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正義とファシズム

☆正義とファシズム その1)
男女平等は正しい事です。今日において、これを否定する人など有り得ないでしょう。
しかし私は本連載を通じ、これに異論を提案しています。
ただ、異論と申しましても男女平等そのものを否定するものではありません。ここでの異論とは、男女平等という輝かしい正義を身に付けたとしても、その正義に基づく行動が正しいとは限らないという異論です。また、この典型としてジェンダーフリーについて性器教育の推進を行なう先生方について述べてきました。こうした性器教育推進派の先生方は、性に関して政治的・社会的な思想傾向、つまりイデオロギーを強く固持しているようです。
こうした性とイデオロギーについて、歴史を紐解いて見ますと、類似とみなせる例がありました。
類似点としては、人をイデオロギーのシステムに取り込むにあたり、性を定義して展開するというものです。

そこで今回より教育現場で行なわれている性器教育について、三番目の特徴に挙げました「性に政治的な正しさを求めている」として、こうした思春期の性をイデオロギーに染めてきた手法について、特にナチス・ドイツとそれに取り込まれたワンダーフォーゲルの経緯を追いながら掘り下げてみます。
ワンダーフォーゲルとは独語で「放浪する鳥たち(渡り鳥)」という意味です。このワンダーフォーゲルは、今日に於いても若人を中心に人気のある野外活動ですので、ご存知の方も多いかと思います。
ワンダーフォーゲルは、元々自然回帰という運動の中で生まれたものです。自然回帰運動といえば、転地療養みたいなもの、あるいは森林浴といった自然の満喫だとすれば、馴染みがあるかと思います。ワンダーフォーゲルよりも先にあった自然回帰運動とは、大自然と健康の為に裸体生活を満喫するというものです。
健康と自然というのは、昔から真剣に考えられており、例えば今日ではポピュラーな海水浴は、最初は自然治癒のひとつでした。外から見えない台車に乗り込んで砂浜から海へ進み、台車の中で海水につかるというものでした。勿論水着は着ていたのですが、泳ぐためではないので現在の競泳水着とは随分形状が異なります。
こうした自然回帰はナチスよりも古く、第一次大戦よりも前からの歴史があります。これは急速に進む工業化や近代都市化文明の台頭に対抗した運動として盛り上がりってきます。
これは都市化が進むにつれて結核、クル病、リューマチ、肝臓病、バイ毒といった病気が蔓延したことによります。これらを都市が作り出した文明病とし、これを克服する目的に、人々の支持が集まったのです。つまり、自然の中での健康生活を説くのはワンダーフォーゲルやナチスよりも遙かに前から正しい事として浸透しているといえます。
これらはまず1855年のサナトリウム設立、続いての太陽セラピー医院設立の設立などを通じて、さらに支持者を増やしていきます。
こうして自然治癒運動は、肉体運動として盛り上がりを見せ、第一次大戦後にはドイツのウンゲウイッタによる体系化や近代ヌーディズムへと発展します。
ウンゲウイッタは自由日光公園(フライリヒトパルク)を設立、そして「今日の社会は人間を不健全にしている。」「不健全の原因である性的ノイローゼを克服する」「創造的社会は全裸生活から生まれる。」という主張が展開されます。この主張に基づき丸裸で太陽の光を浴ながらの水浴が実践されます。
私達は普通、水着を着て海水浴をします。いくら海水浴が健康に良いとしても水着は身に付けるのが当たり前です。しかし、ここでは社会を健全にするためだとして、水着が否定されているのです。つまり男女ともに丸裸になるのです。
こうして自然と健康生活を目指す肉体・裸体運動が始まります(裸体による海水浴は、ヌーディストビーチとして今日でもありますね)
これは青年らによる支持を得て、そしてワンダーフォーゲルの組織が生まれます。この支持は、文明病を生む不健康な社会への反発と、健康に生きるための要求の表れでもあります。こうしてワンダーフォーゲルは、今日と同じく舞踊や音楽を嗜む一方で、裸体になって水浴や森林浴を行なう活動でもありました。

ドイツにおけるこうしたワンダーフォーゲルの活動は、当初は非政治的な活動だった様です。しかし参加者には共通したイデオロギー的な意識があったとされます。ワンダーフォーゲルが全国的な団体として組織化された頃は第一次世界大戦で国が廃退していた頃でもあります。この背景から、若人がより良い国を、という意識を持った事は容易に想像できます。
また、これは社会を良くしたいという若人の機運が60年代の学生運動へ繋がったことを思えば、ごく自然な事ではないかと思います。
ドイツの若人も日本の若人と同じ機運を持ったのです。ワンダーフォーゲルでのイデオロギー的な意識は、第一次大戦後から続く社会の低迷や混乱に対し民族が危機にあるというもので、これが後々の組織統廃合を通じてヒトラー政権の民族主義と合流し、政治的影響を強く持つようになっていきます。
ちなみにワンダーフォーゲルは、古来の挨拶形式を復活。右手を挙げて「ハイル」と声をかけるものです。後にナチズムへの流れの中で、この挨拶は同じく右手を挙げる「ハイルヒトラー」へと繋がります。
☆正義とファシズム その2)
前回からの続きです。ワンダーフォーゲルに見られる様な青年らの活動が最終的にナチズムに合流してしまう話です。
さて、このワンダーフォーゲルにある様な裸体と健康、そして体育主義の組織は何度も分裂や別の青年活動との統廃合を繰り返します。そのなかで教育を通じて性のあり方を若人に仕込むことが着手されます。
ドイツの体育教師アドルフ・コッホは学生相手の指導において、健康な肉体を目指すとして子供らを野外に集め、全裸体操の授業を行ないました。この授業は誰がどうみても破廉恥(はれんち)ですから裁判沙汰となります。しかしベルリン生化学研究所の生化学者マグヌス・ヒルシュフェルトらによる弁護で無罪を獲得、この裁判の宣伝効果がきっかけとなって運動は急速に盛り上がりを見せます。そして裸体主義体育教会が設立、コッホが体系化した体育的裸体主義は、ナチスの宣伝としても有名なベルリンオリンピックでピークを迎えます。

さて、ここでこれら特徴から考えられることを挙げてみます。まず、最初は正しさを求めた正義だという点です。
誰しも不健康よりも健康である事が正しいと思うでしょう。そして健康である為に自然と共にある生活が提唱されれば、誰しも支持する正義だと考えられます。
しかし、裸という性のあり方を提唱する方法が採られた結果、ナチス時代には「アーリア民族の身体的優等性を誇示する」事が目的となり、政治的・右翼的特徴を持つものとなりました。それは、鍛えた身体を芸術的に撮影し政治宣伝とする、また崇高な精神を保っていれば男女裸同士でも欲情することはありえないという精神主義を宣揚する(なので、もし男性器を勃起でもすれば、えらいことになる)というものになりました。
こうして青年らの運動は統廃合を経てワンダーフォーゲルからユース・リーグに、そしてヒトラー・ユーゲントへ移っていきます。

ヒトラー・ユーゲントは、男子を未来の兵士に、女子を未来の兵士を生む母に育てる組織です。そこでは歴史・政治・人種生物学の教育と相当な身体的訓練を施したとされます。またこの訓練に於いて月に1〜2度週末に行われるキャンプもあり、これはワンダーフォーゲルの流れを汲んでいます。やはりワンダーフォーゲルの運動内容は若人を引きつける魅力があるのでしょう。
またヒトラー・ユーゲントは後方支援をはじめとする軍役にも従事、戦争末期には戦闘にも参加したようです。ちなみに男女の役割別ですが、兵士にふさわしい子を生むため女子にも男子と同じく肉体的鍛錬が与えられ、軍役もありました。こうして、それまでにはなかった家を留守にして政治活動を行なうという女性像を実現するなど、男女の実質的な差は少なくなっていたようです。
また「開放的で」「古典的な男タイプに近づくことができた」等と当時の書物に記載されるなど、ナチズムに統合された性を身に付けた若人は、社会と歴史の変換に影響を与えた事も伺えます。
☆正義とファシズム その3)
前回からの続きです。ナチズムの歴史をヌーディズムにもポイントを置いて振り返り、且つ政治的な動きを持つ性についても触れてみました。
さて、このヒトラー・ユーゲントに若人が多く憧れ、その教育を進んで受けたのはなぜだろうという疑問がよく言われます。そういった論説では時代背景を掘り下げる事で考察がなされています。が、時代背景だけではなく、これらの運動の入り口に、正しさがあったからだとはいえないでしょうか。
ナチズムに限らず、どの活動も出発点は正義です。誰もが求め、誰しも否定しない普遍的な正義です。
自然回帰と健康、平和と安定、よりよい社会、男女の平等。これらは人権思想の進んだ今日に於いても、重要なものです。しかし、その過程に於いて性を目的に合致させる為に性器と発情をコントロールするとしたらどうでしょうか。また、先に挙げたものは、いずれも性的な後ろめたさや恥じらいを積極的に排除しようとしています。例えばナチスでの活動を遡ると、健康な次世代を願って学校での全裸授業、肉体の賛美、そして挙げ句にヒトラー・ユーゲントにたどり着くのです。
前章に示しましたロリコン漫画まがいの性教育を学校の先生が行い、その支援者に社会的地位のある人がいる点の類似を感じます。

ここではナチズムを挙げました。これらをベトナム戦争の頃のヒッピーらによる無政府主義的廃退的ヌーディズムと比較してみますと、性質が正反対です。しかし性質が反対とはいってもイデオロギー的な性です。ナチズムとは正反対の、あくまで左翼的な退廃的ヌーディズムですが、やはり政治的な正しさを求める中で性に手を出しています。さらに過激な社会主義革命を行ったポルポトですが、その改革の中で人の心にも改革を求め、余暇・音楽・映画、そして恋愛も禁止しています。つまりは、やはり性質こそ違いますが性に手を出しているのです。いずれも政治的な正しさを成し遂げる、つまり正義の実現を目指したものだといえます。が、結果は皆さんもご存知の通りです。
さて、日本で正義が横行するのはもっともなことだと考えます。日本国憲法にも「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」とありますとおり、我々は社会を通じて正義を成す志を根幹として持っているのです。
それが組織化を伴ってお役所、社会のあり方、教育を変えようとする政治となります。日本では政治を利権として捉える傾向が強いためか、これらを政治として認識していない特徴がありますが、やはり政治活動だといえます。
私達は、その変革を求める政治が性に手を出していないかを検証する必要があります。その理由は政治的に正しい性が歴史的に見てどうだったかを振り返れば容易にご理解いただけると思います。特に教育の手段で破廉恥をもって社会規範に挑む場合は注意が必要だといえます。
ワンダーフォーゲルが組織される1890年頃には「青年を制するものは未来を制する。」と政府・軍・諸政党・教会から注目されたとあります。同じく学校で行なわれるジェンダーフリーの性器教育においても、若人に対してダイレクトに性と性器に踏み込んでいますので、ますます要注意です。
今日の性の乱れ、性を通じた反社会性など、結果は目に見えていると思います。これらから、今日の政治的に正しい性に付いての考察はいくらでも出来ると思うのですが、如何でしょうか。

さて、この私の懸念に対し、過去の政治的に正しかった性は今日のそれとは異なるとして色々な理由で反論がありました。
それらは「時代が違うから」「自由と人権に則っているから」「右翼ではないから」だというものがほとんどです。つまり、今の政治的に正しい性はジェンダーフリーだからこそ正義だというのです。なるほど確かに時代背景も違いますし、なるほど右翼でもないのでしょう。
確かにこれらの違いはあります。しかしながら、一方で共通点もあげられます。
まず、理解しやすく普遍的な正義を入り口に持ちます。ここでは、男女平等推進というものです。
そして、その浸透方法にも共通があります。例えば、思春期に体育の授業で異性の躍動美や活動し易い服装に、どきどきと恥じらいを感じる事はありうる話です。しかし、ナチスはそれをイデオロギー浸透の過程で削り取ってしまったわけです。
これまでに述べてきた性器教育に、これらの特徴を見出す事はできないでしょうか。
前章では教育を中心に述べてきました。が、教育以外にも政治的に正しい性の活動に於いて類似とみなせる特徴を持つ活動もあります。
「(トイレは)性別によって完全に分けられて選別されるわけです。(中略)トイレを通じて私たちが男であるか女であるか確認させられる、問いつめられる装置なんだ、ということに思い至ってほしい。」
これは、男と女は社会的につくられたものだというジェンダーフリーの立場を主張する中で、便所の男女差をなくすという考え方を説明したものです。
なるほど、ナチスは男女の便所差についての提言はしていません。また、ナチスが推進したのは肉体礼賛と健康を成し遂げる活動ですから、便所とは異質のものです。
ジェンダーフリー便所(?)においても、イデオロギー的に性を定義し、性に関する感覚を作りかえるという姿勢が見て取れます。この共通点に注目してみますと、ナチスの行なった事は形を変えて今日も生きているのだとはいえないでしょうか。

※:平成15年12月12日(金)に行われた品川区主催のイベント「人権尊重都市品川宣言10周年記念 男女平等推進フォーラム」での内容から。
参考ウェブサイト:
食品力士「品川区キチガイ祭り《みんなちがってみんなクズ》をヲチするサイト」
URL:http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/4016/index.html

参考図書:
・多木浩二著 岩波新書赤版209『ヌード写真』: 岩波書店1992 年刊
・88年別冊太陽秋号 

                          → おわり に続く
                           


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