く取り上げられ、インターネット公開もされています。
これら論文による分類では、大まかに、
 第一段、試験験移民 1931年〜1935年日本で国策として移民が開始、昭和6年〜昭和10年
 第二段、本格移民  1937〜1941 昭和11〜16年2.26事件後
 第三段、1942年以後、戦争が激化してからの昭和17〜20には、移民送り出しが立ち行かなくなる(人員が確保できない/移民崩壊)
となっています。
ところが別の論文では第一段試験移民を第一期1932年(昭和7年)から1936年(昭和11年)、本格移民を第二期1938年昭和12年から1941年昭和16年、第三期を昭和17〜20年としているものがあります。
 各期の内訳を見てみますと、
 第一期の内訳:昭和7年第一次、8年第二次、9年第三次、10年第四次、11年第五次、
 第二期の内訳:昭和12年第六次、13年第七次、14年第八次、15年第九次、16年代十次
と分類されています。
これら分類は、いずれも最終段階では太平洋戦争により移民の応募者が激減、日本国内の労働力も足らない状態になり、移民どころではなくなった時期だ、という点では一致しています。
 最終段階で移民どころではない、という状況ですが、満洲移民という国策は変更されず、ノルマ達成のため、各県に移民の割り当ての体制を強化しました。このノルマに対応する為に、満洲開拓青少年義勇軍の組織で移民の数を確保、少年たちがこれに応募しています。
相当数の少年たちが、意気揚々と応募しています。
ただ、最終的には国内の軍事工場などに人員を確保するため、この義勇軍も思うような人数が集まらなくなっていきます。

ちなみに、第一弾や第一期という分類は、前述のとおり、今日、研究論文をまとめた方による分類です。
 当時の書籍は、第○次という書き方はありますが、これらをいくつかに分類して、一期二期と分類したものはみあたりません。別途掲載しております戦前図書の開拓団一覧の入植年次も第一次から第十次という書き方になっており、次々に開拓団が編成された表になっています。

満蒙開拓青少年開拓義勇軍に限らず、移民の指導者は開拓に関し、精神主義に偏り、開拓の実務に関してはおろそかであったという印象があります。
 開拓に関し、満州の首都新京で報告会が開催、各地の開拓地から招集がかかりました。が、昔から開拓に関わってきた満鉄からは1名のみ召集、またほぼ発言できなかったとのことです。これは関東軍がエリート意識を振りかざすあまり、明治時代から満州の地にで広く活動し実績を上げてきた満鉄を邪魔扱いにし無視していた為、そして頭脳集団であった満鉄を嫌っていたためなのだそうです。
 開拓を指導するべき立場の人々がそういう状態ですから、結果として、過去の経験を生かしていないずさんな例がいくつもでてきてしまいます。冬に暖房の薪を使い切り凍死者が出た、建物の建築に失敗し冬が越せなくなった、などです。
さてこれら不成功だった事態に対し、先の新京での報告会では召集した側 ( 指導者側 ) が失敗の報告に対し、国策に逆らうのかと恫喝したのだとか。
 上出来なら自分の手柄、そうでなければ現場の所為というエリート意識がみてとれます。
 移民から破産者が多く出たり、移民希望者が減ったりすると本来はその計画を立案したものにも責任があるはずですが、そもそも、それを回避している、とも言えます。
 今日のわれわれの感覚であれば、なぜ冬場の極寒を周知できていなかったのか、冬を越すためにはどうした準備をどのくらいすればよいのか誰が指導するのか、など議論すべきことは山ほどありそうに思えます。
しかし、かつて極寒の地で日露戦争を戦い抜いた陸軍は、昭和に入ってから満州の冬が寒いことすら理解していない組織になってしまったといえる事態です。  

満蒙開拓青少年開拓義勇軍といえば、その指導者である加藤完治が有名です。
が、戦前書物には、満蒙開拓青少年開拓義勇軍を指導した加藤完治について、必ずしも記述はありません。
当然、戦前にも加藤完治の記事を載せた書籍はあり、昨今の研究にも戦前図書を引用したものがありますが、昨今の満州移民研究で頻繁に加藤完治が取り上げられるのとは対照的に感じます。


 満蒙開拓青少年開拓義勇軍は徹底した精神主義が特徴で、また現地では関東軍が実質の権限を握っていました。
ただ、指導者側に鍬を持たせて土地を与えれば、あとは精神主義で作物ができるといわんばかりの、実に甘い認識があったのでは、と想像されます。土地収用についても、どうも満州の実態を見て理解していたか、疑問です。
さらに加藤完治について致命的と感じますのは、土地取得についての認識が実態にあわない点です。
 別途、 満州国 土地占有法  でも示しておりますとおり、土地取得にはきちんと法律が機能していました。
加藤は、朝鮮半島や中国各地からの移民が土地を手当たり次第に耕しているので、我々もどんどん耕そう、という認識だったとされます。これは満州国建国前の軍閥が割拠した時代の話であり、満州国を知ったうえで言っているとは考えにくく思われます。
そして 満州国 税 でも示しましておりますが、税の徴収が出来なくなってしまいます。

さて、満蒙開拓青少年義勇軍の精神主義は、指導者である加藤完治が率先し鼓舞していました。

 さらに満洲開拓青少年義勇軍について、義勇軍参加者で現地にて亡くなられた方の知人、義勇軍経験者の孫のブログから拾い集めましたものを、あれこれ書き記してみます。
これらに共通しておりますのは、なんといっても満蒙開拓青少年義勇軍の指導者である加藤完治の特徴で、精神主義をやたらと鼓舞していた点です。

