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〜王城年代記・平城京[1]〜

元号西暦出来事当帝大臣
和銅 3年7103月10日平城京遷都元明天皇(知太政官事)
穂積親王
(左)石上麻呂
(右)藤原不比等
*この月、右大臣藤原不比等が厩坂寺を平城春日に移し、興福寺と改称する。
4月29日三河・遠江・美濃の三国で飢饉、賑恤。
9月18日銀銭を廃止。
*この年、大官大寺を平城へ移す。
和銅 4年7111月 2日平城遷都に伴い、山背・河内・摂津・伊賀四国に六駅を設置。元明天皇(知太政官事)
穂積親王
(左)石上麻呂
(右)藤原不比等
4月 5日大倭国が飢饉、賑給。
7月 1日諸司に命じ律令を励行。
9月 2日衛士に勇敢便武の人を選出させる。
9月 4日造都の役民の逃亡が目立つようになる。
10月23日畜銭叙位の法を制定。
和銅 5年7121月28日太安万侶、「古事記」を完成させ奏上。元明天皇(知太政官事)
穂積親王
(左)石上麻呂
(右)藤原不比等
9月19日道首名を遣新羅大使に任じる。
11月15日長屋王(父:天武天皇皇子高市皇子)、故文武天皇の為に大般若経を書写。
12月 7日衣服の制を定める。
和銅 6年7132月19日度量・調康・義倉などに関する五条を制定。元明天皇(知太政官事)
穂積親王
(左)石上麻呂
(右)藤原不比等
4月 3日大倭国疫病が蔓延し、薬を給う。丹波国五郡を丹後、備前国六郡を美作国、日向国四郡を大隈国とする。
5月 2日諸国の郡郷名に好字をつけ、「風土記」の編纂を命じる。
5月11日伊勢国に水銀を献上させる。
*この年、震国王大祚栄、唐皇帝玄宗により「渤海郡王」の称号を受け、国名を渤海国と改める。
和銅 7年7142月10日紀清人・三宅藤麻呂に国史を撰ばせる。元明天皇(知太政官事)
穂積親王
(左)石上麻呂
(右)藤原不比等
4月15日小野毛野没。
5月 1日大伴安麻呂没。
6月25日元明天皇皇太子首皇子(父:文武天皇、母:夫人藤原宮子)、元服。
和銅 8年
霊亀 元年
7152月25日元明天皇皇女吉備内親王の子供(吉備内親王と長屋王の間に生まれた子供)に二世皇孫待遇を与える。元明天皇
元正天皇
(知太政官事)
穂積親王
(〜715.7.27)
(左)石上麻呂
(右)藤原不比等
4月----この月、中臣大嶋、故草壁皇子(天武天皇皇太子、妃:元明天皇)の為に大和国粟原寺建立を誓願。比売額田、丈六釈迦像を造る。
5月 1日土断法制定。丹波・丹後二国飢饉、賑給。
5月19日義倉の法を制定。
5月25日摂津・武蔵・越前・志摩・紀伊諸国飢饉、賑給。遠江国で地震。
5月26日河内国で地震。
6月 4日天武天皇皇子長親王没。(母:天智天皇皇女大江内親王)
7月27日知太政官事穂積親王没。(父:天武天皇、母:蘇我大ヌ娘)
8月28日左京の人、霊亀を献上。
9月 2日元明天皇譲位。元明天皇皇女氷高内親王即位(元正天皇。父:天武天皇皇太子草壁皇子。文武天皇同母姉)。改元(霊亀)。伊勢斎王円方女王、退下。(父:長屋王、母:藤原長娥子))
*この年、里を郷と改称。
*この頃までに「播磨風土記」が完成。
霊亀 2年7165月16日大安寺を左京に移築。元正天皇(左)石上麻呂
(右)藤原不比等
6月----*この月、藤原安宿媛、皇太子首太子宮へ入内。(父:藤原不比等)
