このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
それは古(いにしえ)への道
〜足長神社〜
長い石段を昇りきったその先の拝殿。 境内へと続く石段の傾斜は 40度以上ともいわれるが 人も御柱もこれを通る。 | 足長神社の裏手には 公園がある。 一角にはこのような石が。 なにやら神秘的である。 |
清涼殿の丑寅の隅の、北のへだてなる御障子は、荒海のかた、生きたる物どものおそろしげなる、手長足長などをぞかきたる。上の御局の戸を押し開けたれば、常に目に見ゆるを、にくみなどして笑ふ。(『枕草子』) 清涼殿の丑寅(東北)の角の、北に置かれている衝立には、荒海の絵、生きている物どもで恐ろしい様をしたもの、手長足長などが描かれているのです。弘徽殿の上の御局の戸が、押し開かれているのでいつも目に入ってくるのですが、憎らしいものだと思って笑うのです。 『枕草子』に書き記された「手長足長」が、手長神社と足長神社に祀られている「手名椎神(テナヅチ)足名椎神(アシナヅチ)」と同一視するか否かは説が分かれています。 「手長足長」には開拓神、異形の巨人、妖怪、悪鬼などの話が各地に伝わり、中国では不老不死の神仙と言われています。諏訪においては建御名方神と共に出雲からやってきた開拓神とされ、また神社の系譜には諏訪大神の曾祖夫母であり櫛名田姫(奇稲田姫)の父母神とあります。しかし一方で、巨人としての姿を見る事も出来るのです。 関東や中部地方に語り継がれている「でいらぼっち(だいだらぼっち)」という巨人伝説は、この諏訪地方にも残っています。そしてでいらぼっちが諏訪から去った後、この地にやってきたのが手長足長の両神でした。こちらに描かれる両神は巨人の姿であり、荒々しいでいらぼっちに比べ温和であったとされています。足長に背負われた手長はその長い手で諏訪湖の魚や貝を採ったといい、足長はその長い足で野山を駆けたといいます。遠い京において、その恐ろしげなる姿で、女房達を不安にさせたという衝立の「手長足長」は果たしてどのように描かれていたのでしょうか。 足長神社は「萩を以て社宇屋上を葺きたる」故に古くは荻の宮とも呼ばれたといいます。また、かつては足名椎神と手名椎神の両神が祀られていました。しかし桑原郷が上桑原と下桑原郷に分かれた際に社の神々も別に祀られ、手名椎神は下桑原郷に移されたといいます。諏訪社上社大祝の始祖とされる有員親王は、この社を崇敬し近くに住んだとされ、御曽儀平みそぎだいらの名が残っています。大隈流矢崎専司らにより天保13年に建てられた拝殿の彫刻は重厚にして華麗。ももかは宝尽くしの彫刻がお気に入りです。江戸時代、立川流と大隈流はその技を競っていました。諏訪大社下社の建築物にも立川流と大隈流の粋を見る事が出来ます。 *手長神社については こちら | ||
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