佳木斯移民の頁にも戦前図書をピックアップしていますが、加藤完治が移民団の指導をしたとの記述があります。が、どうも精神修養だけで、農業技術を伝授したか、についての言及はありません。加藤完治自身はどのくらい農業技術の指導に関与したのか、については、現在、資料は見つけていません。
しかし、加藤完治自身は農業指導に関与したのか、については、現在、資料は見つけていません。
一方、かつて義勇軍に居たという方の孫がブログをアップしていたものが興味深いものでした(現在は消失しています)。
まず加藤完治は若人を導いたカリスマで若人から絶対視されていたという点、さらにそのカリスマ性を高めるパフォーマンスもしていたというものです。
農業指導をする加藤完治が下肥(人糞の肥料)下肥の熟成度合いの確認にあたり、指を下肥に指してその指をなめて確認した、さらにそれは視察の皇族の前でもやって見せたというのです。

 一方で、私が調べた範囲ですが、一般に有機肥料は、味を見なくても熟成したかはわかるのだそうです。臭いで、さらに経験があれば、見ただけで、ちゃんと肥料に使えるかが判る。
つまり、加藤完治は不要なパフォーマンスをしたと理解されます。そもそも、本当になめたのかも疑問です。そういうフリをしただけだったかもしれません。抗生物質や良い薬の無い時代に、この雑菌腐敗菌だらけの下肥を舐めるというパフォーマンスは命取りだからです。 この話は戦後の書籍では見かけておりませんが、もし本当なら加藤完治が農業をどこまで知っていたのかが疑問ですし、さらに満蒙開拓青少年義勇軍の指導は実は政治活動(政争)の一環だったのでは、とさえ疑ってしまいます。

さて、加藤完治に鍛えられた少年義勇軍は、なんといっても精神主義ありき、であった様です。
 訓練は軍事を含め様々なものであった様です。
 一方、満州入りすると早速、手荒な歓迎があったとのことでした。3年の先輩が2年の後輩に命じ、1年の新入りをリンチさせた、という体験談があります。新入りを正座して並ばせ、2年に棒を持たせ、失神するまで頭部を殴る、3年はそれをみて木魚だと笑い、2年の従順さを確認するわけです。
 精神主義ありき、ではこうした理不尽に堪えるという行為が鍛錬になる、と考えてしまうのかもしれません。
いうまでもなく、自衛し自営できる農業の訓練をして実績を上げることと、こうしたリンチ行為とは関係ないと考えます。
こうした環境で少年達は荒んでしまい、いくつか事件も起こしています。
 運動会で3年の行為に腹を立てた2年が乱闘を起こし、武器庫からライフルを持ち出して発砲、死傷者が出ています。
また冬になると、あまりに寒いためトイレを使わず、建屋内のところかまわず糞便をしていたというのもあります。こうなると、集団ヒステリーでも起こしていたのか、と思いたくもなります。

 義勇軍の少年には、憧れて満州に来たものの、夢破れて脱走、意気揚々と満州へは来たものの嫌気がさして脱走するものもいました。
 運よく街までたどり着いて、そこで職を見つけて、という例もあったらしいのですが、おおむね連れ戻されました。
また、そうした脱走時に狼の犠牲になった少年の例もありました。特に狼は集団で狩りをする場合、遠巻きに囲って獲物が弱るのを待つ方法をとります。脱走した義勇軍の少年はライフルを持って狼を何頭か撃ちとっていますが、この弾が尽きたところで狼に襲われて犠牲となってしまいました。
 義勇軍訓練所には、娯楽の類が全く無く、慰問団や娯楽の道具を提供してもらう為、訓練所を脱出した話もありました。この行為は軍隊と脱柵、脱走と同じ扱いで、当然、許されません。

 義勇軍の環境は随時改善されていった様です。実際、どういう慰問がなされたのかは、興味があります。戦前の旅行記や写真集の記述に "脱走するものも減った" というものを稀に見かけます。脱走者が減った実績は、つまり若人の環境も整った ( おくればせながら )からだと考えられます。 

実態をないがしろにし精神主義を言い立てる、このことは満州移民のページで紹介しました湯浅克衛氏が "精神主義ではなく科学的道筋を"、と書いていたことと対照的だといえます。
さらに義勇軍は、機械化に熱心ではなかったかもしれません。
開拓に於いては機械化が課題でした。移民団の体験談に、春になると満拓公社がトラクターを出してくれ、開墾地を一気に耕していたというものがあります。一方、満蒙開拓義勇軍に機械化についての言及がみあたらないのと対照的と感じます ( この満蒙開拓義勇軍の機械化については今後の課題とします )。 

以上、簡単ですが、今後とも資料収集や取材を重ね、資料や画像などと合わせて紹介できる様、勤めてまいります。
満州から引き上げる際、満蒙開拓義勇軍の隊員と思われる若い少年が、引揚者を集めた現地の小学校の片隅で見かけたという話を伺いました。その少年は誰とも話さず、黙ったままじっと座っていたそうです。その少年は病気になり、引き上げ船が来る前に亡くなってしまいました。
この少年だけでなく、終戦時、義勇軍の少年達はソ連兵に殺され、シベリアへ抑留されて過酷な生活の中で亡くなったり、引き上げの途中で力尽きるなどして、多くが日本に戻れませんでした。

 合掌。  

各県の多くの護国神社にはこうした満蒙開拓青少年義勇隊の慰霊碑があります。


皆様も機会があれば、慰霊碑への訪問をお勧めします。 


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