このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

夢幻のかなたに
王国に住まう王侯貴族の皆さんはこんな方々です。

早良親王
(750〜785.10)

光仁天皇の第二皇子。母は和乙断の娘・皇太夫人高野新笠。同母兄姉に能登内親王、桓武天皇。桓武天皇の皇太弟(皇太子)となるが、造長岡京使藤原種継暗殺事件に関与したとして廃され、淡路に配流途中食を絶って絶命。後、復位し崇道天皇の名を贈られた。陵墓は奈良県奈良市八島町の八嶋陵。

初め東大寺の等定僧都を師として羂索院(三月堂)に住し、11歳で出家、21歳で受戒し「清潔清浄、修練修行」を積んだ。その後大安寺に移るが、父・白壁王が光仁天皇として即位したのに伴って還俗。親王となり「親王禅師」と称された。東大寺の初代別当である良弁の後継者に指名されてからは東大寺を代表する立場となり、造東大寺司に対しても大きな力を持っていたらしい。光仁天皇の譲位により同母兄・山部親王が桓武天皇として即位したが、天応元年(781)4月4日父親の強い希望で早良親王ははからずも皇太弟となった。

『水鏡』には桓武天皇即位当初、天皇から政治を任されていた親王は佐伯今毛人を抜擢して参議に任命したが、藤原種継はこれに反対して親王と対立。種継に味方していた桓武天皇は今毛人を参議から外し三位に叙した。これを聞いた親王は種継の命を貰いたいと申し入れたが聞き入れずあまつさえそれまで委ねていた実権をも親王から奪い取ったという話がある。いずれにせよ皇位に近くなった事が兄弟の間に深い溝を作っていく。

延暦4年(785)9月23日夜、桓武天皇不在の長岡京で天皇の寵臣・造長岡京使藤原種継射殺事件が起こった。この事件に際して故大伴家持・大伴継人・佐伯高成らが朝廷を傾け早良親王を樹立しようという計画があった事を理由に、9月28日早良親王は内裏より東宮に帰り乙訓寺に幽閉された。親王は淡路に流される事が決定したが、無実を訴え十日余日間飲食を断ち、配流途中の河内国高瀬橋頭において絶命。屍はそのまま淡路に送られ葬られた。翌10月山科山陵(天智天皇)・田原山陵(光仁天皇)・佐保山陵(聖武天皇)に皇太子早良親王を廃する旨が報告され、同月桓武天皇の第一皇子安殿親王が皇太子に立った。桓武天皇が同母弟である親王を廃した理由の一つに、我が子に皇位を継がせたいという思いがあったのではないかともいわれている。

廃された後も史書に親王号がみえるのは、延暦9年(790)閏3月の大赦令によるらしい。延暦11年(792)6月10日、かねてから病がちであった安殿親王の病が早良親王の祟りであるとの卜占があってからは親王の霊への陳謝は相次いで行われるようになった。その間、桓武天皇は10年余りでこの長岡京を去り新京・平安京に遷都しているが、一説に早良親王や井上内親王の怨霊を恐れた為ともいわれている。延暦19年(80
0)7月22日にはついに「崇道天皇」の尊号が追贈され、墓を山陵に称するに至る。

その後も怨霊鎮祀は繰り返され、延暦24年(805)には淡路国に親王の為に常隆寺が建てられ、親王の命日は国忌に入れられた。そして同年4月11日。早良親王の御陵は淡路から大和国に改葬、添上郡の八嶋山陵に移された。八嶋山陵は美しい池のほとりにあり、御陵としては珍しい様式をしている。
早良親王が廃されてから20年余りの兄・桓武天皇の弟親王に対する陳謝は史実に詳しいが、親王の冥福を祈り諸国国分寺の僧に春秋の二季の読経を命じたのが最後の勅命となっている。またその後も人々は親王の霊を恐れ、御霊会や御霊社を設けてそれを慰めいわゆる「御霊信仰」を生んだ。
因みに淡路島には早良親王所縁の常隆寺や墓が残っており、地元の人々からは早良親王の墓、天王(天皇)の森などと呼ばれている。


*早良親王に思うこと*

早良親王との出会いは友人と作った本がきっかけでした。コンセプトは古代史だったのに、集めた資料からももかは奈良時代後期を何時しか選んでいたのです。その時は平安時代も歴史区分してみると古代史だから、との感覚しかありませんでしたがここまで入れ込むようになるとはももか自身思っていなかったんですよね。
聖武天皇の後継者が女君であった事から起った様々な出来事から、当時一禅師であった早良さんは仏の愛弟子から政治の表舞台へと登らされていきます。彼の父である白壁王(後の光仁天皇)はももかはタナボタな人物だとは思っていません。正妃に聖武天皇の皇女である井上内親王を迎えたところから、したたかにしたたかに表と裏の情勢を見極めながら、次の孝謙称徳女帝の時代を生きたと思うのです。早良親王を兄である桓武天皇の皇太弟に選んだのは光仁天皇でした。彼の立太子の理由としては桓武天皇の子供が幼かった事もあるかと思いますが、桓武天皇自身の地位を高める事にも狙いがあったと思います。光仁天皇の血統は聖武朝とは異なり、そして桓武・早良両人の生母は卑母ともいう事が出来るほど身分の劣った家柄でした。成人した同母弟皇子をサポートとして新帝の傍に置く。その事により人臣に新王朝を納得させる。そんな狙いがあったのではと思うのです。また、光仁天皇自身が桓武天皇の勢いと良継&百川兄弟の勢いを怖れていた事もあるのかもしれません。
早良さんは桓武天皇にとって奈良時代・平城京時代を守りたい「旧体制」側の人間でした。年齢が少しばかり離れていた事、そして同母であったとはいえ幼くして仏に帰依していた事は、彼らの距離を感じられるのではないでしょうか。そして光仁朝・桓武朝に期待をかける藤原式家の台頭もそれに花を添えたのです。
早良さんの史跡。まだ行っていないところがいろいろとあります。これからの散策が楽しみです。




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