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〜王城年代記・平城京[2]〜
元号 | 西暦 | 日 | 出来事 | 当帝 | 大臣 |
天平13年 | 741 | 1月 1日 | 恭仁宮での朝賀。宮垣未完成の為、仮に帷帳をめぐらす。 | 聖武天皇 | (知太政官事) 鈴鹿王 (右)橘諸兄 |
1月22日 | 藤原広嗣の乱に際し、広嗣軍に加わった者を処断。死罪26人、没官5人、流罪47人、その他209人に及ぶ。 | ||||
2月14日 | 諸国の国分寺・国分尼寺建立の詔が出される。 | ||||
3月28日 | 天武天皇皇女泊瀬部内親王没。(母:宍人(木殻)媛、天智天皇皇子川嶋皇子妃) | ||||
閏3月 9日 | 平城宮の兵器を甕原宮に運搬。 | ||||
閏3月15日 | 五位以上の者が平城に住む事を禁じる。 | ||||
8月28日 | 平城の東西二市を恭仁京に移す。 | ||||
9月 9日 | 新京造営のために大養徳・河内・摂津・山背の役夫5500人を差発。 | ||||
11月21日 | 新京を大養徳恭仁大宮と命名。 | ||||
12月10日 | 安房国と上総国が合併、能登国が越中国と合併。 | ||||
天平14年 | 742 | 1月 5日 | 大宰府を廃し、筑前国と併合。(天平17年6月に復活) | 聖武天皇 | (知太政官事) 鈴鹿王 (右)橘諸兄 |
1月16日 | 聖武天皇、大安殿にて五節田舞・踏歌を見る。 | ||||
2月 3日 | 新羅使来朝。 | ||||
2月 5日 | 来朝の新羅使を大宰府にて饗応。後、放還。 | ||||
2月14日 | 聖武天皇、金字の金光明最勝経を書写。国毎に領分。 | ||||
8月11日 | 近江国甲賀郡紫香楽村へ行幸の為、紫香楽宮造営。 | ||||
8月27日 | 聖武天皇、紫香楽宮に行幸。 | ||||
10月12日 | 塩焼王・女嬬ら、平城の獄に繋がれる。 | ||||
10月17日 | 塩焼王を伊豆国三嶋へ、女嬬らを上総・常陸・佐渡・隠岐・土佐の諸国へそれぞれ配流。 | ||||
*この月、新羅は日本からの遣新羅使を受けつけず。 | |||||
11月 2日 | 大野東人没。 | ||||
12月29日 | 聖武天皇、紫香楽宮に行幸。 | ||||
天平15年 | 743 | 2月11日 | 佐渡国を越後国と合併させる。 | 聖武天皇 | (知太政官事) 鈴鹿王 (左)橘諸兄 (743.5.5〜) (右)橘諸兄 (〜743.5.5) |
4月 3日 | 聖武天皇、紫香楽宮に行幸。 | ||||
4月25日 | 筑前国に新羅使来朝。常礼を欠いた事を責め放却。 | ||||
5月 5日 | 皇太子阿倍内親王、五節を舞う。右大臣橘諸兄、左大臣に任じられる。 | ||||
5月27日 | 三世一身の法を廃し、懇田永年私財令を発する。 | ||||
7月26日 | 聖武天皇、紫香楽宮に行幸。 | ||||
10月15日 | 聖武天皇、盧舎那仏金銅像造立の詔を発する。 | ||||
10月19日 | 近江国紫香楽宮の地に盧舎那仏金銅像造立の為、寺地を開く。 | ||||
12月26日 | 恭仁宮の造作を停止。廃止された大宰府に代わり、筑紫国に鎮西府を設置。将軍以下を任命する事とする。 | ||||
*この年、聖武天皇皇子安積親王(母:夫人県犬養広刀自)、藤原八束宅に宴する。 | |||||
天平16年 | 744 | 1月11日 | 聖武天皇皇子安積親王・市原王・大伴家持ら活道岡の松下で宴。 | 聖武天皇 | (知太政官事) 鈴鹿王 (左)橘諸兄 |
閏1月 1日 | 聖武天皇、百官に恭仁・難波ニ京の都としての便宜を尋ねる。 | ||||
閏1月 4日 | 聖武天皇、市人に定京について尋ねる。皆恭仁京を願う。 | ||||
閏1月11日 | 聖武天皇、難波行幸。聖武天皇皇子安積親王、脚病の為に桜井頓宮より還る。 | ||||
閏1月13日 | 聖武天皇皇子安積親王没(17)。(母:夫人県犬養広刀自、同母姉:井上内親王・不破内親王)。伊勢斎王井上内親王、退下。 | ||||
2月 3日 | 大伴家持、故安積親王への挽歌を作る。 | ||||
2月24日 | 聖武天皇、紫香楽宮に行幸。 | ||||
2月26日 | 難波遷都。 | ||||
3月24日 | 大伴家持、故安積親王への挽歌を作る。 | ||||
4月13日 | 紫香楽宮の西北で山火事発生。 | ||||
10月 3日 | 聖武天皇皇后藤原光明子、樂毅論を書写。 | ||||
*この年、県女王、伊勢斎王に卜定か。(父:高丘王?) | |||||
天平17年 | 745 | 1月21日 | 僧行基を大僧正に任じる。 | 聖武天皇 | (知太政官事) 鈴鹿王 (〜745.9.4) (左)橘諸兄 |
4月15日 | 塩焼王、罪を許され帰京。 | ||||
5月 2日 | 官人の全てが平城京を皇都としたい旨を述べる。 | ||||
5月 4日 | 大安寺・薬師寺・元興寺・興福寺の衆僧が平城京を皇都としたい旨を述べる。 | ||||
5月10日 | 恭仁京の市人、平城京に争うように帰る。 | ||||
5月11日 | 平城還都。聖武天皇及び諸司官人、皇都としての平城京に帰る。 | ||||
*4月から5月にかけ、群発地震が続く。 | |||||
6月 5日 | 大宰府を復活させる。 | ||||
8月23日 | 大養徳国の国分寺金光明寺の寺域に盧舎那仏の建立を始める。 | ||||
9月 4日 | 知太政官事鈴鹿王没。(父:天武天皇皇子高市皇子、母:天智天皇皇女御名部皇女、兄:長屋王) | ||||
11月 2日 | 玄昉、筑紫に左遷。大宰府観音寺の修築を命ぜられる。 | ||||
12月15日 | 恭仁宮の兵器を平城に運ぶ。 | ||||
天平18年 | 746 | 4月 5日 | 左大臣橘諸兄、大宰帥を兼ねる。藤原豊成を東海道、藤原仲麻呂を東山道、巨勢奈弖麻呂を北陸道・山陰道、大伴牛養を山陽道・西海道、紀麻呂を南海道の鎮撫使に任じる。 | 聖武天皇 | (左)橘諸兄 |
6月18日 | 配流先の筑紫にて玄昉没。藤原広嗣の怨霊によると伝えられる。 | ||||
6月21日 | 大伴家持、越中守に任じられる。 | ||||
9月 3日 | 伊勢斎王県女王、伊勢群行。 | ||||
9月29日 | 恭仁宮大極殿を山背国分寺に施入。 | ||||
閏9月 7日 | 無位塩焼王を本位正四位下に復位。 | ||||
10月 6日 | 聖武天皇・元正上皇・聖武天皇皇后藤原光明子、金鐘寺(=東大寺)に行幸。盧舎那仏を供養。 | ||||
10月19日 | 下道真備に吉備姓を賜う。 | ||||
12月10日 | 鎮撫使廃止。 | ||||
天平19年 | 747 | 2月22日 | 前年の旱害により飢饉が起る。大養徳国・河内国・摂津国・近江国・伊勢国・志摩国・丹波国・出雲国・播磨国・美作国・備前国・備中国・紀伊国・淡路国・讃岐国に賑恤。 | 聖武天皇 | (左)橘諸兄 |
3月16日 | 大養徳国の国名を元の大倭国に戻す。 | ||||
*この月、聖武天皇皇后藤原光明子、新薬師寺を建立。 | |||||
4月14日 | 紀伊国、疫病・旱害の為に賑恤。 | ||||
5月 5日 | 元正上皇、5月の節には菖蒲の鬘を用いて宮中に入る事を定める。 | ||||
5月18日 | 近江国飢饉の為、賑恤。 | ||||
7月 7日 | 平城京、旱害の為に田租を免除。 | ||||
9月29日 | 東大寺盧舎那仏(大仏)の鋳造が開始される。 | ||||
*この年、石山寺が建立。 | |||||
天平20年 | 748 | 4月21日 | 元正上皇逝去。(父:天武天皇皇太子草壁皇子、母:元明天皇、同母弟:文武天皇) | 聖武天皇 | (左)橘諸兄 |
4月28日 | 元正上皇を佐保山陵に火葬。 | ||||
6月 4日 | 聖武天皇夫人藤原南夫人没。(父:藤原武智麻呂) | ||||
7月30日 | 河内国・出雲国が飢饉、賑恤。 | ||||
8月 3日 | 近江国・播磨国が飢饉、賑給。 | ||||
天平21年 天平感宝 元年 天平勝宝 元年 | 749 | 1月14日 | 聖武天皇並びに皇后藤原光明子、大僧正行基を請じて受戒。 | 聖武天皇 孝謙天皇 | (左)橘諸兄 (右)藤原豊成 (749.4.14〜) |
2月 2日 | 大僧正行基没(82)。銅骨蔵器に葬る。 | ||||
2月21日 | 匿名の投書が多かった為、百官・大学生徒らを教戒。 | ||||
2月22日 | 陸奥国、黄金を献上。 | ||||
4月 1日 | 聖武天皇、東大寺に行幸。「三宝の奴」と称し大仏を拝する。陸奥国の黄金を奉納。 | ||||
4月14日 | 改元(天平感宝)。藤原豊成、右大臣に任じられる。 | ||||
閏5月11日 | 伊勢斎王県女王、父王の喪の為、退下。 | ||||
閏5月23日 | 聖武天皇、薬師寺の宮に還御。御座所となす。 | ||||
閏5月27日 | 大伴牛養没。 | ||||
7月 2日 | 聖武天皇、譲位。皇太子阿倍内親王(母:皇后藤原光明子)、受禅。大極殿にて即位。改元(天平勝宝)。 *孝謙天皇即位後(期日不明)、文武天皇皇太夫人藤原宮子は太皇太后に、聖武天皇皇后藤原光明子は皇太后となる。 | ||||
8月10日 | 藤原仲麻呂、紫微令を兼ねる。 | ||||
9月 6日 | 小宅女王、伊勢斎王に卜定。(父:三原王) | ||||
9月 7日 | 聖武天皇皇太后藤原光明子の為に紫微中台の官位を制定。 | ||||
10月24日 | 盧舎那仏本体の鋳造が終わる。 | ||||
12月18日 | 宇佐八幡大神が大仏鋳造の勅願を成就する為にこれを助けるとの託宣があり宇佐を出発の後、この日に入京。梨原宮に祀る。 | ||||
天平勝宝 2年 | 750 | 1月10日 | 吉備真備、筑前守に左降。藤原広嗣の逆魂の為と噂される。 | 孝謙天皇 | (左)橘諸兄 (右)藤原豊成 |
9月 1日 | 石上乙麻呂没。 | ||||
9月24日 | 藤原清河を遣唐大使に、大伴古麻呂を遣唐副使にそれぞれ任じる。 | ||||
10月18日 | 故元正天皇を奈保山陵に改葬。 | ||||
天平勝宝 3年 | 751 | 1月25日 | 天武天皇皇女多紀内親王没。(母:宍人(木穀)媛娘、第11代伊勢斎王) | 孝謙天皇 | (左)橘諸兄 (右)藤原豊成 |
6月——— | 前年12月より始まった盧舎那仏の螺髪966個の鋳造が終了する。 | ||||
10月23日 | 聖武天皇、不予。新薬師寺に四十九僧を講じ続命の法により設斎。 | ||||
11月 7日 | 吉備真備、遣唐副使に任じられる。 | ||||
*この月、「懐風藻」成立。 | |||||
天平勝宝 4年 | 752 | 1月25日 | 山口人麻呂、遣新羅使に任じられる。 | 孝謙天皇 | (左)橘諸兄 (右)藤原豊成 |
閏3月 9日 | 遣唐使に節刀を授ける。 | ||||
4月 9日 | 東大寺盧舎那仏開眼。孝謙天皇、藤原仲麻呂第(田村第)に行幸し御在所とする。 | ||||
6月14日 | 新羅の使王子金康廉ら朝貢。 | ||||
7月10日 | 三原王(父:天武天皇皇子舎人親王)没。伊勢斎王小宅女王、父王の喪の為、退下。 | ||||
8月17日 | 平城京の巫覡17人を捕縛。遠国に配流。 | ||||
9月24日 | 渤海使、越後国佐渡島に着く。 | ||||
11月 3日 | 佐渡国を元に復す。 | ||||
天平勝宝 5年 | 753 | 1月 1日 | 遣唐使(第10次)、唐の宮廷で新羅と席順を争い、上席につく。 | 孝謙天皇 | (左)橘諸兄 (右)藤原豊成 |
2月 9日 | 小野田守、遣新羅大使に任じられる。 | ||||
5月25日 | 渤海使朝貢。 | ||||
8月---- | 新羅国王、遣新羅大使小野田守に引見せず。 | ||||
11月15日 | 遣唐副使大伴古麻呂(第四船乗船)、唐僧鑑真を伴い、揚子江南岸を出発。 | ||||
11月21日 | 遣唐使船(第一船(大使藤原清河・阿倍仲麻呂ら乗船)・第二船)、阿児奈波(沖縄)に着く。 | ||||
12月 6日 | 南風が吹いた為、遣唐使船(第二船)は出航。 *第二船は以後行方不明となる。第一船は安南(ベトナム)に漂着するが現地人の襲撃により180名余りの乗船員のうち僅か10数名が生き残り、2年後長安に辿り着く。阿倍仲麻呂が亡くなったと思った李白は「哭晁卿衝」を作り、それを傷んだ。 | ||||
12月 7日 | 遣唐使船(第三船。副使吉備真備乗船)が益救嶋(屋久島)に着く。 | ||||
12月26日 | 鑑真、大宰府に入る。 | ||||
天平勝宝 6年 | 754 | 1月 5日 | 孝謙天皇、東大寺に行幸。灯二万を燃す。 | 孝謙天皇 | (左)橘諸兄 (右)藤原豊成 |
1月16日 | 遣唐使帰国。鑑真来朝。 | ||||
2月 4日 | 鑑真入京。 | ||||
4月---- | 鑑真、東大寺に戒壇を築き公認の受戒制度を確立。 | ||||
7月19日 | 文武天皇皇太后藤原宮子没。(父:藤原不比等、聖武天皇生母) | ||||
8月---- | 畿内及び十国に風雨、賑恤。 | ||||
10月14日 | 官人及び百姓の双六を禁じる。 | ||||
11月 1日 | 畿内七道に巡察使を任じる。 | ||||
11月27日 | 天平勝宝元年に出された宇佐八幡宮の神託が偽りであった為、禰宜尼大神杜女を日向に、大神多麻呂を多(ネ執)島に配流。 | ||||
天平勝宝 7年 | 755 | 1月 4日 | 唐の玄宗皇帝が「年」を「戴」と改めたのに倣い、「年」を「歳」に改め天平勝宝7歳とする。 | 孝謙天皇 | (左)橘諸兄 (右)藤原豊成 |
9月---- | 東大寺戒壇院建立。 | ||||
10月21日 | 聖武上皇不予。大赦が行われ貧窮老疾者に賑恤。 | ||||
11月 | 左大臣橘諸兄、飲酒の席での聖武上皇誹謗の言質を佐味宮守に密告される。上皇は不問にふす。 | ||||
*この月、唐で安禄山の乱が始まる。 | |||||
天平勝宝 8年 | 756 | 2月 2日 | 左大臣橘諸兄、上皇誹謗の責を負い、辞職。 | 孝謙天皇 | (左)橘諸兄 (〜756.2.2) (右)藤原豊成 |
4月14日 | 聖武上皇不予。大赦、賑恤。 | ||||
5月 2日 | 聖武上皇崩御(56)。意詔により道祖王立太子。(父:天武天皇皇子新田部親王) | ||||
5月19日 | 聖武上皇を仏式により佐保山陵に葬る。 | ||||
5月24日 | 鑑真と良弁を大僧都に任じる。 | ||||
6月21日 | 東大寺大仏殿に薬を置き、病人の救済にあてる。 | ||||
6月22日 | 聖武天皇の遺品を七七忌に東大寺や法隆寺の18寺に収める事が始まる(正倉院創立)。吉備真備に筑前国怡土城を築城させる。 | ||||
*この月、安南にて難破した遣唐大使藤原清河・阿倍仲麻呂ら長安に辿り着く。 | |||||
天平勝宝 9年 天平宝字 元年 | 757 | 1月 6日 | 前左大臣橘諸兄没(74)。 | 孝謙天皇 | (右)藤原豊成 (〜757.7.12) (紫微内相) 藤原仲麻呂 (757.5.20〜) |
3月29日 | 孝謙天皇皇太子道祖王、廃太子。(父:天武天皇皇子新田部親王) | ||||
4月 4日 | 大炊王立太子。(父:天武天皇皇子舎人親王、母:当麻山背) | ||||
5月 4日 | 大宮改修の為、孝謙天皇が藤原仲麻呂の田村第に行幸。 | ||||
5月20日 | 藤原仲麻呂、紫微内相に任じられ大臣と同格となる。養老律令施行。 | ||||
6月 9日 | 治安維持についての勅五条を制定。 | ||||
6月19日 | 伊勢大神宮幣帛使は中臣朝臣を用い、他姓は用いない事とする。 | ||||
6月28日 | 孝謙天皇、故橘諸兄の聖武天皇に対する不敬の言質につき佐伯美濃麻呂に詰問。同じく佐伯全成を召喚しようとし、聖武天皇皇太后藤原光明子に止められる。 山背王が橘奈良麻呂の行動に不穏なものがあると奏上。 | ||||
7月 2日 | 不穏な情勢に対し、孝謙天皇が諸官に詔を発す。ついで右大臣以下の群臣に聖武天皇皇太后藤原光明子が諭す。紫微内相藤原仲麻呂に、上道斐太都が小野東人を、巨勢堺麻呂が答本忠節をそれぞれ密告。逮捕。 | ||||
7月 3日 | 右大臣藤原豊成・藤原永手ら小野東人を詰問。紫微内相藤原仲麻呂、塩焼王・安宿王・黄文王・橘奈良麻呂・大伴古麻呂を召喚、皇太后の詔を伝え諭す。 | ||||
7月 4日 | 橘奈良麻呂の謀叛が発覚、関係者を獄す。黄文王(父:長屋王、名を多夫礼と改名)・孝謙天皇廃太子道祖王(父:天武天皇皇子新田部親王、名を麻度比と改名)・大伴古麻呂・多治比犢養・小野東人・賀茂角足(名を乃呂志と改名)ら、杖下に死す。安宿王(父:長屋王)とその妻子は佐渡に、佐伯大成は信濃国に、大伴古慈斐は土佐国に配流。佐伯全成、尋問の後自尽。橘奈良麻呂の変 | ||||
7月12日 | 右大臣藤原豊成、大宰員外帥に左降。 | ||||
8月 2日 | 山田御井比売嶋女、橘奈良麻呂の変に連坐し御母の称号と宿禰姓を剥奪。山田史に戻る。(孝謙天皇乳母か) | ||||
8月18日 | 改元(天平宝字)。 | ||||
8月23日 | 礼樂を興す為に公廨田を設置。 | ||||
8月25日 | 武芸を興す為に射騎田を設置。 | ||||
閏8月18日 | 聖武天皇夫人橘古那可智、広岡朝臣姓を賜う。(父:橘佐為) | ||||
天平宝字 2年 | 758 | 1月 5日 | 問民苦使を八道に派遣。 | 孝謙天皇 淳仁天皇 | (紫微内相) 藤原仲麻呂 (〜758.8.25) (大保)恵美押勝 (758.8.25〜) |
2月20日 | 乱を未然に防ぐ為、飲酒集会を禁止。 | ||||
6月16日 | 大伴家持、因幡守に左遷。 | ||||
8月 1日 | 孝謙天皇譲位。皇太子大炊王即位。(淳仁天皇) | ||||
8月 9日 | 聖武天皇の尊号を勝宝感神聖武皇帝(諡号:天璽国押開豊桜彦尊)、天武天皇皇太子草壁皇子の尊号を岡宮御宇天皇とそれぞれ追贈。 | ||||
8月19日 | 淳仁天皇皇女安倍内親王(=山於女王?)、伊勢斎王に卜定。 | ||||
8月25日 | 藤原仲麻呂に「大保」(右大臣)に任じ、「恵美押勝」の名、功封、功田を与え鋳銭・挙稲の権利を許可。 | ||||
9月18日 | 遣新羅大使小野田守、渤海使と共に帰国。 | ||||
10月25日 | 国司交替を4年から6年に改正。巡察使の派遣は3年毎とする。 | ||||
12月10日 | 遣新羅大使小野田守、唐の安禄山の乱と史思明の乱(755年〜763年)を奏上するにあたり、大宰府に命じ安禄山の乱に備える。 *安禄山は既に殺害されているも、小野田守はその情報を得ないまま帰国していた | ||||
12月24日 | 渤海使入京。 | ||||
天平宝字 3年 | 759 | 1月 1日 | 因幡国政庁において大伴家持、「万葉集」の最後の歌を詠む。 | 淳仁天皇 | (大保)恵美押勝 |
1月 3日 | 渤海使朝貢。 | ||||
1月21日 | 多治比広足没(80)。 | ||||
2月16日 | 迎人唐大使使高元度、渤海使に従い渡海。安禄山の乱の為に帰国出来ない遣唐大使藤原清河を迎える為。 | ||||
5月 9日 | 百官に、政事についての意見を求める。常平倉を設置し、常平倉を掌握する為に左右平準署を置く。 | ||||
6月16日 | 舎人親王夫人当麻山背、大夫人となる。(淳仁天皇生母) | ||||
6月18日 | 大宰府に行軍式を造らせ、新羅征討の準備をすすめる。 | ||||
7月 5日 | 聖武天皇夫人広岡古那可智没。(父:橘佐為、号:橘少夫人) | ||||
8月 3日 | 鑑真、唐招提寺を建立。 | ||||
8月 6日 | 大宰帥船親王(父:天武天皇皇子舎人親王)、香椎廟に新羅征討を奏上。 | ||||
9月26日 | 出羽国雄勝・平鹿の二郡と陸奥国に七駅を置く。 | ||||
11月16日 | 近江国保良宮を造営。 | ||||
12月 2日 | 授刀衛を設置。 | ||||
天平宝字 4年 | 760 | 1月 4日 | 大保恵美押勝、太師(太政大臣)に任じられる。 | 淳仁天皇 | (太師)恵美押勝 (760.1.4〜) (大保)恵美押勝 (〜760.1.4) |
1月 5日 | 渤海使朝貢。遣唐大使藤原清河が帰国しない事を奏上。(高元度による帰国要請を、安禄山の乱などを理由に唐皇帝玄宗が承知しなかった為) | ||||
1月21日 | 巡察使を七道に派遣し民俗を観察し校田させる。 | ||||
1月29日 | 聖武天皇夫人藤原北夫人没。(父:藤原房前) | ||||
3月26日 | 上野国で飢饉、伊勢国・近江国・美濃国・若狭国・伯耆国・石見国・播磨国・備中国・備後国・安芸国・周防国・紀伊国・淡路国・讃岐国・伊予国ら疫病の為、賑給。 | ||||
6月 7日 | 聖武天皇皇太后藤原光明子没(60)。(父:藤原不比等、孝謙天皇生母) | ||||
8月 7日 | 故藤原武智麻呂・故藤原房前に太政大臣を追贈。 | ||||
9月16日 | 新羅使来朝。天平勝宝5年の折の遣新羅大使小野田守に対する新羅の対応の無礼などを責め、追い返す。 | ||||
11月10日 | 官人を大宰府に派遣。吉備真備に就いて兵法を習わせる。 | ||||
12月22日 | 薬師寺の僧華達、博戯で争い人を殺害。還俗させ桃生柵戸に流す。 | ||||
天平宝字 5年 | 761 | 1月 9日 | 新羅征討の為に、美濃国・武蔵国の少年各20人に新羅語を習わせる。 | 淳仁天皇 | (太師)恵美押勝 |
3月29日 | 東大寺の薬を疫者に施す。 | ||||
7月 2日 | 大隈国・薩摩国を除く西海道七国に、不慮に備えるためとして甲刀弓箭を作らせる。 | ||||
8月 2日 | 淳仁天皇と孝謙上皇、薬師寺に行幸。後、藤原御楯の宅にて宴。(8月12日とも) | ||||
8月12日 | 迎入唐使使高元度、遣唐大使藤原清河を伴わないまま帰国。 | ||||
9月---- | 伊勢斎王安倍内親王、伊勢群行。 | ||||
10月10日 | 安芸国にて遣唐使船の造船が始まる(しかし、一船の難破によりこの年の遣唐使は中止となる)。先迎入唐使使高元度の伝えた唐皇帝玄宗の要請により、東海・東山・北陸道諸国に牛角(弓を作る為)を貢上させる。 | ||||
10月13日 | 淳仁天皇、近江保良宮に行幸。 | ||||
10月22日 | 仲石伴を遣唐大使に、石上宅嗣を遣唐副使に、高麗大山を遣高麗(渤海)使に任じる。 | ||||
10月28日 | 淳仁天皇、平城宮改造の為に暫し近江保良宮に滞在。 | ||||
11月17日 | 恵美朝狩を東海道(含東山道一部)、百済王敬福を南海道(含山陽道)、吉備真備を西海道の節度使に任じる。船・兵士を検定し、三年間の田租を免じ、軍事教練し、武器を造らせる。 | ||||
天平宝字 6年 | 762 | 2月 2日 | 太師恵美押勝を正一位に叙す。 | 淳仁天皇 | (太師)恵美押勝 |
2月12日 | 健児の制を復活。 | ||||
2月25日 | 恵美押勝に近江国浅井・高島ニ郡の鉄穴各一処を賜う。 | ||||
3月29日 | 三河国・尾張国・遠江国・下総国・美濃国・能登国・備中国・備後・讃岐、旱害。 | ||||
4月 9日 | 遠江国飢饉、賑給。 | ||||
4月14日 | 尾張国飢饉、賑給。 | ||||
5月 4日 | 京師及び畿内飢饉、賑給。 | ||||
5月 9日 | 美濃国・飛騨国・信濃国、地震。石見国飢饉、賑給。 | ||||
5月11日 | 備前国飢饉、賑給。 | ||||
5月23日 | 孝謙上皇と淳仁天皇が対立。車駕、平城に還る。 | ||||
6月 3日 | 孝謙上皇、国家の大事と賞罰の決定を自ら行う旨を表意。尾張国飢饉、賑給。 | ||||
6月23日 | 藤原宇比良古没。(父:藤原房前、夫:恵美押勝、袁比良とも呼ばれる) | ||||
7月---- | *この月、送唐人使中臣鷹主ら、渡海出来ず。 *この月、近江国石山寺建立。 | ||||
10月 1日 | 渤海使、越前国に漂着。 | ||||
10月14日 | 聖武天皇夫人県犬養広刀自没。(父:県犬養唐、子:光仁天皇皇后井上内親王・不破内親王・安積親王) | ||||
11月 1日 | 多治比小耳を送渤海客使に任じる。 | ||||
11月16日 | 藤原巨勢麻呂、新羅征討軍を調練する為筑紫香椎宮に奉幣。 | ||||
天平宝字 7年 | 763 | 1月 3日 | 渤海使朝貢。 | 淳仁天皇 | (太師)恵美押勝 |
2月10日 | 新羅使朝貢。違約を責める。 | ||||
5月 6日 | 大和上鑑真、端座しながら没(77)。 | ||||
8月18日 | 儀鳳暦を廃止。大衍暦を用いる。 | ||||
9月 4日 | 少僧都慈訓を解任し道鏡を任命する。 | ||||
10月17日 | 藤原弟貞没。(父:長屋王、母:藤原長娥子) | ||||
*この年、諸国に疫病・飢饉。賑給する。 *唐の安史の乱が終結。 | |||||
天平宝字 8年 | 764 | 1月21日 | 吉備真備、造東大寺長官に任じられる。 | 淳仁天皇 称徳天皇 | (太師)恵美押勝 (〜764.9.18) (右)藤原豊成 (765.9.14〜) (大臣禅師)道鏡 (764.9.20〜) |
3月14日 | 摂津国飢饉、賑給。 | ||||
6月 9日 | 藤原御楯没。 | ||||
7月17日 | 東海道節度使を廃止。 | ||||
7月19日 | 新羅使、博多に来朝。 | ||||
8月14日 | 大和国・河内国・山背国・近江国に池を築かせる。 | ||||
9月 2日 | 恵美押勝、都督四畿内・三関・近江・丹波・播磨の国の兵事使となり、武力を掌握。 | ||||
9月 4日 | 文室浄三(父:天武天皇皇子長親王)が老齢の為、政界を引退する。淳仁天皇、肘掛・杖・新銭十万文を賜う。 | ||||
9月11日 | 太師恵美押勝の謀叛発覚。孝謙上皇は中宮院の駅鈴と内印を回収、恵美押勝らの官位と藤原姓を剥奪し職分・功封からの雑物を没収。恵美押勝、近江国に走り氷上塩焼を帝に擁立。 | ||||
9月14日 | 前右大臣藤原豊成を再び右大臣に任じる。 | ||||
9月18日 | 近江国琵琶湖船上にて太師恵美押勝(59)(元名:藤原仲麻呂)、偽帝氷上塩焼(父:天武天皇皇子新田部親王、正妃:聖武天皇皇女不破内親王、元名:塩焼王)、斬殺。 | ||||
9月20日 | 道鏡、大臣禅師に任じられる。 | ||||
9月22日 | 故藤原仲麻呂の改めた官名を旧に復す。 | ||||
10月 2日 | 放鷹司を廃止し放生司を設置。 | ||||
10月 9日 | 淳仁天皇を廃し淡路に配流。生母大夫人当麻山背、配流。淳仁天皇の兄弟にあたる船王を隠岐国へ、池田王を土佐国に配流。孝謙上皇重祚(称徳天皇)。伊勢斎王安倍内親王、退下。 | ||||
11月12日 | 西海道節度使を廃止。 | ||||
*この年、西国を中心に飢饉。賑給。 | |||||
天平宝字 9年 天平神護 元年 | 765 | 2月 3日 | 授刀衛を近衛府と改め、外衛府の官員を定め、初めて内厩寮を設置。 | 称徳天皇 | (太政大臣禅師) 道鏡 (765.閏10.2〜) (右)藤原豊成 (〜765.11.27) (大臣禅師)道鏡 (〜765.閏10.2) |
2月14日 | 国司に対し淳仁天皇の監視を厳しくする勅。 | ||||
*この月、京師の米価沸騰。西海道諸国の私米の自由運搬を許す。 | |||||
3月 5日 | 王臣の兵器私蔵を禁止。 | ||||
3月10日 | 左右京が飢饉、賑給。 | ||||
8月 1日 | 和気王、謀叛により伊豆国配流の途上の山城国相楽郡にて絞殺。巫鬼紀益女、綴喜郡松井村にて絞殺。 | ||||
9月 1日 | 新銭神功開宝を鋳造。 | ||||
10月13日 | 称徳天皇、紀伊国行幸。 | ||||
10月22日 | 淳仁天皇、配所からの脱出を目論むも失敗し、翌日崩御(33)。明治3年7月23日に諡号が追贈されるまでは淡路親王、淡路公、淡路廃帝などと呼ばれる事になる。 | ||||
10月30日 | 称徳天皇、河内国弓削寺に行幸。 | ||||
閏10月 2日 | 大臣禅師道鏡、太政大臣禅師に任じられる。 | ||||
11月27日 | 右大臣藤原豊成没(62)。 | ||||
*この年、諸国が飢饉に見舞われる。 *この年、西大寺建立。 | |||||
天平神護 2年 | 766 | 1月 8日 | 藤原永手は右大臣に、白壁王・藤原真楯は大納言に任じられる。 | 称徳天皇 | (法王)道鏡 (766.10.20〜) (太政大臣禅師) 道鏡 (〜766.10.20) (左)藤原永手 (766.10.20〜) (右)藤原永手 (766.1.8〜10.20) (右)吉備真備 (766.10.20〜) |
3月12日 | 藤原真楯没(52)。(元名:藤原八束) | ||||
4月 8日 | 大宰府、東国兵士を防人として復活させる事を要請。 | ||||
4月15日 | 和泉国飢饉、賑給。 | ||||
4月30日 | 聖武天皇の皇子と称する男子を遠流。 | ||||
7月12日 | 円興、大僧都に任じられる。 | ||||
9月23日 | 五畿内六道の巡察使を任じる。西海道は大宰府に勘検させる。 | ||||
10月20日 | 太政大臣禅師道鏡を法王に、右大臣藤原永手を左大臣に、吉備真備を右大臣に任じる。また大僧都円興を法臣、基真を法参議に任じる。 | ||||
天平神護 3年 神護景雲 元年 | 767 | 1月 8日 | 諸国の国分寺で吉祥天悔過之法を行う。 | 称徳天皇 | (法王)道鏡 (左)藤原永手 (右)吉備真備 |
2月17日 | 山背国飢饉、賑給。 | ||||
3月20日 | 法王宮職を設置。 | ||||
4月14日 | 東院の玉殿完成。瑠璃瓦を葺き、時の人は玉宮という。 | ||||
7月10日 | 内竪省を設置。 | ||||
8月16日 | 改元(神護景雲) | ||||
10月15日 | 陸奥国伊治城完成。 | ||||
神護景雲 2年 | 768 | 2月18日 | 弓削浄人、大納言となる。 | 称徳天皇 | (法王)道鏡 (左)藤原永手 (右)吉備真備 |
2月28日 | 筑前国怡土城完成。 | ||||
7月30日 | 孔子を尊び、孔宣父を改めて文宣王と号す。 | ||||
神護景雲 3年 | 769 | 1月 3日 | 法王道鏡に大臣以下が賀拝。 | 称徳天皇 | (法王)道鏡 (左)藤原永手 (右)吉備真備 |
5月25日 | 称徳天皇呪詛の罪により聖武天皇皇女不破内親王、厨真人厨女として京外追放。子の氷上志計志麻呂、土佐国に配流。 | ||||
5月29日 | 県犬養姉女、巫蠱の罪により犬部姉女に名を改められ、配流。 | ||||
7月10日 | 法王官職の印を初めて使用。 | ||||
9月25日 | 宇佐八幡宮の神託を伝えた一件により輔治能清麻呂は別部穢麻呂と名を改めさせられ大隈国に配流。姉・法均は別部広虫売と名を改めさせられ備後国に配流。 | ||||
10月 1日 | 諸臣を教戒。 | ||||
10月10日 | 大宰府に「史記」「漢書」「後漢書」「三国志」「晋書」各一部を賜う。 | ||||
10月15日 | 称徳天皇、飽浪宮に行幸。 | ||||
10月17日 | 称徳天皇、河内国由義宮に行幸。 | ||||
10月30日 | 河内国由義宮を西京とする。 | ||||
11月12日 | 新羅使来朝。 | ||||
12月 9日 | 使を大宰府に遣わし、新羅使入朝の理由を問う。 |
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