このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

御柱祭(下社山出し祭)レポ
2004年(平成16年)

7年に1度の御柱祭は俗に日本三大奇祭ともいわれています。4月の上旬、上社の山出し祭の翌週に下社の山出し祭が始まります。山出し祭は現在は「祭」という字を省いた「山出し」という言葉で形容される事が多いようです。
この年、諏訪人に御柱祭について聞いてみて下さい。きっと話し出したら止まらない筈(笑)。



2001年春に仮見立て、翌年初夏に本見立てが行われ、御神木となった8本の樅の木は、2003年の5月に伐採され御柱祭当年の早春に深山からこの「棚木場」に運ばれてお祭りを待ちます。写真中央のひときわ大きい木が今回一番大きな秋宮一之柱。上社の御柱は山出し祭と里曳き祭の間の期間に木の皮を剥くのですが、下社の場合はこの時点で既に剥かれています。ねっ、白いでしょ。
棚木場での神事を終えた御柱は、氏子に曳かれながら細い山道を下り、お祭り前日に新しい祠に替えられた「斧立社(よきたてしゃ)」にて神事を行い、萩倉地区の「大曲」の難所を越えて木落し坂へと向かいます。
その道すがら、各地区では休憩どころ(通称・おやど)を山の中や休耕田、人家などに設けています。ここでお昼を食べたり、お茶を頂いたり。因みに沿道となる家々の苦労は並ではありません。御柱祭の為に積み立てをするという家も多いのですよ。通称「御柱貯金」♪

棚木場(たなこば)/2004.4.3


木落し坂/2004.4.10 早朝

棚木場から4キロ程里に降りたところに下社御柱祭を代表する「木落し坂」があります。
坂の上には昔は御柱を落とす際、その木の幹に追掛綱を巻いたという「追い掛け松」、そしてその坂下には坂を下る御神木も人も何度となくその命を救われたという「お助け松」があります。「お助け松」の根元近くには山出し祭前日に新しい祠に替えられた「木落し社」があって祭を見守っています。
これは早朝、木落し坂の上から下を覗いたところなのですが、人、いないですね〜(笑)。坂下は国道。前方青いシートと斜面の桟敷は有料観覧席。この青いシートの手前には川が流れていますが、昭和時代に勢いがついた御柱は国道を突っ切り、この川に飛び込んだ事もあったそうで、語り草になっています。


木落し坂/2004.4.10 昼すぎ
ももかの担当地区ではないのですが、縁あって一緒に綱を曳いてきた氏子さん達と、木落し坂を下りました。因みに御柱祭の氏子編・標準服は法被・手ぬぐい・軍手でしょうか(^^;)。
朝の寒々しい空気がいつしか熱気に包まれ、気温は21度、今年一番の暑さを記録。今回、運ばれる人の多くがこの暑さが原因だったようです。上社の山出し祭が行われた前の週は、大雪注意報が出ていたくらいの寒さだったのに!諏訪の寒暖の差って大きいんですよね。
木落し坂は傾斜35度とも40度ともいわれていますが、実際に上から見た感想は「絶壁〜!」、降りてみて「・・・(言葉も出ない)」ももかでした。「人をみるなら諏訪の御柱」といわれますが、この日の人出は26万人。どこから来たの?!という感じ。人も気温もあつい!


〜木落し〜

木落し坂に御柱が顔を出す。
氏子が最も興奮する瞬間かもしれない。
曳き子は綱を練りながら坂を下る。
御柱がせり出し、追い掛け綱がピンとなると斧(よき)がおろされる。
砂煙を上げて御柱が坂を下る。
柱の先頭に乗るのは「華乗り(はなのり)」。
駆け寄る人達。見守る人達。
御柱を目指して
人、人、人、人が集まる。


注連掛(しめかけ)/2004.4.10
上社の山出し祭は華やかで優美ですが、下社の山出し祭は男の祭という感じ。まさに勇壮。お祭りの形体が違うのは俗に上社は男神、下社は女神を祀るからといわれていますが、ももかはそうは思いません。元々このニ社はそれぞれ別々の文化と別々の歴史を持っていたのです。ただ、下社の場合資料の多くが失われその形体が良く分かっていないんですよね。残念。
さて、木落しを終えた御柱は、木落し坂から旧道を1キロ程里に下りた「注連掛」に曳きつけられます。通常だと20分くらいの距離なのですが、それがそれが。時間が思っているよりもかかるのです。今回一番大きく重い柱だった秋宮一之柱は、木落し坂から曳きつけ終了まで3時間近くかかりました。注連掛に置かれた御柱は曳行を見守ってくれた山の神様に感謝を表す「神おくり」をした後、曳行の全てを終えます。
山出し祭から数日後、この注連掛の桜が満開となりました。信州には遅い、でもいつもの年よりは早い春がやってきました。


春宮三の建御柱2004.5.10


後日談。里曳き祭にて。

里曳き祭は5月。最終日、下諏訪駅から国道に出ると、多くの人々の列が秋宮へと向かっていました。この日、秋宮では四本の御柱が建つのです。それを横目に春宮の最後の建御柱に参加しました。三之柱です。この柱が建つ位置は、普段は入れない境内奥。そして観光客の多くが秋宮に集中する為、最終日の穴場なのです。柱は三之柱なので小さめですけどね。
土砂降りの雨の中、柱の上にいる氏子さんも、見守る氏子さんもずぶ濡れです。足元には大きな水溜りが出来ています。靴も服も法被も雨と泥とでじっとりと濡れ、ぐしゃぐしゃになっていました。無事に柱が建てられ、垂れ幕が降りると、歓声と拍手が立ち起こりました。
そして秋宮に四本目の柱が建てられたのは日もとっぷりと暮れた頃。

楽しかったお祭りが終わっても、諏訪では年内は御柱一色です。


御柱休めの後。秋宮一/2010.4.25
その後、御柱は。

境内に建てられた古い四本の柱は、山出し祭と里曳き祭の間の申か寅の日に倒されます。これを御柱休めといい、次の御柱が建てられるまでの数週間、御柱がない境内を見ることが出来ます。古い御柱は各所に払い下げられます。因みに平成16年に建てられた秋宮一の柱は、新潟県新発田市の諏訪神社へ移されました。その日、諏訪は桜が咲き乱れ、その旅立ちを送りました。


HOME 騎竜舎諏訪紀行 戻る




















このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください