このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

古代へと続く石段
〜手長神社〜


石段は二百四十三段。
提灯をかかげた氏子によって
御柱が通るのは七年に一度。
土着神とする資料もあるが、
建御名方神に従って諏訪に入り
開拓をしたともいわれる。
拝殿は天明8年に
初代立川和四郎豊棟が造営。
当初屋根はこけら葺であった。


かれ避追
えて、出雲の国の肥の河上、名は鳥髪といふ地に降りましき。この時に、箸その河ゆ流れ下りき。ここに須佐の男の命、その河上に人ありとおもほして、尋まぎ上り往でまししかば、老夫と老女と二人ありて、童女を中に置きて泣く。ここに「汝たちは誰そ」と問ひ賜ひき。かれその老夫、答へて言さく「僕は国つ神大山津見の神の子なり。僕が名は足名椎といひ妻が名は手名椎といひ、女が名は櫛名田比売と謂ふ」とまをしき。(『新訂古事記』角川文庫より)

「八岐大蛇」の話で登場する手名椎神を祀る手長神社。手名椎は手摩乳とも書き、その意は「慈しみ撫でる」。娘・櫛名田姫(奇稲田姫)を慈しみ育てた親神の温かさをその名に感じます。櫛名田姫は建御名方神の曽祖母神でもあります。『矢島家文書』には手長彦神と足長雄神とあり、諏訪大神(建御名方神)に従い諏訪に来られたと記されています。お社は茶臼山(手長山)の山麓にあり、嘉禎年間(1235〜37)に成立した『根元記』によれば下桑原鎮守とあって、中世には上社枝宮(末社)として存在していました。因みに手長神社の御神紋は上社系の三本梶四根。境内には梶も植えられています。

茶臼山には古墳時代の出土品も見られ、一帯は古くから人が住まう地でありました。正面参道は手長小路と呼ばれもともとは細い道だったといいますが、現在は立派な石段となっています。参道と鎌倉街道が交差するところが諏訪の三辻の一つ、手長の辻。「いざ鎌倉」の時代、参道の近くでは武士達が馬を走らせていたのかもしれません。また15世紀には茶臼山城(高島城、高島古城)という城が存在していました。湖と山とが急に狭まった地形からみても、土地の境目と見なす事が出来、実際に中世では下社勢力と上社勢力の衝突する地でもありました。今でこそ湖も遠くに見えますが、昔はもう少し湖も広く展望も開けていた筈であり、天竜川の河口さえもが見えたと思われます。河口を中心にして西南は伊那谷へ、そして西北は塩尻から松本平へと続くと考えれば、その中でこの地が重要な拠点とされていたのではと推察されてやみません。
戦国時代には軍事拠点としての茶臼山を見る事が出来ます。諏訪総領家を滅ぼしてから7年後の天文18年、武田信玄は信濃守護小笠原長時を塩尻峠の戦いで破ります。そしてその翌年政庁を上原城から茶臼山城に移しました。しかし茶臼山城は武田氏滅亡後は廃城となり、今は城の西側にあたる手長神社の裏側などに僅かな遺構が留まるのみです。江戸時代、諏訪高島藩は湖に面した高島城を居城に据えました。手長神社はその鬼門にあたる事から崇敬を集め現在に至ります。

諏訪大社の御柱祭の後、諏訪地方で繰り広げられるのが小宮の御柱祭。手長神社の場合、上諏訪駅側の大踏切を渡ったり、温泉街を曳いたりと実に華やかです。また急な石段が正面参道であり、御柱が通るのも当然のこと。広い石段もこの時ばかりは人で埋まってしまいます。また、石段を曳くのは夕暮れ時で、氏子達は提灯を灯し、薄暗い中を、御柱を傷つけないように、また石段を傷付けないように曳き上げていくのです。

*足長神社については こちら



閑話休題・・・。
手長宮のとある一日。


平成13年から始まった水無月の大祓・鎮火祭。
神事で潜る茅の輪は素晴らしい出来栄え。
氏子が集いこじんまりと和気藹々と行われる。
(諏訪地方では茅の輪を作る神社が少ない)
七夕の節供・乞巧奠。
境内には笹の葉が飾られ、はしゃぐ子供達の姿は
鬱蒼とした社叢の中に華やかさを添える。
時を同じくして始まったそうである。

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