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 諏 訪 関 連 年 表 

1500年明応 9年 2月頼種、上社大祝となる。
1505年永正 2年 9月頼清、上社大祝となる。
1514年永正11年 8月頼凞、上社大祝となる。
1518年永正15年12月下社大祝金刺昌春、諏訪頼満ら上社方に攻められ萩倉の要害(大城)にて自滅する。昌春は武田信虎を頼り甲斐に逃れるも、旧領を復すには及ばず。(下社大祝金刺一族の滅亡。後に下社は大祝家の分流である今井氏(武居祝)などが祭事を司る事になる。)これに呼応するように、自落した大城に向かって18日と21日の深夜に御神渡があり「希不思議之事也」(『当社注進状』)の記録が残る。
1520年永正17年12月頼俊、上社大祝となる。
1521年大永元年11月頼重、上社大祝の位を退くもまた復す。
1528年享禄元年 8月武田信虎、下社大祝金刺昌春を助けて諏訪に攻め上る。諏訪頼満と神戸・堺川にて合戦に及ぶも敗れる。(堺川の戦い)
1529年享禄 2年12月頼寛、上社大祝となる。
1530年享禄 3年12月田辺の高保田から御神渡が始まる。
1531年享禄 4年 4月諏訪頼満、甲斐に攻め入り甲斐塩河で武田信虎を破る。
1535年天文 4年 9月諏訪碧雲斉(頼満)と武田信虎が堺川北岸にて和す。上社神長官守矢氏、上社の御宝鈴(通常、社外に持ち出しは出来ないもの)を打ち鳴らし和睦の誓いを執り行う。
1538年天文 7年 2月頼実、上社大祝となる。
 9月上社神長官守矢頼真と上社禰宜矢島満清、和す。
1539年天文 8年12月諏訪頼満没。孫の頼重、その後を継ぐ。
1540年天文 9年 8月大風雨により上社鉄塔社木破損。
 9月諏訪頼重、佐久・小県を占領。
11月禰々御料人(武田信虎の三女、信玄の妹)が諏訪頼重に嫁す。
12月9日諏訪頼重、甲府に赴く。17日武田信虎、上原城に赴く。
1542年天文11年 3月諏訪頼重、村上義清・小笠原長時・木曽義昌らと共に武田信玄の軍と戦うも大敗。(瀬沢合戦、血河原合戦)
 4月諏訪頼重と禰々御料人の間に寅王(後の千代宮、長笈侍者)が誕生。
 6月24日武田信玄、堺川から挙兵するも諏訪頼重俄かに信じられず準備を対陣の準備を怠る。30日武田信玄、御射山に布陣。
 7月1日諏訪頼重、矢崎原にて対陣。3日武田信玄、高遠頼継・下社方と共に諏訪を攻略。諏訪頼重、上原城を焼き支城である桑原城へ走る。4日桑原城陥落。5日頼重降伏。20日頼重・頼高兄弟、甲府板垣屋敷において自刃。(諏訪家本流滅亡)25日下社武居祝、甲府へ出仕。
 9月高遠頼継、諏訪頼重の遺領(宮川を境とした西側)を領す。後、上原城・上社・下社を占領し諏訪を掌中に治める。武田信玄、寅王を擁し出兵。諏訪の武将が高遠方と武田方に分かれ激戦となる。25日高遠方大敗、武田軍が諏訪を得る。
10月上社神長官守矢頼真、禰宜職を兼ねる。
12月頼忠、上社大祝となる。
1543年天文12年 4月板垣信方、諏訪在城を命じられる。
1544年天文13年 1月禰々御料人、甲府にて没。
 7月板垣信方、諏訪に屋敷を建てる。
12月高遠頼継、上社神長官守矢頼信の邸宅に放火。
1546年天文15年 8月諏訪満隆(諏訪頼重叔父)自害。
11月上社神使千野宗光、三月御左口神付の費用を怠り神罰を受ける。同日、その罪を謝す。
*この年、武田信玄と諏訪頼重の娘(諏訪御料人)との間に勝頼が生まれる。
1548年天文17年 2月上原城代板垣信方、上田原の合戦にて討死。武田軍大敗する。
 4月9日小笠原長時、村上・藤沢・仁科氏らと謀り下社に火をかける。
 6月10日小笠原勢、再び下諏訪に攻め入るも下社方が撃退。小笠原長時負傷。
 7月10日諏訪西方衆(南真志野・小坂・有賀・花岡氏ら)が武田信玄に反旗を翻す。19日諏訪西方衆、大敗し追放される。同日武田信玄、塩尻峠において小笠原長時と合戦に及びこれを破る。小笠原長時、村上義清を後に上杉謙信を頼って落ちる。(塩尻峠の戦い)
 8月上社の宝鈴が盗まれる
1549年天文18年 1月諏訪における政庁が上原城から高島(茶臼山城)城に移る。
1550年天文19年 4月上社の宝鈴が社に還る。
1552年天文21年 1月甲府にて高遠頼継、自害。
10月*この頃、「信玄道」「棒道」が作られる。
1553年天文22年 9月武田信玄と上杉謙信とが戦う。(川中島の合戦が始まる)
12月上社大祝頼忠、『諏訪国一宮諏訪本社上宮御鎮座秘伝記』を著す。
1555年弘治元年 7月川中島大激戦。
11月諏訪御料人没。
1558年永禄元年 9月武田信玄、善光寺如来を甲府に移し、新善光寺を建立。
1561年永禄 4年 9月川中島大激戦。
1565年永禄 8年*この頃、武田信玄が諏訪上下社の祭祝を再興。
1573年天正元年 4月武田信玄、下伊那駒場にて没。
1574年天正 2年 3月諏訪頼忠、徳川家康より諏訪郡を与えられる。
 5月武田勝頼、遠江にて徳川家康と戦う。
*この年、武田勝頼が下社に三十塔を建立。
1575年天正 3年 5月長篠の戦にて武田勝頼、織田・徳川連合軍に敗退。武田信玄直属の老将を数多く失う。
1578年天正 5年 3月頼満(頼水)、上社大祝となる。
1581年天正 9年12月韮崎七里カ岩に新府城が完成する。この築城工事に絡み木曽義昌(武田勝頼の娘婿)は武田勝頼に背き織田信長方につく。
1582年天正10年 2月6日織田信忠、武田攻略の為安土を出る。28日武田勝頼、上原城を引き払い新府城へ赴く。
 3月2日高遠城で激戦。仁科盛信(武田勝頼の弟)、諏訪頼清(諏訪満隣の子)ら壮絶な最期を遂げる。3日織田信忠、上社を焼き高島城(茶臼山城)を攻略。武田勝頼、新府城に火をかけ北条氏を頼って逃れる。11日天目山田野にて武田勝頼自害。14日織田信長、伊那浪合にて武田勝頼の首実検に立ち会う。19日織田信長、神宮寺の法華寺に到着。20日徳川家康諏訪入り。28日織田信忠諏訪入り。29日河尻鎮吉(弓削重蔵)に諏訪を与えられる。(この法華寺において明智光秀が信長の怒りをかったとされる)
 4月織田信長、諏訪を発ち甲府へ向かい富士山の景色を楽しむ。
 6月2日本能寺の変。10日大祝諏訪頼忠、旧領回復の意をもって挙兵。弓削重蔵、高島城から逃れる。
 7月徳川方の酒井忠次・大久保忠世軍が諏訪頼忠に迫り徳川家康につくように要請。諏訪頼忠及び南信州の武将は北条氏に心を寄せ、これを拒む。酒井・大久保両軍が高島城を攻める。
 8月北条氏直、諏訪頼忠に援軍。徳川家康軍と乙事にて対陣する。
10月北条氏直と徳川家康が和睦。諏訪頼忠、徳川家康方につき諏訪を安堵。
1583年天正11年 1月*この頃、徳川方の柴田康忠が高島城に入城。
 3月諏訪頼忠、旧領を安堵。柴田康忠、三河へ戻る。
1584年天正12年 3月諏訪頼水(頼満)、上社大祝となる。(惣領家出身の最後の大祝)
*この年、諏訪頼忠、金子城を築城。本田康重の娘が諏訪頼水に嫁す。
*この年の御柱祭には社殿の復興が間に合わず、神輿のみが祭りに間に合う。
1585年天正13年 3月『諏訪大明神御本地縁起』が成立。
1587年天正15年11月頼広(頼綱)、上社大祝となる。(宮田渡大祝の祖。宮田渡村に居を構えた事からこの名がある。諏方大祝家となり、諏訪家と分かれ明治維新に及ぶ)
1590年天正18年 1月諏訪頼忠・頼水親子、小田原征伐において軍功をあげ徳川家康より義助の刀を賜る。
 7月豊臣秀吉、日根野高吉を二万八千石をもって諏訪郡に封ず。
*この年、諏訪頼忠が武州に移封。
*日根野高吉、茶臼山にあった高島城を壊し現在の地への築城を計画。
1591年天正19年  2月日根野高吉、高島城築城を着工。
1592年文禄元年12月諏訪頼忠、武州奈良梨・羽生・蛭川一万石から上州那波郡惣社へ移封。
1597年慶長 2年 5月上社大祝頼広、神道裁許状を受ける。
1598年慶長 3年高島城が完成する。
1600年慶長 5年 6月高島城主日根野高吉没。嫡子吉明がその後を継ぐ。(翌年下野国壬生へ移封)
 9月関ヶ原の戦いに際し、徳川秀忠軍が下諏訪に宿泊。
1601年慶長 6年10月諏訪頼水に高島を与えられ旧領を復す。一代目藩主となる(譜代大名)。
1606年慶長11年大久保長安、徳川家康に命じられ下社を造営。
1610年慶長15年*この頃上諏訪宿が出来る。
1614年慶長19年10月大坂の陣にあたり、諏訪頼水は甲府の警護にあたる。
1615年慶長20年 5月諏訪忠恒、大坂夏の陣に参戦。
1616年元和 2年 3月徳川幕府の医師である片山与安宗哲、徳川家康の勘気にふれ諏訪にお預けとなる。(この縁によって彼の甥・井出宗順を藩医として迎える事になる)同月、徳川家康が側室茶阿局に「のかぜの笛」を託し後松平忠輝に伝えられる。
1617年元和 3年11月上社拝幣殿造営。
1618年元和 4年 4月お預けとなっていた片山与安宗哲が許され、江戸へ帰る。
11月諏訪忠恒、大坂夏の陣の武功により五千石加増。
*この年、もと加藤清正の家臣である中川宗伴(周防)が、肥後藩内紛の煽りを受け諏訪にお預けとなる。後、江戸詰無用ながらも許され高島藩に仕える。
1620年元和 6年11月頼寛、上社大祝となる。
1623年元和 9年 7月徳川家光、高島城主諏訪頼水に藩領安堵。
1626年寛永 3年 4月松平忠輝(徳川家康6男、母は側室茶阿局)、諏訪にお預けとなる。
1638年寛永15年 4月高遠城主鳥居忠春、御柱祭において神役の騎馬を拒む。上社大祝諏方頼綱、これを幕府に訴え忠春敗訴。
1640年寛永17年諏訪忠恒(忠頼)、二代目藩主となる。
1644年正保元年*正保・慶安年間に氷餅が作られるようになる。
1649年慶安 2年*河合曽良、上諏訪に生まれる。
*この年、日根野高吉50回忌において子・日根野吉明が九州から来訪。
1657年明暦 3年 3月諏訪忠晴、三代目藩主となる。
1665年寛文 5年 2月高島藩における宗門改帳と五人組帳が出来る。
 7月頼隆、上社大祝となる。
1674年延宝 2年12月松平忠輝、母・茶阿局の形見である『阿弥陀三尊来迎図』を貞松院に寄進。
*この年、飢饉。
1679年延宝 7年 6月諏訪上下社の社例記が出来る。
*この年、洪水が相次ぐ。
1683年天和 3年 7月お預けとなっていた松平忠輝没。貞松院に葬られる。
*この年、藩主諏訪忠晴、勅使一条院門の御馳走役を受け、吉良上野介に賄賂を送る。
*この年より小和田村(旧高島村)の役目として御神渡が記録され、現在に至る(八剣神社御神渡帳)。
1685年貞享 2年貝原益軒が諏訪を通る。
1689年元禄 2年 3月河合曽良、師・松尾芭蕉と共に奥の細道の旅に出る。
1695年元禄 8年 3月諏訪忠虎、四代目藩主となる。
1697年元禄10年 3月頼超、上社大祝となる。
1703年元禄16年 2月吉良義周(吉良上野介の外孫で養嗣子)、赤穂浪士の討ち入りに際しその働きを咎められ領地を召し上げられ諏訪にお預けとなる。
1706年宝永 3年 1月お預けとなっていた吉良義周没。
 2月吉良義周の検死。後、金三両にて法華寺に葬られる。
1715年正徳 5年 6月頼央、上社大祝となる。
1725年享保10年 7月諏訪大地震。高島城大破。
1731年享保16年 8月諏訪忠林、五代目藩主となる。(分家諏訪頼篤次男。諏訪忠虎の娘七子を正室とした)
1732年享保17年享保の大飢饉。
1736年元文元年 9月頼紀、上社大祝となる。
1740年元文 5年 9月青木昆陽、幕命により古文書採取の為に諏訪を訪れる。(寛保2年も)
1757年宝暦 7年諏訪湖における鵜飼を廃絶する。
1762年宝暦12年旗本野沢半平(清儀)、乱心の廉により諏訪にお預けとなる。
1763年宝暦13年 8月諏訪忠厚、六代目藩主となる。
11月頼隈、上社大祝となる。
1766年明和 3年 1月大坂竹本座にて『本朝二十四孝』が初演。
1768年明和 5年天竜道人が諏訪に現れる。
1771年明和 8年12月家老千野(三之丸)兵庫(貞亮)、罪ありとして失脚。諏訪(二之丸)大助(頼保)、150石加増。(明和の一件)
1779年安永 3年 3月家老千野兵庫、諏訪を発ち江戸の藩主諏訪忠厚に諏訪大助の不正を訴える。
 6月諏訪大助、お叱りを受け失脚。千野氏が政務を執る。(安永の一件)
1780年安永 9年 6月諏訪大助、家老職を取り上げられ閉居を言い渡される。
同年、伊藤長左衛門が下社春宮拝幣殿を造営。(大隈流)
1781年天明元年 1月諏訪大助らによる藩主諏訪忠厚の長子・軍次郎(後の忠粛。母は側室おとめの方)や忠厚正室阿倍氏への謀略を訴える為に、家老千野兵庫が江戸へ上るも諏訪大助一党の計略により会えず帰郷。
 4月家老千野兵庫、江戸への多人数出府を咎められ隠居。家督は源太(貞慎)が継ぐ。諏訪図書(頼英)・諏訪大助親子、江戸に召し出される。
 5月家老千野兵庫、職を取り上げられ隠居。諏訪大助、蟄居を許され再勤。
 6月頼本、上社大祝となる。
 8月千野兵庫、謹慎のところ船で湖上に出、諏訪を発ち江戸へ向かい藩主諏訪忠厚の妹婿・松平乗寛の上屋敷へ駆け込む。
 9月二之丸一件につき御家中・御奉公人が総登城する。
10月千野兵庫、忠節が認められ再勤を許され家老職に復す。諏訪図書ら入牢し、諏訪大助ら取り締まりを仰せ付けられる。
12月藩主諏訪忠厚、二之丸一件の責任をとって隠居。諏訪忠粛、七代目藩主となる。
1782年天明 2年*この年、藩主諏訪忠粛の初めてのお国入りに家老千野兵庫が先駆けをつとめる。
*天明の大飢饉
(天明2年〜天明7年)
1783年天明 3年 7月二之丸騒動の処分が下る。諏訪大助切腹、諏訪図書永牢、首謀者4人は討首となり他数十人が断罪される。二之丸諏訪家の菩提寺である頼岳寺では埋葬を固辞し、大助らは地蔵寺に葬られた。(二之丸諏訪家老家の断絶。千野家は三之丸千野家の他にお櫓脇千野家を興し、両千野家が家老職を勤める事となる)
1787年天明 7年11月頼啓、上社大祝となる。
1799年寛政11年11月家老千野左近、職を取り上げられ永牢となる。(千野左近一件)
1816年文化13年11月諏訪忠粛、隠居。諏訪忠恕、八代目藩主となる。
1820年文政 3年 8月十返舎一九、諏訪を通る。
1821年文政 4年 7月小林一茶、御射山祭を見る。
1826年文政 9年 9月頼寿、上社大祝となる。
1829年文政12年 7月上社大祝邸焼失。後、再建。
1833年天保 4年天保の大飢饉(天保4年〜天保10年)
1834年天保 5年 2月「諏方」は以後「諏訪」と記述する事を命じられるも、上社大祝家のみは「諏方すわ」が許される。
1835年天保 6年千野貞篤、生まれる。(高島藩最後の家老)
*この頃、立川四郎富昌により上社拝幣殿及び下社秋宮神楽殿が造営。
1837年天保 8年天保の飢饉。
1840年天保 7年 5月諏訪忠恕、隠居。諏訪忠誠、九代目藩主となる。(母は松平定信の娘で定信もその将来を嘱望していた)
1841年天保12年10月頼武(霞朝)、上社大祝となる。(上社大祝としては最後の職位)
1842年天保13年御側用人水野美濃守忠篤、罪ありとして諏訪にお預けとなる。翌年病死。
1844年天文15年 5月江戸城本丸炎上。
11月高島藩、1500両を献金。
1848年嘉永元年藩主諏訪忠誠、寺社奉行となる。
1850年嘉永 3年 5月お預けのまま没した水野忠篤、許され江戸小川町浄泉院に改葬。
1853年嘉永 6年11月黒船来航につき勅使を諏訪神社に遣わす。
12月黒船来航につき、世上鎮静の為に上下社にて勅使祈祷。道路・境内の手入れあり。
1854年嘉永 7年11月大地震。
1855年安政 2年10月江戸大地震。
1859年安政 6年 5月上社大祝霞朝、京都二条家より「栗の木」宗匠の免許を得る。
1860年万延 6年藩主諏訪忠誠、若年寄となる。
1861年文久元年11月和宮親子内親王、御降嫁により中山道を江戸に向かう途中和田宿・下諏訪宿にて泊まる。
1862年文久 2年 8月悪病が蔓延し、神長官・権祝は悪疫退散の大蟇目の祈祷をする。
1864年元治元年 6月藩主諏訪忠誠、老中格となる。
 7月藩主諏訪忠誠、老中加判之列を仰せつかる。
10月藩主諏訪忠誠、侍従に叙せられ、また外国御用を仰せつかる。
11月水戸浪士武田耕雲斎らの軍(天狗党)が和田峠に至り、高島藩・松本藩がこれを迎えうち大激戦となる。高島藩の総大将は家老千野孫九郎、軍師は塩原彦七。高島方は三輪左兵衛ら7名が討たれ、松本藩は4名、浪士方は14〜15人が討死。(和田嶺合戦、砥沢口合戦、樋橋戦争)
1865年慶応元年 4月藩主諏訪忠誠、老中職を退く。
*同年、上社大祝霞朝没。
1866年慶応2年将軍徳川家茂の逝去(7月)によりこの年の御柱祭の日程が日延べとなり、10月下旬に山出し、11月下旬に里曳きを行う。高遠藩、御騎馬行列の参加を取り止める。
1867年慶応 3年10月*この月の初めに木曽に、中旬に伊那・諏訪に天から札が降る。
1868年慶応 4年 2月6日公卿高松実村の軍(贋勅使高松殿)が甲府城を乗っ取る為に上諏訪を通る。7日相良総三隊(赤報隊、魁隊)が諏訪に入る。11日高松殿、甲府に着く。16日贋勅使という事が露見し高松殿武装解除。実村、京都へ帰る。27日相良総三ら樋橋村に立ち退く。
 3月1日岩倉具定軍が下諏訪に入る。相良総三ら捕縛される。板垣退助、下諏訪にて食事をとり、土佐の隊を連れて上諏訪に宿泊。3日相良総三ら8名、取り調べもないまま友之町「はりつけ田」にて首を斬られ晒される。他の同志ら処断される。岩倉軍、和田峠を越える。高島藩、東山道総督に属し甲州路官軍の嚮導として小一隊を出し板垣退助らと甲州道を行く。6日勝沼の柏尾村にて近藤勇の兵と戦ってこれを破り、14日に内藤新宿に着く。23日帰郷。
 4月高島藩、東山道総督の命により越後口に出兵。
 5月諏訪忠礼、十代目藩主となる。(分家埴原の出。諏訪忠誠の娘直子を正室とした。諏訪高島藩最後の藩主)
 6月諏訪上下社の神宮寺、堂塔破却。(〜12月終了)
10月明治天皇、江戸城を東京城と改称。
12月一条美子、明治天皇の皇后となる。
1869年明治 2年 3月明治天皇、京都御所を発ち東京城へ入城。
 5月版籍奉還。藩主諏訪忠礼、高島藩知事となる。
 9月和田合戦の水戸浪士の為の塚が築かれる。
1870年明治 3年 8月落合直亮ら、相良総三らの墓をつくりたいと願い出て許される。(現在の魁塚、相楽塚)
*この年、高島城の払い下げが始まる。
1871年明治 4年 4月九代目藩主諏訪忠誠、東京に移住。
 5月諏訪上下社、一社として国幣中社となる。
 7月廃藩置県。高島藩知事諏訪忠礼、高島県知事となる。高島城は高島県庁舎となる。
11月高島県が廃され筑摩県と合併。
*この年、神官社家の世襲制度が廃される。諏訪では大祝制度が廃止となる。
1872年明治 5年 2月山県狂介(有朋)、高島城を受け取りに来訪し封をする。高島城は東京鎮台第二分営武庫となる。
 3月筑摩県の役人が高島城に関するものを受け取る。
 5月筑摩県から高島城破却が命じられ、入札が始まる。
1873年明治 6年*この年より高島城の破却が始まる。
1874年明治 7年 2月高島城の石垣が破却の対象から外される。
諏訪忠誠、芝東照宮祀官となる。
1875年明治 8年 1月原村発足。
*この年、高島城の天守閣が取り壊される。
1876年明治 9年 5月高島城本丸跡地が高島公園として解放される。
 8月筑摩県が廃され、長野県となる。
1878年明治11年10月東京にて諏訪忠礼没。
1884年明治17年 8月諏訪忠誠、子爵となる。
1891年明治24年 2月諏訪忠誠、諏訪神社宮司となる(〜1893年12月)
1893年明治26年 6月下諏訪町発足。
1896年明治29年 4月諏訪上下社、官幣中社となる。
1898年明治31年 2月諏訪忠誠、没。
1899年明治32年長野県師範学校教諭の浅井洌(作詞)と依田弁之助(作曲)による「信濃国」が出来る。
1900年明治33年長野県師範学校教諭の北村季晴、「信濃国」に新たに曲をつけ、運動会にて発表。
1902年明治35年上社御柱祭の山出しにおいて上社担当地区で乱闘。死傷者が出る。
1905年明治36年11月鉄道院中央本線富士見駅の延長として茅野〜上諏訪〜下諏訪〜岡谷駅開業。
1916年大正 5年12月諏訪上下社、官幣大社となる。
1936年昭和11年 4月岡谷市発足。
1938年昭和13年 4月上社御柱祭の川越しにて死傷者が出る。
1941年昭和16年 8月諏訪市発足。
1944年昭和19年 4月下社御柱祭にて下諏訪町町長高木氏が陣頭指揮中、殉職。
1948年昭和23年諏訪上下社、諏訪大社と改称。
1955年昭和30年 4月富士見町発足。
1958年昭和33年 8月茅野市発足。
1968年昭和43年 5月県歌「信濃国」制定。
1970年昭和45年 5月高島城の天守閣・城門・東櫓が復興される。これを記念し毎年5月に高島城祭が開催される。
1984年昭和59年 7月松平忠輝の300回忌において菩提寺の貞松院にて徳川宗家第18代徳川恒孝氏より赦免が赦される。
1987年昭和62年10月貞松院の法要において松平忠輝の仏前に赦免の旨が奉告される。徳川家、伊達家、諏訪家、当時の家臣の子孫などが参列。
1988年昭和63年 1月大河ドラマ「武田信玄」放映。
1998年平成10年 1月長野県中部・南部で大雪。
 2月長野オリンピック開催。開会式で御柱が建てられる(のち、下諏訪駅前に建立)
1999年平成11年 7月放火により法華寺の本堂などが焼失。
2007年平成19年 1月大河ドラマ「風林火山」放映。
2016年平成28年 1月大河ドラマ「真田丸」放映。

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