このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
諏 訪 関 連 年 表
1500年 | 明応 9年 | 2月 | 頼種、上社大祝となる。 |
1505年 | 永正 2年 | 9月 | 頼清、上社大祝となる。 |
1514年 | 永正11年 | 8月 | 頼凞、上社大祝となる。 |
1518年 | 永正15年 | 12月 | 下社大祝金刺昌春、諏訪頼満ら上社方に攻められ萩倉の要害(大城)にて自滅する。昌春は武田信虎を頼り甲斐に逃れるも、旧領を復すには及ばず。(下社大祝金刺一族の滅亡。後に下社は大祝家の分流である今井氏(武居祝)などが祭事を司る事になる。)これに呼応するように、自落した大城に向かって18日と21日の深夜に御神渡があり「希不思議之事也」(『当社注進状』)の記録が残る。 |
1520年 | 永正17年 | 12月 | 頼俊、上社大祝となる。 |
1521年 | 大永元年 | 11月 | 頼重、上社大祝の位を退くもまた復す。 |
1528年 | 享禄元年 | 8月 | 武田信虎、下社大祝金刺昌春を助けて諏訪に攻め上る。諏訪頼満と神戸・堺川にて合戦に及ぶも敗れる。(堺川の戦い) |
1529年 | 享禄 2年 | 12月 | 頼寛、上社大祝となる。 |
1530年 | 享禄 3年 | 12月 | 田辺の高保田から御神渡が始まる。 |
1531年 | 享禄 4年 | 4月 | 諏訪頼満、甲斐に攻め入り甲斐塩河で武田信虎を破る。 |
1535年 | 天文 4年 | 9月 | 諏訪碧雲斉(頼満)と武田信虎が堺川北岸にて和す。上社神長官守矢氏、上社の御宝鈴(通常、社外に持ち出しは出来ないもの)を打ち鳴らし和睦の誓いを執り行う。 |
1538年 | 天文 7年 | 2月 | 頼実、上社大祝となる。 |
9月 | 上社神長官守矢頼真と上社禰宜矢島満清、和す。 | ||
1539年 | 天文 8年 | 12月 | 諏訪頼満没。孫の頼重、その後を継ぐ。 |
1540年 | 天文 9年 | 8月 | 大風雨により上社鉄塔社木破損。 |
9月 | 諏訪頼重、佐久・小県を占領。 | ||
11月 | 禰々御料人(武田信虎の三女、信玄の妹)が諏訪頼重に嫁す。 | ||
12月 | 9日諏訪頼重、甲府に赴く。17日武田信虎、上原城に赴く。 | ||
1542年 | 天文11年 | 3月 | 諏訪頼重、村上義清・小笠原長時・木曽義昌らと共に武田信玄の軍と戦うも大敗。(瀬沢合戦、血河原合戦) |
4月 | 諏訪頼重と禰々御料人の間に寅王(後の千代宮、長笈侍者)が誕生。 | ||
6月 | 24日武田信玄、堺川から挙兵するも諏訪頼重俄かに信じられず準備を対陣の準備を怠る。30日武田信玄、御射山に布陣。 | ||
7月 | 1日諏訪頼重、矢崎原にて対陣。3日武田信玄、高遠頼継・下社方と共に諏訪を攻略。諏訪頼重、上原城を焼き支城である桑原城へ走る。4日桑原城陥落。5日頼重降伏。20日頼重・頼高兄弟、甲府板垣屋敷において自刃。(諏訪家本流滅亡)25日下社武居祝、甲府へ出仕。 | ||
9月 | 高遠頼継、諏訪頼重の遺領(宮川を境とした西側)を領す。後、上原城・上社・下社を占領し諏訪を掌中に治める。武田信玄、寅王を擁し出兵。諏訪の武将が高遠方と武田方に分かれ激戦となる。25日高遠方大敗、武田軍が諏訪を得る。 | ||
10月 | 上社神長官守矢頼真、禰宜職を兼ねる。 | ||
12月 | 頼忠、上社大祝となる。 | ||
1543年 | 天文12年 | 4月 | 板垣信方、諏訪在城を命じられる。 |
1544年 | 天文13年 | 1月 | 禰々御料人、甲府にて没。 |
7月 | 板垣信方、諏訪に屋敷を建てる。 | ||
12月 | 高遠頼継、上社神長官守矢頼信の邸宅に放火。 | ||
1546年 | 天文15年 | 8月 | 諏訪満隆(諏訪頼重叔父)自害。 |
11月 | 上社神使千野宗光、三月御左口神付の費用を怠り神罰を受ける。同日、その罪を謝す。 | ||
*この年、武田信玄と諏訪頼重の娘(諏訪御料人)との間に勝頼が生まれる。 | |||
1548年 | 天文17年 | 2月 | 上原城代板垣信方、上田原の合戦にて討死。武田軍大敗する。 |
4月 | 9日小笠原長時、村上・藤沢・仁科氏らと謀り下社に火をかける。 | ||
6月 | 10日小笠原勢、再び下諏訪に攻め入るも下社方が撃退。小笠原長時負傷。 | ||
7月 | 10日諏訪西方衆(南真志野・小坂・有賀・花岡氏ら)が武田信玄に反旗を翻す。19日諏訪西方衆、大敗し追放される。同日武田信玄、塩尻峠において小笠原長時と合戦に及びこれを破る。小笠原長時、村上義清を後に上杉謙信を頼って落ちる。(塩尻峠の戦い) | ||
8月 | 上社の宝鈴が盗まれる | ||
1549年 | 天文18年 | 1月 | 諏訪における政庁が上原城から高島(茶臼山城)城に移る。 |
1550年 | 天文19年 | 4月 | 上社の宝鈴が社に還る。 |
1552年 | 天文21年 | 1月 | 甲府にて高遠頼継、自害。 |
10月 | *この頃、「信玄道」「棒道」が作られる。 | ||
1553年 | 天文22年 | 9月 | 武田信玄と上杉謙信とが戦う。(川中島の合戦が始まる) |
12月 | 上社大祝頼忠、『諏訪国一宮諏訪本社上宮御鎮座秘伝記』を著す。 | ||
1555年 | 弘治元年 | 7月 | 川中島大激戦。 |
11月 | 諏訪御料人没。 | ||
1558年 | 永禄元年 | 9月 | 武田信玄、善光寺如来を甲府に移し、新善光寺を建立。 |
1561年 | 永禄 4年 | 9月 | 川中島大激戦。 |
1565年 | 永禄 8年 | *この頃、武田信玄が諏訪上下社の祭祝を再興。 | |
1573年 | 天正元年 | 4月 | 武田信玄、下伊那駒場にて没。 |
1574年 | 天正 2年 | 3月 | 諏訪頼忠、徳川家康より諏訪郡を与えられる。 |
5月 | 武田勝頼、遠江にて徳川家康と戦う。 | ||
*この年、武田勝頼が下社に三十塔を建立。 | |||
1575年 | 天正 3年 | 5月 | 長篠の戦にて武田勝頼、織田・徳川連合軍に敗退。武田信玄直属の老将を数多く失う。 |
1578年 | 天正 5年 | 3月 | 頼満(頼水)、上社大祝となる。 |
1581年 | 天正 9年 | 12月 | 韮崎七里カ岩に新府城が完成する。この築城工事に絡み木曽義昌(武田勝頼の娘婿)は武田勝頼に背き織田信長方につく。 |
1582年 | 天正10年 | 2月 | 6日織田信忠、武田攻略の為安土を出る。28日武田勝頼、上原城を引き払い新府城へ赴く。 |
3月 | 2日高遠城で激戦。仁科盛信(武田勝頼の弟)、諏訪頼清(諏訪満隣の子)ら壮絶な最期を遂げる。3日織田信忠、上社を焼き高島城(茶臼山城)を攻略。武田勝頼、新府城に火をかけ北条氏を頼って逃れる。11日天目山田野にて武田勝頼自害。14日織田信長、伊那浪合にて武田勝頼の首実検に立ち会う。19日織田信長、神宮寺の法華寺に到着。20日徳川家康諏訪入り。28日織田信忠諏訪入り。29日河尻鎮吉(弓削重蔵)に諏訪を与えられる。(この法華寺において明智光秀が信長の怒りをかったとされる) | ||
4月 | 織田信長、諏訪を発ち甲府へ向かい富士山の景色を楽しむ。 | ||
6月 | 2日本能寺の変。10日大祝諏訪頼忠、旧領回復の意をもって挙兵。弓削重蔵、高島城から逃れる。 | ||
