このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

井上内親王ゆかりの地

随時更新予定です。とりあえずは行ったところだけアップしました。
井上内親王ゆかりの地は大和(奈良)に多く存在します。


(京都府)

安積親王陵墓 和束町
安積親王は井上内親王の同母弟で、井上内親王が伊勢斎王として群行した1年後の神亀5年(728)に生まれ、天平16年(744)閏正月13日難波宮行幸の最中、桜井頓宮に帰った直後に亡くなりました。藤原仲麻呂による暗殺ともいわれています。井上内親王はこの肉親の喪の為に帰京していますから、2人は生涯で一度も顔を合わせた事はありません。それでも安積親王が姉の為に書写させたと思われる薬師経と千手経の存在が知られています。和束の里は山一つ越えれば宇治という事もあり、お茶が有名なのです。現在は和束茶のブランドで売り出し中♪ももかも買ってくれば良かった〜!そんな訳で山肌のいたるところが茶畑ですが、そんなほんわかした場所に陵墓があります。勿論茶畑の中。良い場所に眠られているのでほっとしました。ここでは『万葉集』持参で大伴家持の歌を詠みたいものです。満月の夜は最高の場所かも。

海住山寺
 加茂町
京の鬼門と聞いて行ってみたところなんですが、とにかく狭い住宅街を抜けた上急な坂道という道を通ります。かなりの腕を持った運転手さんでないと心臓に悪いなあと思いました。修験者もいらっしゃるのも道理という感じで見晴らしは格別です。天平7年(735)聖武天皇の勅願によって建立されましたが一時廃絶。有名なのは国宝にもなっている五重塔で二重で心柱がとめられた珍しいものであり、この形は最古のものだそうです。

恭仁京跡・山城国分寺跡 加茂町
この辺りは瓶原(みかのはら)といって聖武天皇が天平12年(740)から同16年まで恭仁宮をおいた事でも知られていますが、元明天皇以降瓶原離宮があったところでもあります。丁度恭仁小学校の裏手になり、春には桜が咲いて地元の人がお花見をしています。短い間の京だったので史蹟らしいものは残っていません。国分寺跡として礎石はあったんですけどね。この辺りは将来「恭仁京跡」として民家が立ち退き、平城京のような保存地区になるのだそうです。ももかにとって恭仁は聖武天皇が息子・安積親王の為に作ろうとした夢の京♪平城京からは行けなくはない場所ですが、井上内親王は訪れた事はないと思います。何となく、ですが。

正伝寺 和束
天平16年(744)に安積親王の菩提を弔う為に建てられたというお寺です。でもどちらかというと後水尾天皇と東福門院和子所縁のお寺という事で知られているようです。境内からはばっちり眼下に安積親王陵墓がご覧頂けます。いきなり訪ねたのですが快く本堂を開けて下さった上にお茶まで入れて頂いちゃいました。

藤原百川夫妻墓
 木津町
JR西木津駅・近鉄山田川駅双方からもそんなに遠くない場所にあります。藤原百川といえば式家・宇合の8男で異母兄・良継と共に光仁天皇擁立に一役買った人物として知られています。また称徳天皇の暗殺者ともいわれますし、山部親王(後の桓武天皇)を擁立する為、井上内親王・他戸親王母子を追い落とした陰の立役者ともいわれる胡散臭い(失礼な)方であります。奥さんは良継の娘ですので、このお墓に葬られているのかもしれないですね。そんな訳で奈良朝末期は称徳天皇が推した藤原仲麻呂の南家が隆盛したのに対し、平安初期は薬子の変が起こる辺りまで良継・百川の家系である式家が歴史の表舞台に立ったのでした。現在お墓の中は児童公園みたいになっていまして、滑り台なんかが置いてあります。見ず知らずの人が自分のお墓を踏んでいくのを地中の彼はどのように思っているのでしょうか。桜が植えてあるので桜の時期はあの百川のお墓なのに・・と思う程、長閑です。




大和(奈良県)

井上御霊社(井上社) 奈良市井上町
市内循環道路沿いに小さな祠がありまして、そこが井上社です。古くは井上町井上郷といってその名は井上内親王からきているという筋金入りです。ここは中津道(中街道)にあたり、ここに井上内親王の御輿を据えて他方面からの疫病が入ってこないようにしたとの史料がありますので、おそらくその名残がお社として残っているのかもしれないですね。最近田中町のバス停付近が整備された為か、初めて参拝した時は草ぼうぼう案内板は錆びだらけでボロボロという状態だったのが遠目から見ても鮮やかに綺麗になりました。

井上内親王宇智御陵
 五條市
いわずと知れた井上内親王の御陵です。ちょっと山の手にあるので車を使って行った方が良いですね。地図によると山の中という感じがしていたのですが、実際に行ってみると切り開かれた山は畑と果樹園に変わり、といった風情。道路沿いに御陵がありました。日当たりが良くて長閑な場所で、これなら井上内親王もゆっくり眠れるわと思いました。この御陵の周囲を折角だからと一周(^^;)。人がいなかったのが幸いでしたが、端から見れば怪しい人でしたね、ホント。それにしてもこの御陵ってば長岡京の真南にあるのです。御霊封じ??何か意味があるのかな。地図を見ながら考えちゃう。