8月12日天智天皇皇子志貴親王没。(母:越道君娘、後に春日宮天皇を追贈)
*この年、県犬養広刀自、皇太子首太子宮へ入内。(父:県犬養唐)
霊亀 3年
養老 元年
7173月 3日左大臣石上麻呂没(78)。元正天皇(左)石上麻呂
(〜717.3.3)
(右)藤原不比等
3月 9日吉備真備・玄昉・阿倍仲麻呂などが渡唐。(第八次遣唐使)
4月 6日伊勢斎王久勢女王、伊勢群行。(両親:不明)
4月23日僧行基の巷の活動を禁じる。
5月17日百姓の浮浪を禁じる。
8月16日大洪水の為、伊勢豊受宮の瑞垣・御門が流出。
9月12日元正天皇、近江国行在所にて諸国の奏上による土風の歌舞を見る。
9月20日元正天皇、美濃国の美泉を見る。
10月21日藤原房前が参議に任じられる。
11月17日改元(養老)。美濃国の美泉による。
養老 2年7183月20日小野馬養、遣新羅大使に任じられる。元正天皇(右)藤原不比等
5月 2日越前四郡を能登国、上総国四郡を安房国、陸奥五郡・常陸一郡を岩城国、陸奥五郡を岩背国とする。
9月23日法興寺(元興寺)を平城に移す。
12月13日遣唐使入京。僧・道慈が帰京し金光明最勝王経を伝える。
*この年、右大臣藤原不比等らを命じ律令を撰定し、各10巻を編む(養老律令)。
*この年、薬師寺を平城に移転。
養老 3年7192月 3日百姓の服装について、襟を右とする。また職事の主典以上に笏を把らせる。元正天皇(右)藤原不比等
2月 5日粟田真人没。
6月10日皇太子首皇子、初めて朝政を聴く。
閏7月 7日新羅、朝貢。
閏7月11日遣新羅使任命。
9月22日六道諸国旱害。義倉を開き賑恤。
12月 5日初めて婦女の衣服の様式を定める。
養老 4年7201月 4日初めて僧尼に公験を授ける。元正天皇(知太政官事)
舎人親王
(720.8.4〜)
(右)藤原不比等
(〜720.8.3)
2月29日大宰府、隼人の叛乱と大隈国守の殺害を奏上。
3月 4日大伴旅人、征隼人持節大将軍に任じられる。
5月21日天武天皇皇子舎人親王、「日本書紀」撰上。
8月 3日右大臣藤原不比等没(63)。
8月 4日天武天皇皇子舎人親王を知太政官事に任じる。
9月28日陸奥国で蝦夷が叛乱を起こし、按察使を殺害。
9月29日多治比県守を持節征夷将軍に、阿倍駿河を持節鎮狄将軍に任じる。
養老 5年7211月 5日長屋王、右大臣に任じられる。元正天皇(知太政官事)
舎人親王
(右)長屋王
(721.1.5〜)
6月26日信濃国を割き、諏方国を設置。
*8月以前に伊勢斎王久勢女王、退下。(720年説も)
9月11日井上女王、伊勢斎王に卜定。斎内親王となる。同日北池辺斎宮に入る。(父:元正天皇皇太子首皇子、母:夫人県犬養広刀自)
10月13日元明上皇、後事を右大臣長屋王と藤原房前に託す。
12月 7日元明上皇崩御。(父:天智天皇、母:蘇我姪娘、天武天皇皇太子草壁皇子妃、文武天皇・元正天皇生母)
12月13日元明上皇を大倭国添上郡椎山陵に葬る。
養老 6年7221月20日謀叛誣告の罪により多治比三宅麻呂を伊豆島へ、元正天皇誹謗の罪により穂積老を佐渡島に配流。元正天皇(知太政官事)
舎人親王
(右)長屋王
5月10日津主治麻呂、遣新羅使に任じられる。
7月10日僧尼の綱紀を粛正。
11月 7日初めて女医博士を置く。
養老 7年7234月17日三世一身の法、制定。元正天皇(知太政官事)
舎人親王
(右)長屋王
7月 7日太安万侶没(「続日本紀」)。*銅板墓誌では7月6日没。
8月 8日新羅使、朝貢。
養老 8年
神亀 元年
7242月 4日元正天皇、譲位。皇太子首皇子即位(聖武天皇)。右大臣長屋王、左大臣に任じられる。聖武天皇生母藤原宮子、皇太夫人となる。改元(神亀)。元正天皇
聖武天皇
(知太政官事)
舎人親王
(左)長屋王
(724.2.4〜)
(右)長屋王
(〜724.2.4)
2月 6日聖武天皇生母藤原宮子を大夫人とする勅。
3月 1日伊豆・安房・常陸・佐渡・隠岐・土佐を遠流、諏方・伊予を中流、越前・安芸は近流の国とする。
3月22日左大臣長屋王の奏上により、聖武天皇は前出の勅を改める。藤原宮子を書面では「皇太夫人」としながらも読み方は「おおみおや(大御祖)」とする。
3月25日陸奥国の蝦夷が叛乱。陸奥国大掾を殺害。
4月 7日藤原宇合、持節大将軍に任じられ蝦夷討伐を命じられる。
5月24日小野牛養、鎮狄将軍に任じられ出羽の蝦狄鎮圧を命じられる。
7月13日天武天皇夫人大ヌ娘没。(父:蘇我赤兄、穂積親王・紀皇女・第13代伊勢斎王田形内親王生母、号:石川夫人)
8月21日土師豊麻呂を遣新羅大使に任じる。
11月 8日平城京を壮麗にする為に、五位以上及び富める者に瓦葺丹塗を命じる。
11月29日藤原宇合・小野牛養が帰京。
*この年、陸奥国多賀城築城。
神亀 2年7257月17日攘災招福を願い社寺を清め、国家平安を願って金光明経・最勝王経を読経。聖武天皇(知太政官事)
舎人親王
(左)長屋王
9月22日除災を願い三千人が出家。翌23日より7日間、京使・大倭国内の諸寺に転経を命じる。
神亀 3年7266月 5日新羅使、朝貢。聖武天皇(知太政官事)
舎人親王
(左)長屋王
10月26日藤原宇合、知造難波宮事に任じる。
神亀 4年7279月 3日伊勢斎王井上内親王、伊勢群行。聖武天皇(知太政官事)
舎人親王
(左)長屋王
閏9月29日聖武天皇夫人藤原安宿媛、皇子を生む。
11月 2日夫人藤原安宿媛所生の皇子、立太子。
12月20日渤海使入京。
12月29日正式に渤海国との国交が開かれる。
神亀 5年7281月17日渤海使、渤海国王の親書と方物を献上。聖武天皇(知太政官事)
舎人親王
(左)長屋王
3月 5日天武天皇皇女田形内親王没。(母:蘇我大ヌ娘、第13代伊勢斎王、六人部王妃)
4月16日渤海使帰国。
5月15日左大臣長屋王、大般若経六百巻を書写。
6月 5日引田虫麻呂、初めて渤海国へ渡る。
8月 1日殺生を禁じる意もあり、鷹の飼育を禁止。
9月13日聖武天皇皇太子没(2)。(母:夫人藤原安宿媛)
*この皇子の名については「基王」(「皇胤紹運録」など)の他に、夭折の為に後代に名が伝わらなかった為に「某王」と記されていたものを「基」と誤写して伝わったとの説もある。
9月19日聖武天皇皇太子を那富山に葬る。
12月28日国家平安の為に金光明教を諸国に領分。
神亀 6年
天平 元年
7292月10日左大臣長屋王、塗部君足と中臣宮処東人に謀叛を誣告される。長屋王の変聖武天皇(知太政官事)
舎人親王
(左)長屋王
(〜729.2.12)
2月11日知大乗大臣舎人親王・大将軍新田部親王・大納言多治比池守・中納言藤原武智麻呂らが長屋王邸に派遣。左大臣長屋王、糾問される。
2月12日左大臣長屋王自尽(46または54)。(父:天武天皇皇子高市皇子、母:天智天皇皇女御名部皇女)
正妃元明天皇皇女吉備内親王自縊(父:天武天皇皇太子草壁皇子)の他、内親王所生の王ら4人も自縊。
2月13日長屋王夫妻を生駒山に葬る。吉備内親王は無罪とする。
2月17日長屋王と親交があった上毛野宿奈麻呂ら7人、流罪。
3月 4日藤原武智麻呂、大納言に任じられる。
4月 3日異端幻術厭魅呪詛を禁じる。
8月 5日改元(天平)。
8月10日聖徳天皇夫人藤原安宿媛、立后。
天平 2年7301月13日大宰帥大伴旅人、筑前国守山上憶良らを招き自邸にて観梅宴を催す。聖武天皇(知太政官事)
舎人親王
4月17日皇后宮職に施薬院を設置。
8月29日遣渤海使帰国。
9月 8日多治比池守没。
9月28日諸国の防人を停止。
天平 3年7313月 7日諏方国を廃し、信濃国と合併。聖武天皇(知太政官事)
舎人親王
8月11日藤原宇合・多治比県守・藤原麻呂・鈴鹿王・葛城王・大伴道足を参議に任じる。
7月25日大伴旅人没(67)。
9月27日藤原武智麻呂、大宰帥を兼ねる。
11月22日畿内に惣管を、諸道に鎮撫使を設置。新田部親王を大惣管、藤原宇合を副惣管、多治比県守を山陽道、藤原麻呂を山陰道、大伴道足を南海道鎮撫使に任じる。
天平 4年7321月 1日聖武天皇、初めて冕服にて朝賀を受ける。聖武天皇(知太政官事)
舎人親王
1月20日角家主、遣新羅使に任じられる。
1月22日新羅使来朝。
8月11日新羅使帰国。
8月17日多治比広成、遣唐大使に任じられる(第9次遣唐使)。鎮撫使を改め節度使を設置。藤原房前を東山東海二道、多治比県守を山陰道、藤原宇合を西海道節度使にそれぞれ任じる。
天平 5年7331月11日県犬養橘三千代没。(父:県犬養東人、美務王に嫁した後、藤原不比等の正妻。橘諸兄・聖武天皇皇后藤原安宿媛の生母)聖武天皇(知太政官事)
舎人親王
2月16日大倭国・河内国飢饉の為、賑給。
閏3月26日遣唐大使多治比広成に節刀を授ける。
4月 3日遣唐使渡唐。
*この頃、山上憶良没(74)。
天平 6年7341月17日藤原武智麻呂、右大臣に任じられる。聖武天皇(知太政官事)
舎人親王
(右)藤原武智麻呂
(734.1.17〜)
2月 1日聖武天皇、朱雀門で歌垣を見る。
2月 8日天智天皇皇女泉内親王没。(母:忍海色夫古娘、第12代伊勢斎王)
4月 7日諸国で大地震。
4月21日諸道の節度使、廃止。
11月20日遣唐大使多治比広成、吉備真備、玄昉ら多禰島(種子島)に漂着。
*この年藤原北夫人(父:藤原武智麻呂)、藤原南夫人(父:藤原房前)が入内。
天平 7年7352月27日新羅使、無断で国号を王城国と称した為に拝朝を許さず本国に返却。聖武天皇(知太政官事)
舎人親王
(〜735.11.14)
(右)藤原武智麻呂
3月10日遣唐大使多治比広成、節刀を返還。
4月26日入唐留学生吉備真備、「唐礼」・「太衍暦」・楽器・武器などを献上。入唐僧玄昉、仏像・経論などを献上。
8月12日大宰府で裳瘡が大流行。疫病終息を願い、諸寺で読経。
9月30日天武天皇皇子新田部親王没。(母:夫人藤原五百重娘)
11月 8日聖武天皇外祖母賀茂比売没。(藤原不比等妻、文武皇太夫人藤原宮子生母)
11月14日知太政官事舎人親王没(60)。(父:天武天皇、母:天智天皇皇女新田部皇女、子:淳仁天皇、後に崇道尽敬皇帝を追贈)
*この年、裳瘡が大流行。
天平 8年7362月28日阿倍継麻呂、遣新羅使に任じられる。聖武天皇(右)藤原武智麻呂
