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疫病 志賀潔博士、赤十字





ちゅうごくでは、ちべっとで沢山のひとびとがころされました
てんあんもんじけんでも沢山がなくなりました
ぶんかだいかくめいでも沢山のひとびとがしんでしまいました
ちゅうごくのひとはしりません

                        
疫病
疫病、というと昨今では家畜の伝染病が報道され、先日はデング熱にエボラ出欠熱とまだまだ猛威を振るっています。
これら疫病は、昔から脅威で、ひとたび疫病が出ると患者の隔離、消毒と大騒ぎなりました。日本でも明治のコレラ騒動、そして結核も戦後しばらくは死の病でした。
明治の頃、満州の地方で疫病が大流行し、医師団が派遣され、多数の医学的な調査解剖を行っています。

疫病の恐ろしさは、命を落とす病気が広く伝染してしまうことです。村が、町が、疫病で全滅、という事態も珍しくありませんでした。
日本の近代の疫病では、たとえばコレラが明治十二年に日本中で大流行しています。全国の死者十万五千余を数えました。江戸時代にコロリと呼ばれたコレラですが、近代化が進んだ明治時代でもなすすべが無かったといえます。そして、感染が広まることは理解されていた為、明治政府は江戸時代と同じく、強制力を持って患者を隔離、また強制的にコレラ流行地域の消毒を行いました。
当時、既に「飲み水に気をつける、食べ物の腐敗注意、便所の清潔、体を清潔に保つ」といった働きかけが行われており、予防は出来ることは理解されつつあったようです。が、炭酸水を多量に飲むとよいなど、今日から見るとあまり医学的とは思えない対策も大真面目に取り組まれていました。
明治の炭酸水というと、平野鉱泉(三ツ矢サイダーの元)が思い出されます。"明治14年(1881年)、平野鉱泉が「理想的な鉱泉」として認められ、1884年(明治17年)平野から湧き出た炭酸水をびんに詰め「三ツ矢平野水」として製造・販売されたのが始まりです。(『阪急沿線データベース』から引用)"とあり、天然の炭酸泉を指していたのだとすると、これに疫病予防というのは、今日では、あまり通用しにくく思われます。

結核も恐ろしい疫病でした。
大正時代、日本国内で配布された日本赤十字社の一般人向けの結核に対する注意の冊子を入手ました。内容は事細かに感染防止が書かれたものでした。
痰(たん)も所定の入れ物に入れ、その入れ物も消毒しなさいと書いてあります。今日、見かけることはなくなりましたが、かつては駅などの人が集まるところには痰壺(たんつぼ)が置いてあり、ここへ痰を出していました。
ただ消毒として紹介されているのが曹達(ソーダ)で、大正時代ではこうしたものしかなかったのか、と感じます。
また精神を安らかに、歯を綺麗に、ともかかれており、まさに精神面を含めて出来ることは何でもしろ、という内容になっています。

場所は変わって満州。やはり疫病は畏れられており、結核やチブス (チフス) など猛威を振るっていました。明や清の時代には村をまるごと隔離して焼き払い、住民は穴へ埋めてしまう、ということもありました(いわゆる万人坑)。
当時の医療では有効な消毒液も治癒できる薬剤も難しかった、そして今日のような社会インフラが無い時代は伝染を食い止められなかったことを考えると、やむを得ない判断であったろうと思いますが、上記の様な大変乱暴なものとなってしまいました。

満州国ができるはるか前、明治三十八年四月二十日付けで奉天にて配布された防疫のビラの記述を紹介いたします(原本は中国語です)。

伝染病予防の心得
熱病や下痢及びその他の伝染病はみな原因となる病毒があり、人体に直接入り、あるいは飲食物を介し、増殖し伝染する。このため予防を実施する必要がある。左記の諸項目を実行し、おこたらないこと。

一、この病毒を殺すには、加熱もしくは薬物を用いる。薬物には各種あるが、便所などの場所の消毒には、石灰一を水九の割合で溶いて散布する。

二、患者に接近し同居する時は最も伝染しやすい。このため患者は隔離別居させる必要がある。

三、患者の痰や尿などの物にはすべて病毒があるので、必ずこれら不衛生なものは桶に集めて散逸しないようにし、石灰で消毒する。

四、患者の寝具や衣服および使用した器物は、すべて病毒が付着している。すべて焼却するのが最良の方法である。しかし焼却できない時は、釜の中に入れて煮沸する。

五、伝染病にかかって死んだ者は火葬にするのがよい方法である。もし実際に火葬できない場合は、直ちに地中に深く埋め(十尺以上 ※ )、万一にも室内や野外に長く置いていてはならない。

六、室内では常に窓を開けて日光を入れ、新鮮な空気を通し、いかにしても乾燥させる方法を講ずること。日光と乾燥とは病毒を殺すことに大いに有効である。

七、塵汚れを取り除いてさらに焼却し、排泄物を桶に集めて遠く野外に運ぶこと。

八、水中にも病毒が生存するゆえ、すでに煮沸した水を必ず使うこと。もし生水を飲むならば感染の恐れがある。

九、凡そ食物は生で食してはならず、必ず加熱したものを使うこと。さらに、加熱したものであっても時日が経って腐敗しそうなものは、また食してはならない。

十、加熱したものであっても時日を経れば病毒が付着する恐れがある。特に夏期に発生する蝿は、病毒を飲食物に運び、いろいろな病気の媒介となる。故に、凡そ飲食物は必ず覆いをして置くこと。

明治三十八年四月二十日

奉天軍政署
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※ : 一尺は約33センチ

文字起こししたテキストは以下の如し。
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預防傳染病之服膺
瘟疫痢疾及其他之傳染病皆有原性之病毒直入於人身,或介於飲食之物,滋發傳染。因此須行預防。左開諸項務要實行勿忽。

一 殺此病毒或用火熱或用薬物,而薬物雖有各種,至中厠等處之消毒,莫善於用一分石灰九分水,溶調以敷布之。
二 與病者接近同居之時,最易傳染。故病者須障離別居
三 因病者之痰吐及溺遺等物皆有病毒,必須將此等不潔之物集於桶中,防制散逸,用石灰以消其毒。
四 病者之臥具衣服及其所使用之器物,因皆着有病毒,悉行焼却,最爲良法。然不能焼却之時,須置於釜中而煮之。
五 得傳染病而死者,用火葬之,頗係善法。若實不能火葬,立須深埋於土中(十尺以上)。萬勿久置於室院及野外。
六 室内常要開窗,以入日光,而通清氣,無論如何,總設法使其乾燥。日光與乾燥頗大有殺病毒之力也。
七 除却塵穢,再則焼却之。集溺遺之物於桶内,須遠送於田野之外。
八 水中生存病毒,故總須用已經滾熟之水。如飲生水則有傳染之虞。
九 凡食物不可生食,必須用烹煮者。再則雖經烹煮之物而過時日將腐壞者,亦不可食。
十 雖經烹煮之物而過時日,則有附着病毒之虞。最是夏期發生之蒼蠅,移植病毒於飲食之物、爲各病之媒介。故凡飲食之物必須掩蓋而置之。

明治三十八年四月二十日
奉天軍政署
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奉天軍政所

( 翻訳協力:アクチニウムMM様 )

満州国が設立する頃も、やはり疫病は脅威でした。
満州国に渡った日本人の記録に疫病関係のものがありました。
この人は満州にわたったものの上手く事業が立ちあがらず、職を必死で探していたそうです。
その時、チブス(チフス)にかかって一家全員が倒れた家に住み込みで看病をするという仕事を見つけます。かなりよい給金が支払われましたが、これは当然、感染のリスクが値段に反映したものでした。ちなみにその一家は幼い子供一人が死亡してしまいましたが全快をし、看病の職についた人も幸い感染せずにすんでいます。

満州国設立後、予防接種は広く実施されました。特に交通の便が良くなる為、保菌者が長距離を移動してしまうリスクがありました。チフスなど潜伏期間があるものは、発病前に遠くまで移動し、移動した先で発病に伴って感染源となってしまいかねないわけです。そのため、満州の旅行者は予防接種をするだけでなく、予防接種証明書を携帯する必要がありました。

満鉄は疫病に対し機動的に活動できる様、鉄道に疫病対策の設備を載せた防疫列車を運行させています。動画サイトにアップロードされたものがありますので、是非、一度ご覧下さい。
疫病に対し対処が出来る様になった今日、これだけの対策のための装備を持つことは理解しにくいかもしれません (なので、インターネットでは、ごく一部に防疫に力を注ぐこと自体を不思議に思っているものすらあります)。が、科学的アプローチをもって疫病に望む満鉄の姿は一見の価値ありです。

赤十字社 厚生科
さて、ここで二種類ほど写真を紹介します。
まずは赤十字社 厚生科のもの。若い女性が使命感を持って赤十字社に従事している様が撮影されています。娘々廟施療という写真もあります。こうしたイベントを活用し、地元の人たちと共に活動をしていたことが伺えます。

こちら


ちなみに、当時は勝での日本と同様に近代医学への偏見があった様で、予防注射をしようとすると "種無しにされる(子孫が残せなくなる)" と暴動が起きそうになったなど、苦労をした様です。
医学はもちろん、衛生についても当時の満州と日本では差があった様です。移民村で苦力を雇い、まずは彼らの服を着替えさせ洗濯しようとしたところ、苦力らが怯えてやはり暴動になりそうになったとか。こうした日本人の衛生観念が現地では容易には通用しなかったなど、様々な事例があった様です。

日本は、川には澄んだ水がどんどん流れ、生活汚染されていない地下水の井戸も得やすい土地だといえます。この点、防疫には有利です。そんな日本から満州へ移民すると、伝染病に対する心構えにおいては、何かと苦労した様です。
昭和14年、奈良の中学生が青年勤労報国隊として満州に渡った際に作られたパンフレット『勤労奉仕隊員衛生心得』には赤痢やチフスの予防の心得が書かれています。とにかく生水は駄目、ハエのついたものは食べるな、など細かく記載されています。

赤痢菌発見者 志賀潔博士
もうひとつ、満州国時代のものではなく大正時代のものですが、赤痢菌発見者である志賀潔博士が大正10年中国旧関東庁を訪問した際の写真を紹介します。撮影の詳細は不明です(個人の撮影か?)。

こちら

看板には"臨時第一検疫事 "とあり、事務所前での撮影、しかも臨時で、とあります。疫病発生に伴う緊急の対応の一環なのかもしれません。
ちなみに志賀潔氏は、この後、近くの村や埋葬場所を訪問しています。その写真は未入手ですが、大人の膝くらいまでしか掘られていない穴にいくつもの遺体が乱雑な感じで入れられていました(埋葬というより、遺体を放り込んだ、という風に見えるもの)。
そこで、先の奉天で配布されたビラの五番目
『伝染病にかかって死んだ者は火葬にするのがよい方法である。もし実際に火葬できない場合は、直ちに地中に深く埋め(十尺以上 ※ )、万一にも室内や野外に長く置いていてはならない。』
というのが思い出されます。
日本では高温多湿のため、浅く土葬をすると土壌がたちまち異臭を放ちます。さらに土壌の水分が多くなると遺体から分離した皮下脂肪(人脂)が地面に滲み出して土壌を変色させます。その為、埋葬は、大人の背丈以上掘り下げて行われていました(2メートル近く/墓堀人夫が丸一日かけて掘り下げたとか)。
が、当時の大陸ではあまり深くは掘られていませんでした(当時の旅行記、個人撮影の写真や従軍カメラマンの撮影など)。これらは疫病の汚染源にもなりかねない実態だといえます。志賀潔氏はこれらの状況を見て回ったのではないかと想像します。

志賀潔博士の写真に関しまして、一寸、掘り下げてみます。
"志賀潔博士生写真 人物クローズアップ" をご覧になるとわかりますが、並んでいる白人は、ハンマーを二つ組み合わせた意匠(デザイン)の襟章に帽章をつけています。
一見、ソビエトの国旗にも使われている鎌と槌にも似ています。

そこで軍装にお詳しい方に考察をお願いいたしました。
要は、極東共和国人民革命軍の可能性が最も高く、続いて赤軍の可能性もあり、とのことです。やはり地元のロシア人の軍政府のなんらかの重鎮が、志賀潔博士の訪問を聞きつけて挨拶&記念撮影をした、それだけ疫病に関してなんらかの事件があったか、関心が高かったと考えます。


『 時期的には日本サイドに立って満州国などにも広く存在した白系ロシア人の可能性も否定できませんが、軍装は明らかに元極東白軍司令官の軍装とは違います。
どう見ても旧ソ連軍である赤軍に近い軍装と思われます。
恐らくは極東共和国人民解放軍だと想像します。
しかし過渡期の軍隊は正式な軍服を制定しておらず個々が帝政ロシア時代や赤軍のものを模倣し使っていたようです。ちなみに撮影された大正10年の前の年、ザバイカル州で全ロシア臨時政府 (コルチャーク政府)に公認されたロシア人の政権が樹立していますが…大正9年の後半には政権崩壊しています。この際の彼等の軍装は明らかに帝政時代のものであり、比較的、近代に近い写真の軍装とは異なるものと思われます。
尚、鎌とハンマーのソ連軍の帽章は昭和21年の制定のようです。それ以前では大きな赤い星だけを帽章にしたシンプルなものが多かったようです。 』
( 軍装編集協力:憂国烈士様 )


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