栄山寺・御霊社
 五條市
藤原武智麻呂が創建したお寺です。境内は思っていたよりも広くありませんでした。八角堂は有名ですね。裏山に登って15分のところに武智麻呂のお墓があります。前回は時間がなかったので今度行った時に登ろうと思っているところ(笑)。ここには御霊社が片隅にありますが、片隅にしては立派なものです。祭神は井上内親王なのだそうですが、詳しい事はお寺の方も分からないようでした。鳥居の形が水に関わる形らしいのは、すぐ近くに川があるからかも。

他戸親王陵墓 五條市
他戸親王は井上内親王の息子。皇太子を廃された後、母子は同日謎の死を遂げます。八所御霊神社関係では母・井上内親王と共に祀られる事が多いようです。陵墓は井上内親王御陵の近くといえば近くにあります。初めは陪塚のように真横にあるものと思ったのですが、ちょっと離れた場所、それも畑の近くにありました。こちらも日当たり抜群で石段が綺麗でした。「他戸さん、また来るわ」と言い残し走り去ったももかでした。

孝謙称徳天皇高野御陵
 奈良市山陵町
近鉄西大寺駅からもそんなにかからない平地にありまして、西大寺の方向を向いて造られています。称徳天皇の御陵はいつしかその存在が分からなくなってしまい、西大寺境内という説もあったりするのです。道鏡はこの近くで彼女の菩提を弔ったんですよね。ももかには二人の間に恋愛感情があったとかは考えたくないんです。それは藤原氏の陰謀なのよ〜(笑)。ももかが行った時には花がありましたから、彼女に心を寄せる人々がそっと添えたのではないかと思いました。

光仁天皇田原東御陵 奈良市日笠町
井上内親王の夫君・白壁王は62歳の時に即位して光仁天皇となりました。天智天皇の孫にあたります。御陵は父である志貴皇子(春日宮天皇)の田原西陵に対してこの名があるようです。山の中の集落の一角にあるという感じで、とにかく日当たりが良さそうなところでした。井上内親王に近しい存在だったこの方が、彼女と生きていた時代をどうやって過ごしてきたのかは窺い知る事は出来ません。「とうとう・・来たわ」まずはこれでしたね。

御霊神社 奈良市薬師堂町
奈良町にある御霊神社。本殿に井上内親王と他戸親王が祀られています。また八所御霊神が同時に祀られているという事で、東殿に早良親王・藤原広嗣・藤原大夫人、西殿には伊予親王・橘逸勢・文屋宮田麿の名が見えます。平安初期は疫病が流行、その為奈良から他村に通じる道に御輿(上街道−早良親王、中街道−井上内親王、下街道−他戸親王)を据えて、疫病が入り込まないようにという信仰があったそうです。御霊社という事でおどろおどろしいイメージとは大違い。産土神をお祀りしているような庶民的なお社です。

西大寺
 奈良市西大寺
天平宝字8年(764)に父・聖武天皇の建てた東の東大寺に対し、称徳天皇が鎮護国家と平和記念の為に西の西大寺として建てたもの。再三の火災の為に衰退。近鉄西大寺駅からも近いお寺なので参詣者も多くて賑やかです。大茶盛式というものが1月と4月にあるのですがとても大きなお茶碗を使います。お堂にその茶碗(ちょっとひび割れ♪)が置いてあります。大茶盛式は思っていたよりも参加費が高かったのでパスしました。

聖武天皇佐保山南陵・天平応真仁正皇太后佐保山東陵 奈良市
東大寺からも近い場所に井上内親王の父・聖武天皇の御陵があります。始めは山陵の感覚で行ったのですが、意外にも住宅街にありました。すぐ側に正妻である藤原不比等の娘・光明子の御陵があります。

東大寺 奈良市
聖武天皇が建てたお寺で奈良の大仏様として親しまれていて、修学旅行の正式コース。正倉院には聖武天皇・光明皇后・称徳天皇所縁の品々があります。正倉院展の時に何かしら拝見出来ればラッキー♪また、酒人内親王は母・井上内親王の菩提を弔う為に、京が平安に移ってからも何度となく東大寺で万灯会を行ったという記録が残っています。やはり平安京ではなく平城京で行ったところに聖武天皇系の血筋という事があるのでしょうか。今のお堂は江戸時代のものですが、当時はこれよりもまだ大きかったというのですから凄い。井上内親王も早良親王も称徳天皇も、ここで大仏様に手を合わされたのでしょうね。

平城京跡 奈良市
奈良時代の京。平安初期には「前の京」と呼ばれていました。ここで阿倍ちゃんこと称徳天皇は暮らしていたのね。酒人さんも井上ちゃんもこの辺りを歩いたのかしら?とウキウキ出来ます(笑)。意外に盲点なのは桓武天皇はここで即位した最後の天皇だという事なんですよ。これから京は長岡に移り、平安に移ります。平城天皇は退位後もここに住んでいました。この為、平安京に嵯峨天皇が、平城京に平城上皇がという二都政府が出来るという事態を招き、薬子の変へと発展していきます。変の後も彼はここに住み続け平安京に帰る事はありませんでした。この為、平安時代は桓武天皇から始まったのではなく、嵯峨天皇からという事が昔からいわれています。


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