11月17日葛城王、臣籍降下。名を橘宿禰諸兄と改める。
天平 9年7371月22日持節大使藤原麻呂、陸奥国に派遣。聖武天皇(知太政官事)
鈴鹿王
(737.9.28〜)
(左)藤原武智麻呂
(737.7.25〜同日)
(右)藤原武智麻呂
(〜737.7.25)
1月27日遣新羅使入京。
2月15日遣新羅使、新羅での常礼を欠いた出来事を奏上。
3月 3日疫病終息を願い、大般若経を書写。
4月17日藤原房前没(57)。(藤原北家始祖)
6月 1日廃朝。
6月11日大宰少弐小野老没。
6月23日中納言多治比県守没(70)。
7月 5日大倭国、飢饉・疫病。賑給。
7月13日参議藤原麻呂没(43)。(藤原京家始祖)
7月25日右大臣藤原武智麻呂、左大臣に任じられるも同日没(58)。(藤原南家始祖)
8月 5日参議藤原宇合没(44)。(藤原式家始祖)
8月20日天智天皇皇女水主内親王没。
8月26日玄昉を僧正とする。
9月28日鈴鹿王は知太政官事に、橘諸兄は大納言に任じられる。
10月20日故長屋王の子である安宿王と黄文王に授位。
12月12日藤原豊成、参に任じられる。
12月27日大倭国を大養徳国と改名。文武天皇皇太后藤原宮子、実子聖武天皇に誕生以来初めて相見。
*この年、疫瘡が大流行。朝堂の官僚の多くが感染。
天平10年7381月13日聖武天皇皇女阿倍内親王立太子。橘諸兄、右大臣に任じられる。聖武天皇(知太政官事)
鈴鹿王

(右)橘諸兄
(738.1.13〜)
*この月、新羅使来朝。
5月 3日諸国の健児廃止。
5月24日右大臣橘諸兄、伊勢大神宮に神宝を献上。
6月24日新羅使を大宰府にて饗応し放還。
7月10日大伴子虫、長屋王を誣告した中臣宮処東人を斬殺。
天平11年7393月28日石上乙麻呂と藤原宇合の正室久米若女との不義が発覚し、乙麻呂は土佐国へ若女は下総国へ配流。聖武天皇(知太政官事)
鈴鹿王

(右)橘諸兄
4月 7日多治比広成没。
8月16日蔭子孫・位子に大学で学問をさせる。
10月27日渤海使平群広成、渤海使と共に入京。
12月10日渤海使、国王の親書と方物を献上。
天平12年7401月13日大伴犬養、遣渤海大使に任じられる。聖武天皇(知太政官事)
鈴鹿王

(右)橘諸兄
3月15日紀必登、遣新羅大使に任じられる。
6月15日天下泰平により大赦。久米若女、帰京を許される。
8月29日大宰少弐藤原広嗣、僧正玄昉・吉備真備を除かんと上奏。
9月 3日藤原広嗣が大宰府にて挙兵。大野東人、持節将軍として討伐に向かう。藤原広嗣の乱
9月15日筑紫の乱(広嗣の乱)鎮圧を願い、諸国に観世音菩薩像を造らせ観世音経十巻を書写させる。
10月 5日渤海使帰国。
10月 9日藤原広嗣軍敗退。
10月23日藤原広嗣、肥前国松浦郡値嘉嶋(五島列島)にて捕縛。
10月29日聖武天皇、東国へ行幸の旅に出る。伊賀・伊勢・美濃・近江を経て山背国に至る。この日、伊勢国行幸。
11月 1日藤原広嗣・綱手兄弟、斬殺。
12月 6日聖武天皇、近江国坂田郡横川頓宮に至る。橘諸兄、遷都の為に山城国相楽郡恭仁郷に赴く。
12月15日聖武天皇、恭仁宮に行幸。新京の造営を開始する。
*この頃から聖武天皇皇后藤原安宿媛、光明子と名を改める。
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