7月 | 徳川方の酒井忠次・大久保忠世軍が諏訪頼忠に迫り徳川家康につくように要請。諏訪頼忠及び南信州の武将は北条氏に心を寄せ、これを拒む。酒井・大久保両軍が高島城を攻める。 | ||
8月 | 北条氏直、諏訪頼忠に援軍。徳川家康軍と乙事にて対陣する。 | ||
10月 | 北条氏直と徳川家康が和睦。諏訪頼忠、徳川家康方につき諏訪を安堵。 | ||
1583年 | 天正11年 | 1月 | *この頃、徳川方の柴田康忠が高島城に入城。 |
3月 | 諏訪頼忠、旧領を安堵。柴田康忠、三河へ戻る。 | ||
1584年 | 天正12年 | 3月 | 諏訪頼水(頼満)、上社大祝となる。(惣領家出身の最後の大祝) |
*この年、諏訪頼忠、金子城を築城。本田康重の娘が諏訪頼水に嫁す。 *この年の御柱祭には社殿の復興が間に合わず、神輿のみが祭りに間に合う。 | |||
1585年 | 天正13年 | 3月 | 『諏訪大明神御本地縁起』が成立。 |
1587年 | 天正15年 | 11月 | 頼広(頼綱)、上社大祝となる。(宮田渡大祝の祖。宮田渡村に居を構えた事からこの名がある。諏方大祝家となり、諏訪家と分かれ明治維新に及ぶ) |
1590年 | 天正18年 | 1月 | 諏訪頼忠・頼水親子、小田原征伐において軍功をあげ徳川家康より義助の刀を賜る。 |
7月 | 豊臣秀吉、日根野高吉を二万八千石をもって諏訪郡に封ず。 | ||
*この年、諏訪頼忠が武州に移封。 *日根野高吉、茶臼山にあった高島城を壊し現在の地への築城を計画。 | |||
1591年 | 天正19年 | 2月 | 日根野高吉、高島城築城を着工。 |
1592年 | 文禄元年 | 12月 | 諏訪頼忠、武州奈良梨・羽生・蛭川一万石から上州那波郡惣社へ移封。 |
1597年 | 慶長 2年 | 5月 | 上社大祝頼広、神道裁許状を受ける。 |
1598年 | 慶長 3年 | 高島城が完成する。 | |
1600年 | 慶長 5年 | 6月 | 高島城主日根野高吉没。嫡子吉明がその後を継ぐ。(翌年下野国壬生へ移封) |
9月 | 関ヶ原の戦いに際し、徳川秀忠軍が下諏訪に宿泊。 | ||
1601年 | 慶長 6年 | 10月 | 諏訪頼水に高島を与えられ旧領を復す。一代目藩主となる(譜代大名)。 |
1606年 | 慶長11年 | 大久保長安、徳川家康に命じられ下社を造営。 | |
1610年 | 慶長15年 | *この頃上諏訪宿が出来る。 | |
1614年 | 慶長19年 | 10月 | 大坂の陣にあたり、諏訪頼水は甲府の警護にあたる。 |
1615年 | 慶長20年 | 5月 | 諏訪忠恒、大坂夏の陣に参戦。 |
1616年 | 元和 2年 | 3月 | 徳川幕府の医師である片山与安宗哲、徳川家康の勘気にふれ諏訪にお預けとなる。(この縁によって彼の甥・井出宗順を藩医として迎える事になる)同月、徳川家康が側室茶阿局に「のかぜの笛」を託し後松平忠輝に伝えられる。 |
1617年 | 元和 3年 | 11月 | 上社拝幣殿造営。 |
1618年 | 元和 4年 | 4月 | お預けとなっていた片山与安宗哲が許され、江戸へ帰る。 |
11月 | 諏訪忠恒、大坂夏の陣の武功により五千石加増。 | ||
*この年、もと加藤清正の家臣である中川宗伴(周防)が、肥後藩内紛の煽りを受け諏訪にお預けとなる。後、江戸詰無用ながらも許され高島藩に仕える。 | |||
1620年 | 元和 6年 | 11月 | 頼寛、上社大祝となる。 |
1623年 | 元和 9年 | 7月 | 徳川家光、高島城主諏訪頼水に藩領安堵。 |
1626年 | 寛永 3年 | 4月 | 松平忠輝(徳川家康6男、母は側室茶阿局)、諏訪にお預けとなる。 |
1638年 | 寛永15年 | 4月 | 高遠城主鳥居忠春、御柱祭において神役の騎馬を拒む。上社大祝諏方頼綱、これを幕府に訴え忠春敗訴。 |
1640年 | 寛永17年 | 諏訪忠恒(忠頼)、二代目藩主となる。 | |
1644年 | 正保元年 | *正保・慶安年間に氷餅が作られるようになる。 | |
1649年 | 慶安 2年 | *河合曽良、上諏訪に生まれる。 *この年、日根野高吉50回忌において子・日根野吉明が九州から来訪。 | |
1657年 | 明暦 3年 | 3月 | 諏訪忠晴、三代目藩主となる。 |
1665年 | 寛文 5年 | 2月 | 高島藩における宗門改帳と五人組帳が出来る。 |
7月 | 頼隆、上社大祝となる。 | ||
1674年 | 延宝 2年 | 12月 | 松平忠輝、母・茶阿局の形見である『阿弥陀三尊来迎図』を貞松院に寄進。 |
*この年、飢饉。 | |||
1679年 | 延宝 7年 | 6月 | 諏訪上下社の社例記が出来る。 |
*この年、洪水が相次ぐ。 | |||
1683年 | 天和 3年 | 7月 | お預けとなっていた松平忠輝没。貞松院に葬られる。 |
*この年、藩主諏訪忠晴、勅使一条院門の御馳走役を受け、吉良上野介に賄賂を送る。 *この年より小和田村(旧高島村)の役目として御神渡が記録され、現在に至る(八剣神社御神渡帳)。 | |||
1685年 | 貞享 2年 | 貝原益軒が諏訪を通る。 | |
1689年 | 元禄 2年 | 3月 | 河合曽良、師・松尾芭蕉と共に奥の細道の旅に出る。 |
1695年 | 元禄 8年 | 3月 | 諏訪忠虎、四代目藩主となる。 |
1697年 | 元禄10年 | 3月 | 頼超、上社大祝となる。 |
1703年 | 元禄16年 | 2月 | 吉良義周(吉良上野介の外孫で養嗣子)、赤穂浪士の討ち入りに際しその働きを咎められ領地を召し上げられ諏訪にお預けとなる。 |
1706年 | 宝永 3年 | 1月 | お預けとなっていた吉良義周没。 |
2月 | 吉良義周の検死。後、金三両にて法華寺に葬られる。 | ||
1715年 | 正徳 5年 | 6月 | 頼央、上社大祝となる。 |
1725年 | 享保10年 | 7月 | 諏訪大地震。高島城大破。 |
1731年 | 享保16年 | 8月 | 諏訪忠林、五代目藩主となる。(分家諏訪頼篤次男。諏訪忠虎の娘七子を正室とした) |
1732年 | 享保17年 | 享保の大飢饉。 | |
1736年 | 元文元年 | 9月 | 頼紀、上社大祝となる。 |
1740年 | 元文 5年 | 9月 | 青木昆陽、幕命により古文書採取の為に諏訪を訪れる。(寛保2年も) |
1757年 | 宝暦 7年 | 諏訪湖における鵜飼を廃絶する。 | |
1762年 | 宝暦12年 | 旗本野沢半平(清儀)、乱心の廉により諏訪にお預けとなる。 | |
1763年 | 宝暦13年 | 8月 | 諏訪忠厚、六代目藩主となる。 |
11月 | 頼隈、上社大祝となる。 | ||
1766年 | 明和 3年 | 1月 | 大坂竹本座にて『本朝二十四孝』が初演。 |
1768年 | 明和 5年 | 天竜道人が諏訪に現れる。 | |
1771年 | 明和 8年 | 12月 | 家老千野(三之丸)兵庫(貞亮)、罪ありとして失脚。諏訪(二之丸)大助(頼保)、150石加増。(明和の一件) |
1779年 | 安永 3年 | 3月 | 家老千野兵庫、諏訪を発ち江戸の藩主諏訪忠厚に諏訪大助の不正を訴える。 |
6月 | 諏訪大助、お叱りを受け失脚。千野氏が政務を執る。(安永の一件) | ||
1780年 | 安永 9年 | 6月 | 諏訪大助、家老職を取り上げられ閉居を言い渡される。 |
同年、伊藤長左衛門が下社春宮拝幣殿を造営。(大隈流) | |||
1781年 | 天明元年 | 1月 | 諏訪大助らによる藩主諏訪忠厚の長子・軍次郎(後の忠粛。母は側室おとめの方)や忠厚正室阿倍氏への謀略を訴える為に、家老千野兵庫が江戸へ上るも諏訪大助一党の計略により会えず帰郷。 |
4月 | 家老千野兵庫、江戸への多人数出府を咎められ隠居。家督は源太(貞慎)が継ぐ。諏訪図書(頼英)・諏訪大助親子、江戸に召し出される。 | ||
5月 | 家老千野兵庫、職を取り上げられ隠居。諏訪大助、蟄居を許され再勤。 | ||
6月 | 頼本、上社大祝となる。 | ||
8月 | 千野兵庫、謹慎のところ船で湖上に出、諏訪を発ち江戸へ向かい藩主諏訪忠厚の妹婿・松平乗寛の上屋敷へ駆け込む。 | ||
9月 | 二之丸一件につき御家中・御奉公人が総登城する。 | ||
10月 | 千野兵庫、忠節が認められ再勤を許され家老職に復す。諏訪図書ら入牢し、諏訪大助ら取り締まりを仰せ付けられる。 | ||
12月 | 藩主諏訪忠厚、二之丸一件の責任をとって隠居。諏訪忠粛、七代目藩主となる。 | ||
1782年 | 天明 2年 | *この年、藩主諏訪忠粛の初めてのお国入りに家老千野兵庫が先駆けをつとめる。 *天明の大飢饉(天明2年〜天明7年) | |
1783年 | 天明 3年 | 7月 | 二之丸騒動の処分が下る。諏訪大助切腹、諏訪図書永牢、首謀者4人は討首となり他数十人が断罪される。二之丸諏訪家の菩提寺である頼岳寺では埋葬を固辞し、大助らは地蔵寺に葬られた。(二之丸諏訪家老家の断絶。千野家は三之丸千野家の他にお櫓脇千野家を興し、両千野家が家老職を勤める事となる) |
1787年 | 天明 7年 | 11月 | 頼啓、上社大祝となる。 |
1799年 | 寛政11年 | 11月 | 家老千野左近、職を取り上げられ永牢となる。(千野左近一件) |
1816年 | 文化13年 | 11月 | 諏訪忠粛、隠居。諏訪忠恕、八代目藩主となる。 |
1820年 | 文政 3年 | 8月 | 十返舎一九、諏訪を通る。 |
1821年 | 文政 4年 | 7月 | 小林一茶、御射山祭を見る。 |
1826年 | 文政 9年 | 9月 | 頼寿、上社大祝となる。 |
1829年 | 文政12年 | 7月 | 上社大祝邸焼失。後、再建。 |
1833年 | 天保 4年 | 天保の大飢饉(天保4年〜天保10年) | |
1834年 | 天保 5年 | 2月 | 「諏方」は以後「諏訪」と記述する事を命じられるも、上社大祝家のみは「諏方すわ」が許される。 |
1835年 | 天保 6年 | 千野貞篤、生まれる。(高島藩最後の家老) *この頃、立川四郎富昌により上社拝幣殿及び下社秋宮神楽殿が造営。 | |
1837年 | 天保 8年 | 天保の飢饉。 | |
1840年 | 天保 7年 | 5月 | 諏訪忠恕、隠居。諏訪忠誠、九代目藩主となる。(母は松平定信の娘で定信もその将来を嘱望していた) |
1841年 | 天保12年 | 10月 | 頼武(霞朝)、上社大祝となる。(上社大祝としては最後の職位) |
1842年 | 天保13年 | 御側用人水野美濃守忠篤、罪ありとして諏訪にお預けとなる。翌年病死。 | |
1844年 | 天文15年 | 5月 | 江戸城本丸炎上。 |
11月 | 高島藩、1500両を献金。 | ||
1848年 | 嘉永元年 | 藩主諏訪忠誠、寺社奉行となる。 | |
1850年 | 嘉永 3年 | 5月 | お預けのまま没した水野忠篤、許され江戸小川町浄泉院に改葬。 |
1853年 | 嘉永 6年 | 11月 | 黒船来航につき勅使を諏訪神社に遣わす。 |
12月 | 黒船来航につき、世上鎮静の為に上下社にて勅使祈祷。道路・境内の手入れあり。 | ||
1854年 | 嘉永 7年 | 11月 | 大地震。 |
1855年 | 安政 2年 | 10月 | 江戸大地震。 |
1859年 | 安政 6年 | 5月 | 上社大祝霞朝、京都二条家より「栗の木」宗匠の免許を得る。 |
1860年 | 万延 6年 | 藩主諏訪忠誠、若年寄となる。 | |
1861年 | 文久元年 | 11月 | 和宮親子内親王、御降嫁により中山道を江戸に向かう途中和田宿・下諏訪宿にて泊まる。 |
1862年 | 文久 2年 | 8月 | 悪病が蔓延し、神長官・権祝は悪疫退散の大蟇目の祈祷をする。 |
1864年 | 元治元年 | 6月 | 藩主諏訪忠誠、老中格となる。 |
7月 | 藩主諏訪忠誠、老中加判之列を仰せつかる。 | ||
10月 | 藩主諏訪忠誠、侍従に叙せられ、また外国御用を仰せつかる。 | ||
11月 | 水戸浪士武田耕雲斎らの軍(天狗党)が和田峠に至り、高島藩・松本藩がこれを迎えうち大激戦となる。高島藩の総大将は家老千野孫九郎、軍師は塩原彦七。高島方は三輪左兵衛ら7名が討たれ、松本藩は4名、浪士方は14〜15人が討死。(和田嶺合戦、砥沢口合戦、樋橋戦争) | ||
1865年 | 慶応元年 | 4月 | 藩主諏訪忠誠、老中職を退く。 *同年、上社大祝霞朝没。 |
1866年 | 慶応2年 | 将軍徳川家茂の逝去(7月)によりこの年の御柱祭の日程が日延べとなり、10月下旬に山出し、11月下旬に里曳きを行う。高遠藩、御騎馬行列の参加を取り止める。 | |
1867年 | 慶応 3年 | 10月 | *この月の初めに木曽に、中旬に伊那・諏訪に天から札が降る。 |
1868年 | 慶応 4年 | 2月 | 6日公卿高松実村の軍(贋勅使高松殿)が甲府城を乗っ取る為に上諏訪を通る。7日相良総三隊(赤報隊、魁隊)が諏訪に入る。11日高松殿、甲府に着く。16日贋勅使という事が露見し高松殿武装解除。実村、京都へ帰る。27日相良総三ら樋橋村に立ち退く。 |
3月 | 1日岩倉具定軍が下諏訪に入る。相良総三ら捕縛される。板垣退助、下諏訪にて食事をとり、土佐の隊を連れて上諏訪に宿泊。3日相良総三ら8名、取り調べもないまま友之町「はりつけ田」にて首を斬られ晒される。他の同志ら処断される。岩倉軍、和田峠を越える。高島藩、東山道総督に属し甲州路官軍の嚮導として小一隊を出し板垣退助らと甲州道を行く。6日勝沼の柏尾村にて近藤勇の兵と戦ってこれを破り、14日に内藤新宿に着く。23日帰郷。 | ||
4月 | 高島藩、東山道総督の命により越後口に出兵。 | ||
5月 | 諏訪忠礼、十代目藩主となる。(分家埴原の出。諏訪忠誠の娘直子を正室とした。諏訪高島藩最後の藩主) | ||
6月 | 諏訪上下社の神宮寺、堂塔破却。(〜12月終了) | ||
10月 | 明治天皇、江戸城を東京城と改称。 | ||
12月 | 一条美子、明治天皇の皇后となる。 | ||
1869年 | 明治 2年 | 3月 | 明治天皇、京都御所を発ち東京城へ入城。 |
5月 | 版籍奉還。藩主諏訪忠礼、高島藩知事となる。 | ||
9月 | 和田合戦の水戸浪士の為の塚が築かれる。 | ||
1870年 | 明治 3年 | 8月 | 落合直亮ら、相良総三らの墓をつくりたいと願い出て許される。(現在の魁塚、相楽塚) |
*この年、高島城の払い下げが始まる。 | |||
1871年 | 明治 4年 | 4月 | 九代目藩主諏訪忠誠、東京に移住。 |
5月 | 諏訪上下社、一社として国幣中社となる。 | ||
7月 | 廃藩置県。高島藩知事諏訪忠礼、高島県知事となる。高島城は高島県庁舎となる。 | ||
11月 | 高島県が廃され筑摩県と合併。 | ||
*この年、神官社家の世襲制度が廃される。諏訪では大祝制度が廃止となる。 | |||
1872年 | 明治 5年 | 2月 | 山県狂介(有朋)、高島城を受け取りに来訪し封をする。高島城は東京鎮台第二分営武庫となる。 |
3月 | 筑摩県の役人が高島城に関するものを受け取る。 | ||
5月 | 筑摩県から高島城破却が命じられ、入札が始まる。 | ||
1873年 | 明治 6年 | *この年より高島城の破却が始まる。 | |
1874年 | 明治 7年 | 2月 | 高島城の石垣が破却の対象から外される。 |
諏訪忠誠、芝東照宮祀官となる。 | |||
1875年 | 明治 8年 | 1月 | 原村発足。 |
*この年、高島城の天守閣が取り壊される。 | |||
1876年 | 明治 9年 | 5月 | 高島城本丸跡地が高島公園として解放される。 |
8月 | 筑摩県が廃され、長野県となる。 | ||
1878年 | 明治11年 | 10月 | 東京にて諏訪忠礼没。 |
1884年 | 明治17年 | 8月 | 諏訪忠誠、子爵となる。 |
1891年 | 明治24年 | 2月 | 諏訪忠誠、諏訪神社宮司となる(〜1893年12月) |
1893年 | 明治26年 | 6月 | 下諏訪町発足。 |
1896年 | 明治29年 | 4月 | 諏訪上下社、官幣中社となる。 |
1898年 | 明治31年 | 2月 | 諏訪忠誠、没。 |
1899年 | 明治32年 | 長野県師範学校教諭の浅井洌(作詞)と依田弁之助(作曲)による「信濃国」が出来る。 | |
1900年 | 明治33年 | 長野県師範学校教諭の北村季晴、「信濃国」に新たに曲をつけ、運動会にて発表。 | |
1902年 | 明治35年 | 上社御柱祭の山出しにおいて上社担当地区で乱闘。死傷者が出る。 | |
1905年 | 明治36年 | 11月 | 鉄道院中央本線富士見駅の延長として茅野〜上諏訪〜下諏訪〜岡谷駅開業。 |
1916年 | 大正 5年 | 12月 | 諏訪上下社、官幣大社となる。 |
1936年 | 昭和11年 | 4月 | 岡谷市発足。 |
1938年 | 昭和13年 | 4月 | 上社御柱祭の川越しにて死傷者が出る。 |
1941年 | 昭和16年 | 8月 | 諏訪市発足。 |
1944年 | 昭和19年 | 4月 | 下社御柱祭にて下諏訪町町長高木氏が陣頭指揮中、殉職。 |
1948年 | 昭和23年 | 諏訪上下社、諏訪大社と改称。 | |
1955年 | 昭和30年 | 4月 | 富士見町発足。 |
1958年 | 昭和33年 | 8月 | 茅野市発足。 |
1968年 | 昭和43年 | 5月 | 県歌「信濃国」制定。 |
1970年 | 昭和45年 | 5月 | 高島城の天守閣・城門・東櫓が復興される。これを記念し毎年5月に高島城祭が開催される。 |
1984年 | 昭和59年 | 7月 | 松平忠輝の300回忌において菩提寺の貞松院にて徳川宗家第18代徳川恒孝氏より赦免が赦される。 |
1987年 | 昭和62年 | 10月 | 貞松院の法要において松平忠輝の仏前に赦免の旨が奉告される。徳川家、伊達家、諏訪家、当時の家臣の子孫などが参列。 |
1988年 | 昭和63年 | 1月 | 大河ドラマ「武田信玄」放映。 |
1998年 | 平成10年 | 1月 | 長野県中部・南部で大雪。 |
2月 | 長野オリンピック開催。開会式で御柱が建てられる(のち、下諏訪駅前に建立) | ||
1999年 | 平成11年 | 7月 | 放火により法華寺の本堂などが焼失。 |
2007年 | 平成19年 | 1月 | 大河ドラマ「風林火山」放映。 |
2016年 | 平成28年 | 1月 | 大河ドラマ「真田丸」放映。 |
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |