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 諏 訪 関 連 年 表 

*建御名方命、諏訪に入る。(『古事記』)
崇神建五百武尊、科野国造となる。(下社大祝の祖)
 587年用明科野国造麻背君(五百足君)の子・乙穎(一名神子くまこ、熊古)、湖山麓に社壇を構え、諏訪大神と百八十神を千代田の斎串を立てて奉斎。(諏訪大神大祝)(『阿蘇家系図』)
 645年大化元年本田善光、諏訪明神の神勅により寂光寺より仏を諏訪郡真志野村善光寺に移す。後、長野に移す。
 652年白雉 3年 2月朝廷が綿を諏訪明神に奉る。
 685年白鳳14年天武天皇、束間の湯に行宮を造る。
 691年朱鳥 5年 8月勅使を遣わして須和神と水内神を祀る。
 706年慶雲 3年朝廷が諏訪社(南向刀美神)・生島足島神・穂高神に幣帛を奉る。
 721年養老 5年 6月信濃国を割いて諏方国設置。後に美濃按察使の管理下に置かれる。
 724年神亀元年 3月配流の法を定め、諏方国を中流国とする。
 731年天平 3年 3月諏方国を廃し信濃国に合す。
 806年大同元年有員、上社大祝となる。(一説に桓武天皇の皇子という。御衣木祝みそぎほうり。神みわ氏の祖)(『神家系図』『諏訪大明神画詞』ほか諏訪社七年に一度の御造営が始まる(『諏訪大明神画詞』によれば桓武天皇の御世(781〜806年)の寅・申年に造営の記録)。
 842年承和 9年 5月無位諏訪明神(南方刀美神)に従五位下を授ける。
10月無位妃八坂刀売神に従五位下を授ける。
 850年嘉祥 3年10月建御名方命・妃八坂刀売命に従五位上を授ける。
 851年仁寿元年10月建御名方命・妃八坂刀売命に従三位を授ける。
 859年貞観元年 1月建御名方命に従二位、妃八坂刀売命に正三位を授ける。
 2月建御名方命に正二位、妃八坂刀売命に従二位を授ける。
 863年貞観 3年『三代実録』の中に信濃国諏訪郡右近衛将監正六位上金刺舎人貞長が見える。下社大祝ともいわれる。
 867年貞観 9年 3月建御名方命に従一位、妃八坂刀売命に正二位を授ける。
 878年元慶 2年蓼科山に従五位下を授ける。
 887年仁和 3年 4月員篤、上社大祝となる。
 903年延喜 3年有勝、上社大祝となる。
 905年延喜 5年 8月『延喜式』に諏訪上下社の表記が見られる。
 910年延喜10年10月有盛、上社大祝となる。
 940年天慶 3年建御名方命に正一位、妃八坂刀売命に従一位が授ける。
 950年天暦 4年 2月盛長、上社大祝となる。
 981年天元 4年員頼、上社大祝となる。
 996年長徳 2年 6月頼平、上社大祝となる。
1013年長和 2年有信、上社大祝となる。
1014年長和 3年 1月為信、上社大祝となる。
1059年康平 2年 3月為仲、上社大祝となる
1062年康平 5年 5月前九年の役(1056−1063)により、上社大祝為仲、源義家について出陣。
1081年永保元年八坂刀売命に正一位を授ける。
1087年寛治元年後三年の役(1083−1087)により上社大祝為仲、出陣するも後に自害。(ついで上社大祝となった為仲の弟達も頓死)
1088年寛治 2年 5月信時、上社大祝となる。
1107年嘉承 2年 2月盛信、上社大祝となる。
1129年大治 4年 3月貞光、上社大祝となる。
1155年久寿 2年源義賢、悪源太義平に討たれる。遺児・駒王丸(後の木曽義仲)、斉藤別当実盛に預けられる。実盛はこれを下社神官の中原兼遠(今井兼平らの父)に託し、諏訪で養育。後に木曽へ隠した。
1156年保元元年 7月保元の乱勃発。諏訪平五ら、源義朝軍に参戦。
1159年平治元年12月平治の乱勃発。諏訪武士、源義朝につくも利あらず。
1166年永万 2年 2月篤光、上社大祝となる。
1180年治承 4年 9月木曽義仲挙兵。金刺氏・諏訪氏・千野氏らは木曽軍に従う。
1183年寿永 2年 5月手塚光盛(下社大祝金刺盛澄の弟)、越前篠原において斉藤実盛を討つ。
1185年寿永 2年 4月木曽義仲、近江国粟津ヶ原にて討死。今井兼平(木曽四天王)・手塚光盛ら討死。樋口兼光(木曽四天王。兼平の兄)、千野光弘(上社方。諏訪氏の分流)ら京都四ツ塚にて討死。
1186年文治 2年 1月源頼朝、諏訪上下社に神馬を献上。同年、『吾妻鏡』に諏訪南宮上下社が八条院領とある。
1187年文治 3年 8月下社大祝金刺盛澄(木曽義仲の義父)、捕らえられ鎌倉に護送。流鏑馬神事において梶原景季のとりなしでその妙技を披露。後、許され帰訪。
1191年建久 2年 3月敦信(盛重)、上社大祝となる。
1212年建暦 2年 8月鎌倉幕府、諸国の守護・地頭に命じて鷹狩を禁じるも、諏訪社御贄鷹は許す。
1216年健保 4年 1月盛信、上社大祝となる。
1221年承久 3年 5月承久の変勃発。諏訪信重ら鎌倉方に参戦。
 6月上社大祝盛重、鎌倉方の戦勝を社殿に祈り、巻数を幕府に献上。
1223年貞応 2年12月信時、上社大祝となる。
1238年嘉禎 4年 3月信重、上社大祝となる。
1247年宝治元年 6月三浦泰村謀叛。諏訪盛重武功をあらわす。
1248年宝治 2年 6月諏訪盛重、北条時頼の長子・宝寿丸(後の時輔。執権時宗の兄)の乳人となる。
1251年建長 3年 3月諏訪社社頭の湖面に大島及び唐船等が浮かび上がる。幕府にこれを報告。
1258年正嘉 2年10月頼重、上社大祝となる。
1274年文永11年 3月継光、上社大祝となる。
1289年正応 2年 1月盛重、上社大祝となる。
1302年正安 4年 5月上社上空に白龍現れる。
1323年元享 3年 3月盛継、上社大祝となる
1331年元徳 3年 9月後醍醐天皇捕われる。同月、楠木正成、赤坂城に挙兵。
10月楠木正成の河内赤坂城攻めの為、軍勢が集まる。小笠原貞宗並びに諏訪祝部などの信濃勢は天王寺大路の軍に加わる。
1332年元弘 2年 1月継、上社大祝となる。
 3月後醍醐天皇、隠岐に流される(翌年閏2月隠岐を脱出)。
10月小笠原長生、信濃・甲斐の源氏を率いて上洛。
1333年元弘 3年 5月北条氏滅亡。諏訪真性ら殉じる。諏訪盛高(上社方)、北条高時の次男・亀寿丸(後の時行)を鎌倉より救い出し諏訪に匿う。
1335年建武 2年 7月諏訪頼重ら北条時行を擁して挙兵。伊豆・駿河・武蔵・相模・甲斐に応ずる者多し。武蔵国女影原にて足利直義軍を破る。
 8月鎌倉にいる時行軍を、足利軍が討つ。諏訪頼重ら自害。死しての顔を見られるのは忍びないと自らの面皮をはぐ。(中先代の乱、二十日先代の乱)
1336年建武 3年 1月信濃守護小笠原貞宗・甲斐守護武田政義が諏訪郡に入り、大祝藤沢政頼を廃して諏訪頼継を大祝とする。時に8歳。
1337年延元 2年 3月為継、上社大祝となる。
 6月北条時行、信濃大徳王寺城において挙兵。
 8月後醍醐天皇第8皇子宗良親王、諏訪へ渡御。
1339年延元 4年 7月為信、上社大祝となる。
 9月為次、上社大祝となる。
1340年延元 5年 2月為貞、上社大祝となる。
 6月北条時行、伊那郡大徳王寺城にて挙兵。諏訪頼継、これを助ける。
 8月小坂円忠(上社)、天竜寺造営の功により足利尊氏より感状を受ける。
興国元年10月北条時行、伊那郡大徳王寺城にて挙兵。諏訪頼継、これを助けるが落城し敗走。同月、宗良親王は信濃大河原に入り、後、越中へ赴く。
1344年興国 5年宗良親王、下社秋宮に祈願。
1346年興国 7年11月継宗、上社大祝となる。
1347年正平 2年 9月諏訪頼継、信濃国司を望むが信濃権守に任じられ憤慨。
1351年正平 6年 1月甲斐須沢城に篭った高師冬、上杉氏・上社方・下社方・信濃の足利直義党らに攻められ自刃。
 7月諏訪直頼、足利直義らと京都を脱し北陸に走る。
11月上社大祝信嗣、神長守矢頼実をして伊那郡飯田郷を安堵させる。
1352年正平 7年 2月足利直義、実兄・尊氏により、鎌倉の延福寺にて幽閉の後毒殺。信濃国にあった宗良親王、征夷大将軍・上野守・中務卿に任ぜられる。
閏2月宗良親王軍、信濃を発して鎌倉を目指す。諏訪氏らも同行。
 4月小笠原勢と諏訪勢、争う。信濃守護小笠原政長は陣中にて病没。
 6月頼信、上社大祝となる。
1355年正平11年 5月宗良親王ら越後から諏訪へ赴く。(宗良親王諏訪にて御歌「すはの海や 氷ふみて 渡る世も 神し守らは 危うからめや」李花集
 7月上社方・下社方・仁科氏が宗良親王の下に集まり、国中騒動す。
 8月宗良親王軍、信濃桔梗ヶ原にて小笠原長亮を攻めるも、大敗。この時仁科氏と共に上社祝矢島正忠は一族の小出・藤沢・香坂・知久氏らと参加。矢島正忠、流矢により討死。下社金刺氏は約定を違えこれに加わらず、以後足利方として上社勢と敵対するようになる。
1356年正平11年11月小坂円忠、『諏方大明神画詞』を著す。外題は後光厳天皇、奥書は足利尊氏。
1359年正平14年2月将軍足利義詮、天下泰平を下社に祈願。
1360年正平15年 5月頼員、上社大祝となる。
1365年貞治 4年12月諏訪直頼(上社方)、信濃守護小笠原信濃守と塩尻峠にて合戦。下社勢は守護勢に荷担。
1366年貞治 5年 1月諏訪直頼(上社方)、再び信濃守護小笠原信濃守と合戦。下社勢は守護勢に荷担。
1369年正平24年 2月上杉朝房・畠山基国の軍は小笠原氏の軍と合わせて、宗良親王の在所・信州大河原へ進軍。信州の宮方、これを防ぐ。諏訪頼継は和田峠に布陣。
1370年正平25年 3月信員、上社大祝となる。
1374年文中 3年 2月信有、上社大祝となる。
1377年天授 3年 8月信濃国人領主ら、上社造営料足納入を拒否。
1380年天授 6年 9月頼貞、上社大祝となる。
1387年正中元年 7月諏訪左馬(上社方)、田切合戦にて討死。将軍足利義満、上社所領を安堵す。
 9月熊井原合戦。諏訪の北朝方、敗れる。
1395年応永 2年 4月上社禰宜勝間某、前宮阿弥陀堂にて殺害。
1397年応永 4年10月有継、上社大祝となる。
1398年応永 5年 9月諏訪頼寛(頼継)、平井弖と戦い、勝つ。
1400年応永 7年信有、上社大祝となる。
1401年応永 8年 4月氏泰、上社大祝となる。
 9月信濃守護小笠原長秀に対し、仁科・祢津ら大文字一揆と呼ばれる諸氏が反旗を翻す。上社勢は南信の諸氏は大文字一揆に荷担。篠ノ井付近で激戦が繰り広げられる。(大塔合戦)
1406年応永13年 2月氏貞、上社大祝となる。
1411年応永18年 3月頼有、上社大祝となる。
1422年応永29年 4月上社御柱祭の日程を14日(寅の日)から16日に変更した事で神罰が下り、前宮一の建御柱にて死者が出る。またこの年、上社大祝頼有は矢ヶ崎祭にて落馬、諏訪道海(頼有の父)は重病で死去。いずれも神罰という。
1424年応永31年 2月満有、上社大祝となる。
1430年永享 2年 3月頼満、上社大祝となる。
1443年嘉吉 3年12月諏訪湖における御神渡を幕府に注進する。(御神渡の記録の始まり)
1446年文安 3年 4月光信、上社大祝となる。同年、大飢饉。
1447年文安 4年 1月上社前宮御室が焼ける。同年、大飢饉。
1448年文安 5年 3月長、上社大祝となる。
1449年文安 6年 5月上社と下社の争いが激しくなり、下社焼失。
1464年寛正 5年 4月上社御柱祭にて、御柱屋敷に穢れがあり大乱闘。負傷者が出る。
1465年寛正 6年 6月上社大祝信満、神長官守矢満長と仲違いし出仕を取り止める。後、和解。
1466年文正元年 3月継満、上社大祝となる。
1470年文明 2年10月足利義政、上社に神剣を献じ子息の息災延命を祈願。
1471年文明 3年 4月上社大宮蓮池に異変。上社大祝継満・諏訪信満・諏訪頼満ら祈祷を執り行う。
1479年文明11年 9月諏訪継満、伊那郡島田より諏訪に帰り、大祝の位に立ち直る。
*立直・・・位を降りた大祝が改めて即位(職位)すること。
1480年文明12年 2月下社大祝金刺興春、上社方を攻め安国寺周辺の大町に火を放つ。
 3月下社大祝金刺興春、西大町に火を放つ。
 8月上社大祝継満、小笠原政秀(政貞)と共に小笠原長左ヱ門佐を伊那郡伊賀良に攻める。
 9月上社大祝継満、伊那郡伊賀良より帰り、大祝の位に立直る。
1482年文明14年 4月上社御柱祭の日程が禰宜の訴訟によって4日から16日に変更。17日に大乱闘が起り死者が出る。神罰という。
*この年、全国的に災害多し。
1483年文明15年 1月上社大祝継満、前宮神殿において惣領家諏訪政満親子ら十余人を謀殺。同月、大祝継満は敵討ちにあい上社を追われ、伊予守頼満(継満の父)は討死。
 2月上社神長官満実、上桑原上の神主宿所に移る。
 3月10日上社神長官満実、高鳥屋城の上小屋に移る。19日下社大祝金刺興春、上社大祝継満に味方し挙兵。高島城(茶臼山城)を占拠。後、一族ら討死し、自らも討ち取られ大熊城に首を晒される。下社炎上。
1484年文明16年12月師継、上社大祝となる。
1486年文明18年諏訪継満、伊那から諏訪に入り、大熊に荒城(新城)を取り立ててこれを占拠。
1497年明応 6年 9月頼員、上社大祝となる。

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