このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

現人神が眠るやしろ
〜御射山神社〜


うっそうとした境内は人を寄せつけないような
そんな神秘な空間にみえる。
でもこのお社の周りは畑に囲まれ
神と人との間はそうは遠くないのだ。
神であったその人は
この地で長い眠りについたのだという。
その生まれも歴史も謎に包まれたままで。
(左/神功皇后社・子安社、右/伝大祝有員公塚)

諏訪大社の2つのお社は、明治時代に二社一社となっています。それ以前、戦国時代に下社が衰退するまで、上社と下社はそれぞれ分かれ、祭祀を執り行なっていました。上社は日本海側から糸魚川に沿って、更に大門峠を越えて諏訪に入ったとされる出雲系の民族が祀るお社とされるのに対し、下社は太平洋側から天竜川を上り諏訪にやってきた大和系の民族が祀るお社といわれています。

上社大祝の祖とされる有員は、一説に桓武天皇の第五皇子と伝えられています。8歳の時に、建御名方命は御衣を脱ぎ着せ「吾に躰なし祝をもって躰とす」と言ったとされ、有員は神格を与えられ御衣木祝(みそぎのはふり)として職位したのだとか。有員は諏訪氏(神氏)を称し、傍らに洩矢神の末裔である守矢氏を置き現人神として人々の前に立ったのです。彼の名は史書には出てこず、また、用明朝の人だとも、平城朝の人ともいう記述もあって、その出自や経歴は謎のまま、この上社摂社である御射山社に眠っているのです。御射山社は建御名方命と国常立命を祀り原山に鎮座したお社で、県境にも近い場所に位置しています。

この辺りは中世には神野(こうや)と呼ばれる上社の社領で、御狩(みかり)の祭事が行われてきました。地名にもこの名があるという事が、歴史の古さを物語っているような気がします。御狩の祭事とはいわゆる風鎮めの祭である「穂屋祭(御射山祭)」の事。薄で囲った仮屋(穂屋)を作り、狩で得た供物を捧げ、これから訪れるであろう台風の被害が少なからん事を願い、五穀豊穣・天
下泰平を祈願するもの。流鏑馬などの武術比べも行われたとされ、その名残が近くに見られます。

*御射山祭については
「風鎮めの祭・御射山祭(下社)」 を参照。

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