このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

早良親王ゆかりの地

随時更新予定。とりあえず行ったところだけ書いてみました。
早良さんのゆかりの地って京都ばかりではなく奈良にも沢山あります。
淡路はももかの課題の一つです。いつかは行きたいんですけど・・・遠い。
長岡(京都府)

乙訓寺
 長岡京市
延暦4年(785)10月に藤原種継暗殺事件に関与したとして早良親王はここに幽閉され、その後淡路へと配流される事になります。長岡京内裏からもそんなに遠くなく、境内には「早良親王供養碑」もあります。毘沙門天は著名な人々から賞賛されているようですね。牡丹の名所として有名なの。私が訪れた時は阪神大震災直後でお堂や瓦にひびが入り、修繕費用を募ってテントが出来ていました。

長岡京大極殿跡 長岡京市 
延暦4年(894)に桓武天皇は平城京から長岡京に遷都しました。早良親王の母・高野新笠もここに移りました。恐らく早良親王は前京・平城京との間を行ったり来たりしながらここで僅かな時を過ごしたものと思われます。そして事件はこの京で起こったのでした。昔のJRの駅名は「神足(こうたり)」といっていましたが、現在は「長岡京」。長岡京の発掘が進んでいるからでしょうか。どちらも味のある名前なんですけどね。



山城(京都府)

桓武天皇柏原御陵
 
京都市
早良親王の同母兄・桓武天皇の御陵です。
永代の京・伏見区参照

武天皇皇太后高野新笠大枝御陵 京都市
早良親王の生母・高野新笠の御陵です。
永代の京・西京区参照

恭仁神社
 加茂町
もともと菅原道真を祀った村社天満宮で、昭和40年(1965)に恭仁京跡に鎮座していた御霊神社を合祀し、社号を恭仁神社と改めました。祭神は早良親王・藤原太夫人・菅原道真。本殿は文久3年(1863)に奈良・春日大社若宮の社殿を移築したものです。どうして瓶原(みかのはら)に崇道天皇なのかというのは御霊信仰の一つだったのですね。これなら藤原太夫人の名が連なるのも分かるというもの。恭仁京跡近く、本当に村の中の静かなお社です。




大和(奈良県)

春日宮天皇田原西御陵
 奈良市矢田原町
天智天皇第7皇子の志貴皇子は早良親王の祖父にあたります。息子の白壁王が光仁天皇として即位した折に「春日宮天皇」の名を贈られました。またの名を田原天皇ともいいます。奈良市内から峠を越えていくとこの御陵があるのですが、この辺り一帯は本当に長閑です。参道の入口に「石走る」の歌碑があって、彼が著名な万葉歌人だった事を窺い知る事が出来るのです。それにしても生前の彼はまさか自分の血が皇統を継ぐとは思っていなかったでしょうね。

御霊神社(東殿)
 奈良市薬師堂町
奈良町にあるので参拝される方も多いのではないかと思われる御霊社。延暦19年(800)宇智郡から遷祀されたといいます。元興寺南大門前にあった時は元興寺御霊社ともいったのだとか。「木比御霊」とも称していて崇道天皇社(奈良市西紀寺町)と共に南都二大御霊社とされたのだそうです。早良親王はこの本殿東側社殿に祀られています。小さな町のお社という感じですが、とても綺麗に整備されていて奈良町の地図には必ず載っているので見つけやすいですね。

御霊神社 奈良市山町
祭神は応仁天皇と早良親王。地元の方に聞いても「御霊神社」では分からないようです。「産土さん」か「お社」という聞き方で探してみました。県道を外れて僅かなのですが、余り人の訪れもなくてひっそりとしていました。地元の方には物騒だから女の子一人で行くのは・・とご注意を受けましたので、さささっというスピード参拝でした。余り目につかないところに「皇祖遙拝所」の碑があります。

光仁天皇田原東御陵 奈良市日笠町
早良親王の父上・白壁王は志貴皇子の第6皇子でした。正妃に聖武天皇の皇女である井上内親王を迎えた事から、淡海朝廷の血をひく諸王の中では優遇されてはいたようです。そんな事もあって62歳の時に思いがけず即位。始め広岡山稜に葬られましたが後に改葬。早良親王の同母兄の山部親王に譲位し、天応元年に崩御しました。酒好きな天皇として有名です。御陵は古くから「王墓」と呼ばれていて、山間の集落の一環にあります。この辺りは大和茶の栽培が盛ん。お茶畑の中の御陵は長閑でした。

嶋田神社 奈良市八島町
八嶋陵から歩いて数分のところにあるお社で「島田神社」「八島神社」「崇道天王社」ともいいます。明治19年1月12日この辺りの氏神である神八中耳命を祀った嶋田社に、八嶋御陵にあった崇道天皇御霊社のご神体と社殿が下付され、現在に至っています。本当に長閑な場所にありまして、行くのにドキドキ。

崇道天皇社 奈良市西紀寺町
「八所御霊神社」「紀寺大神」「紀寺天王」「崇道天王社」の別名があります。祭神は早良親王。平城天皇が父・桓武天皇の意思をつぎ即位の年の大同元年(806)に創建。古くは璉城寺の鎮守社だったとか。市内循環道路をほんの少し中に入ったところにあるのですが、朱い鳥居がその場所を示しています。小さいながらも美しく整備されています。

崇道天皇社 奈良市神殿町
北永井町の崇道さんとは道を挟んだ向かいのような場所にあります。住宅密集地にあるので路地を散策するような感じでした。近年に改修されたのでしょうか、かなり新しい社殿でした。額は「崇道天皇神社」。因みにこの界隈(神殿町・北永井町・出屋敷町)は徒歩でも散策出来る距離にあるのですが三つも崇道さんが鎮座しているのですよ。サークルを作れちゃう。

崇道天皇社 奈良市北永井町
この界隈で唯一、「崇導天王社」という名で地図に載っていたというお社で、崇道さんの中では割と大きい方かもしれません。県道からみても住宅街の中に木々が生い茂っているのが分かります。

崇道天皇八嶋御陵 奈良市八島町
延暦19年(800)7月に早良親王は淡路国から大和国に戻ってきました。この地に早良親王が改葬された理由は分からないのですが、一説には祖父・施基親王(春日宮天皇。志貴皇子)や父・光仁天皇の眠る田原の里に近い事が選定の理由なのではとの事です。御陵の前、道の真ん中に何故か小さな池、というか窪みがありましてそこに大きな石と石仏があります。これは早良親王が淡路国に流され死に際して九つの石を投げ「我住むべき所に留まれ(この石の落ちた所に葬れ)」といい、石の八つがここに留まったのだとか。それ故これを「八つ石」といい、地名が八島になったのだとか。またこの石を取り除くと祟りがあると伝わっているのだそうです。御陵は白壁と門があって早良親王の御霊が封じてあるかのような珍しい様式をしています。北山辺の道にあたるのでガイドブックによっては省かれる事が多くてももかはちょっと不満。ここから南には小野篁さまが嵯峨天皇の勅願によって伽藍を建立したという弘仁寺があります。県道からこの八嶋陵への入口に碑があるのですが、その灯篭には「崇道天王社」と刻まれていました。


大安寺・御霊神社 奈良市大安寺町
神護景雲2年(768)早良親王は東大寺から大安寺東院に移りました。当時あった丈六尊像は親王の願いによって建立されたものといわれています。お寺では親王の命日を10月17日とし、古くから御諱に当たり梵網教を講讃し奉ってきたのだそうです。かつての壮大さは見受ける事は出来ませんが、早良親王所縁の寺として当時を偲ぶももかでありました。笹酒も有名。この大安寺東側に御霊神社が鎮座しています。ちょうど大安寺旧境内の碑と推古天皇社の間なんですが、ここにある二つの祠のうちの一つが早良親王を祀っていると考えられているようです。

東大寺・法華堂(三月堂)
 奈良市
白壁王の第二皇子(第三子)として生まれた早良親王は幼い時に東大寺登定僧都を師として羂索堂に住み、11歳で出家し、21歳で登壇受戒します羂索堂というのは法華堂の事。不空羂索観音を本尊とするところから「羂索堂」と呼ばれ、毎年三月に法華会が行われた事から「法華堂」ともいわれ、現在は「三月堂」の名で良く知られています。早良親王が仏道に入ったのは当時天武天皇系(正確にいえば聖武天皇系)が優遇された時代に天智天皇系の皇族の生き残り手段の一つだったのかもしれません。兄の山部王(後の桓武天皇)は官僚への道を、そして弟の早良王は仏教の道をと。異母弟の稗田王がそれでも皇孫の女王を母に持っている事に比べ、百済系の卑母を持った二人が生き抜くにはそれなりの布石が必要だったのはと考えられます。因みに稗田王は親王となってからも無品なので官僚として歩いていたようには思えないんですよ。財産があったから出仕する必要がなかったのかも(笑)。体が弱かったのかもしれないけど。早良親王は父・白壁王が即位した頃になると東大寺運営にも重い存在となり、宝亀2年(771)には大仏殿副柱を建立しています。

八所御霊神社 奈良市秋篠町
秋篠寺の鎮守社として境内に鎮座。この名の通り、早良親王を祝とする八所御霊神を祀っています。秋篠寺には立ち寄る事も多かったのですが、後で地図を見直して、ここまでチェック入れてなかった〜と慌てて散策。南門を抜けるとそこにお社はありました。秋篠寺は父・光仁天皇が創建した奈良時代最後の官寺。伎芸天が有名ですよね。ももかは学生時代、修学旅行で使う栞の裏表紙のイラストを担当したのですが、その時に描いたのがこの伎芸天だったという思い出があります。寺号に地名をあてるのは当時はとても珍しかったのだとか。そういえば秋篠寺にある十二社の中に「大将軍社」をお見かけいたしました。もしやここって平城京の鬼門?


平城京跡 奈良市
父・白壁王が光仁天皇として、兄・山部親王が桓武天皇として即位した京。そして早良親王自身は、天応元年(781)皇太弟に立てられました。早良親王の春宮大夫は大伴家持。後に大伴氏は藤原種継事件の際、多くの連座者を出しています。桓武天皇はその生まれから名族・旧貴族などが好きではなかったらしく、その反動が早良親王派を作りあげていったように思うのですが・・。平城京跡は美しく整備され、数年前に朱雀門が完成。車窓からその姿を見ることが出来ます。

平城天皇楊梅陵 奈良市
平城天皇は桓武天皇と皇后の長子で早良親王が廃された後に皇太子にたてられました。元来病気質で体が弱く、その事が早良親王の怨霊と結びついて考えられた為、それを引き起こした父・桓武天皇とは折り合いが良くありませんでした。「古先哲王といえども及ばざるところあり」と言われた程の器量を持ちつつも在位は短く同母弟の嵯峨天皇に位を譲り、上皇となった後は前の京である平城京に隠棲。しかし政治の主導権を巡っては天皇と対立し薬子の変を引き起こします。変の後、天皇とは和解しましたが平安京に戻る事なくこの地で没し楊梅陵に葬られました。現在の楊梅陵は平城京大極殿跡の真北に位置していますが、その形態から平城宮造営以前に存在していた古墳の一部という事が分かっており実際の御陵が何処にあるのかは謎とされています。

八阪神社・左殿 奈良市柴屋町
本殿は八王子神、右殿は春日神社、そして左殿が早良親王を祀る崇道天皇社なのです。所々に「牛頭天王社」の文字が見えますね。国道からちょっと入った住宅地の一郭なのですが、鬱蒼とした木々で覆われ一人で行くには少し怖いような感じがしました。鳥居の右側に「皇祖遙拝所」の碑があります。

八阪神社 奈良市窪之庄町
この境内社に御霊社があって早良親王を祀っています。帯解寺からも割と近い場所です。ここは分かりやすいですし、住宅街なので安全かな。地元の産土さんみたいな感じでした。こちらにも「皇祖遙拝所」の碑があります。もしかして崇道さん関係ってこの碑が建っているのかしら。
HOME 王城夢幻のかなたに 戻る



































このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください