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〜王城年代記・平安京前期[5]〜

元号西暦出来事当帝大臣
元慶 5年8811月 6日文徳天皇皇女慧子内親王没。(母:藤原列子。第4代賀茂斎王)陽成天皇太政)藤原基経
(関白)藤原基経
(左)源融
1月27日大雪。深夜に京東にて火災。
5月11日山陽・南海の二道諸国に海賊を追捕させる。
5月13日山城・摂津・播磨諸国の海賊を追捕させる。
10月13日所司に平城天皇皇子真如法親王が羅越国にて没した事を伝える。(母:伊勢継子。嵯峨廃太子)
*この年、在原行平が奨学院を創始。
元慶 6年8821月 1日陽成天皇元服。陽成天皇(関白)藤原基経
太政)藤原基経
(左)源融
(右)源多
(882.1〜)
1月 7日文徳天皇皇太后藤原明子が太皇太后に、清和上皇皇太夫人藤原高子が皇太后となる。
1月25日嵯峨天皇皇女源全姫没(71)。(母:女嬬当麻治田麻呂女、同母姉:源潔姫)
2月 1日関白太政大臣藤原藤原基経、准三宮となる。
4月 2日陽成天皇皇女掲子内親王、伊勢斎王に卜定。(母:藤原今子)
4月 9日穆子女王、賀茂斎王に卜定。父:仁明天皇皇子時康親王(後の光孝天皇)、母:正躬王女)
6月 3日僧正遍照、僧綱などに関して七条を起請。
8月 5日平城天皇皇子巨勢親王没。(母:伊勢継子。同母兄:高丘親王)
8月29日日本紀竟宴を催す。
11月14日加賀国に渤海使漂着。
11月26日加賀国に漂着した渤海使との私交易禁止。
12月21日葛野郡嵯峨野での狩猟禁止。
元慶 7年8831月26日渤海使入京に際し、山城・近江・越前に官舎・道橋の修理、路辺の屍骸処理を命じる。陽成天皇(関白)藤原基経
(太政)藤原基経
(左)源融
(右)源多
2月 9日上総国市原郡で俘囚叛乱。
5月 2日渤海使、朝貢。
8月 2日建礼門前大祓。
11月16日新嘗祭中止。建礼門前大祓。
元慶 8年8842月 4日陽成天皇、譲位。陽成天皇
光孝天皇
(関白)藤原基経
(太政)藤原基経

(左)源融
(右)源多
2月 5日仁明天皇皇子時康親王受禅。(母:藤原沢子)
2月13日伊勢斎王掲子内親王、野宮より退下(伊勢群行遂げず)。
2月23日皇太子時康親王、即位。(光孝天皇)。
3月22日光孝天皇皇女繁子、伊勢斎王卜定。(母:滋野直子?)
4月 1日光孝天皇、班子女王を女御とする。(父:桓武天皇皇子仲野親王、母:当麻氏、宇多天皇生母)
4月 9日伊勢斎王繁子、賀茂斎王穆子女王、内親王宣下。
6月5日百事はまず太政大臣藤原基経に諮問して後奏聞する事とする。(『三代実録』)
9月16日近江・丹波両国に高瀬舟各三艘を作らせ、神泉苑に送らせる。
9月20日淳和天皇皇子恒貞親王没(60)。(母:嵯峨天皇皇女正子内親王、仁明廃太子)
元慶 9年
仁和元年
8851月17日参議以下の貂裘着用を禁止。光孝天皇(関白)藤原基経
(太政)藤原基経

(左)源融
(右)源多
2月18日左京で火災。三百余を焼失。
2月21日改元(仁和)。
4月 2日淳和天皇皇女氏子内親王没。(母:桓武天皇皇女高志内親王、第27代伊勢斎王)
4月12日肥後国天草に新羅使徐善行らが来着。これを放逐。
10月20日大宰府に来着した唐商人との私交易を禁じる。
11月21日出羽国秋田城中・飽海郡神宮寺西浜に石鏃が降る。
12月27日右京二条で火災。二百余家を焼く。
仁和 2年8861月 2日藤原時平、仁寿殿にて元服。光孝天皇、加冠。光孝天皇(関白)藤原基経
(太政)藤原基経

(左)源融
(右)源多
3月13日東寺の新造塔に落雷焼失。
4月 7日菅原道真、讃岐国守に着任。
6月21日伊勢斎王の群行路を近江新道(阿須波道)に改める。
6月29日桓武天皇皇女紀内親王没(88)。(母:藤原河子、同母兄:仲野親王)
8月12日右京衛士坊舎で火災。民家百余家を焼失。
9月 4日伊勢斎王繁子内親王の禊の為、大蔵省が葛野川辺に幄を建てるも、雷雨によって裂かれる。
9月 5日伊勢斎王繁子内親王、禊を中止する。
9月 7日伊勢斎王の群行を9日に定めるも、穢れあって延期。
9月23日伊勢斎王繁子内親王、禊。
9月27日伊勢斎王繁子内親王、伊勢群行。
9月30日伊勢斎宮鈴鹿頓宮にて火災。斎王繁子内親王、頓宮を出、借家を寝殿とする。
仁和 3年8874月13日諸国の貢調絹が粗悪な為、調物検校官を左遷。光孝天皇
宇多天皇
(関白)藤原基経
(太政)藤原基経

(左)源融
(右)源多
5月14日韓(唐)橋に初めて橋守を2人設置。
5月20日出羽国府の移転建築を許す。
6月 2日貢調絹の粗悪状態に、旧様絹を模範とさせる。
7月30日諸国に地震。
8月26日光孝天皇不予。第7皇子源定省立太子。光孝天皇崩御(58)、皇太子定省親王践祚。
11月11日光孝上皇女御班子内親王、皇太夫人となる。(宇多天皇生母)
11月17日皇太子定省親王、即位。(宇多天皇)
閏11月 5日諒闇の為、淡路国の御贄を停止。
仁和 4年8882月 4日藤原山陰没(65)。宇多天皇(関白)藤原基経
(太政)藤原基経
(左)源融
(右)源多
(〜888.10)
3月18日在原行平、奨学院を学館とする事を請う。
5月 8日信濃国で大洪水。
6月 1日宇多天皇、橘広相と藤原佐世らに「阿衡の義」を対論させる。
6月 2日関白太政大臣藤原基経を関白とする宣命を下す。阿衡事件
8月17日仁和寺創建。
9月15日宇多天皇、巨勢金岡に弘仁以後の文人像を御所の障子に描かせる。
10月15日「阿衡の任」起草者・橘広相の罪を糺す。
10月17日右大臣源多没(58)。
仁和5年
寛平元年
8891月24日嵯峨天皇皇女仁子内親王没。(母:大原浄子。第27代伊勢斎王)宇多天皇(関白)藤原基経
(太政)藤原基経
(左)源融
2月16日元子女王、伊勢斎王卜定。(父:仁明天皇皇子本康親王)
2月27日直子女王、賀茂斎王卜定。(父:文徳天皇皇子惟彦親王)
4月27日改元(寛平)
*この月、東国に賊徒物部氏が蜂起。
5月13日高望王ら5人に平姓を賜う。(賜姓桓武平氏)
6月---−霧雨・洪水による飢餓。
7月24日信濃国より食人鬼が洛中に入るとの妖言があった。
11月21日賀茂上下社の臨時祭を初めて催す。
12月28日宇多天皇皇子維城(母:藤原胤子)と斉世(母:橘御義子)に親王宣下。
寛平 2年8901月19日僧正遍照没(75)。(元名:良岑宗貞)宇多天皇(関白)藤原基経
(太政)藤原基経
(左)源融
4月28日寛平大宝を鋳造。
5月16日橘広相没(53)。
5月23日藤原冬緒没(83)。
*この年の春、菅原道真、任期を終え帰京。
10月30日修理左右坊城使を修理式に合併。病により関白太政大臣藤原基経に度者を賜い、大赦を行う。
11月13日修理職を木工寮に合併。
*この年、橘広相に蔵人式を撰ばせる。
*この年、宇多天皇御記記述終了。
寛平 3年8911月13日関白太政大臣藤原基経没(56)。宇多天皇(関白)藤原基経
(〜891.1)
(太政)藤原基経
(〜891.11)
(左)源融
(右)藤原良世
(891.3〜)
2月29日菅原道真、蔵人頭に任じられる。
3月 2日長門国に大風雨。官舎などが倒壊。
6月17日国司の許可無く諸院・諸宮・諸家使が諸国に入部する事を禁じる。
7月 7日宮城付近に連日火災発生。
9月 1日伊勢斎王元子女王、伊勢群行。
寛平 4年8921月 8日渤海人、出雲国に漂着。宇多天皇(左)源融
(右)藤原良世
5月 1日源能有らに「日本三代実録」を編修させる。
5月10日菅原道真ら「類聚国史」撰修。
6月24日渤海国に勅書を賜う。
7月19日造橋所を廃止、穀倉院に合併。
寛平 5年8933月---−在唐の僧・中權、唐国の衰退を報告。宇多天皇(左)源融
(右)藤原良世
4月 2日宇多天皇皇子敦仁親王、立太子。(母:藤原胤子)
5月11日新羅の賊徒が肥前松浦郡・肥後飽田郡に来襲。
5月19日藤原高経没。
7月19日在原行平没(76)。
9月25日菅原道真、「新撰万葉集」を撰修。
寛平 6年8942月---−藤原佐世、陸奥多賀国府にて「古今集註孝経」を書写。宇多天皇(左)源融
(右)藤原良世
4月14日新羅の海賊が対馬島に来襲。大宰府はこれを迎え討つ。
4月25日大江千里、古今和歌百二十首撰修。
5月12日貴賎を問わず諸人の乗車を禁じる。
8月21日菅原道真、遣唐大使に任命される。
9月17日対馬守文室善友らが新羅の賊を破る。
9月18日諸国の検非違使の任期を定める。
9月30日菅原道真の建言により遣唐使を廃止する。
10月 5日右検非違使庁を設置。
10月 6日大宰府、新羅賊船の退却を報告。
11月30日検非違使に大井・与度・山崎・大津を巡回させる。
12月29日渤海使、伯耆国に来着。
寛平 7年8951月23日嵯峨天皇皇子秀良親王没(79)。宇多天皇(左)源融
(〜895.8)
(右)藤原良世
3月13日新羅の賊に備え、博多津警固所に夷俘五十人を増置。
3月22日王臣・諸家の私出挙を禁じる。
4月21日藤原保則没(71)。
6月20日藤原諸葛没(70)。
8月 5日「大安寺縁起」進上。
8月17日六位以下の乗車を禁じる。
8月25日嵯峨天皇皇子左大臣源融没(74)。
9月27日大宰府、新羅の賊による壱岐島来襲を報告。
12月22日検非違使の職掌・誣告人半坐の制を制定。
寛平 8年896閏1月17日左右看督・近衛に旬ごと施薬院・左右悲田院の病人・孤児jを巡検させる。宇多天皇(左)藤原良世
(896.7〜12)
(右)藤原良世
(〜896.7)
(右)源能有
(896.7〜)
閏1月25日宇多天皇、朱雀院に行幸。諸工の造作を見る。
4月 2日五位以上の私営田禁止。百姓による荒田開墾規制を緩和。
4月13日鴨川堤での耕作を許す。
6月30日宇多天皇女御藤原胤子没(21)。生家を勧修寺とする。
7月 5日菅原道真、検税使の可否につき奏上。
9月 5日阿波国名方郡を名東・名西に分割。
9月22日清和上皇皇太后藤原高子廃后。僧・善祐、伊豆配流。
寛平 9年8971月25日諸国より貢進する采女の数を定める。宇多天皇
醍醐天皇
(右)源能有
(〜897.6)
2月20日文徳天皇皇子惟喬親王没(54)。(母:紀静子)
3月19日伊勢斎王元子女王、退下。
5月26日諸国に桑・漆を植樹。
6月 8日右大臣源能有没(53)。
7月 3日卯二刻皇太子敦仁親王、元服。午後宇多天皇、譲位。寛平御遺誡。
7月13日皇太子敦仁親王、即位。(醍醐天皇)
7月26日宇多上皇女御藤原温子(父:藤原基経、醍醐天皇養母)が皇太夫人に、光孝上皇皇太夫人班子女王が皇太后となる。
8月13日伊勢大神宮奉幣。宇多天皇皇女柔子内親王の伊勢斎王卜定を奉告。(母:藤原胤子)
11月21日文徳天皇皇女述子内親王没。(母:紀静子、第5代賀茂斎王)
12月23日初めて弘仁以後7代源氏年爵の次第を制定。
*この年、藤原佐世没。
*寛平年間中、初めて滝口武士設置。菊合の催し。
寛平10年
昌泰元年
8982月28日紀長谷雄、醍醐天皇に群書治要を講じる。醍醐天皇(欠官)
3月15日仁明天皇皇子国康親王没。(母:藤原賀登子)
4月26日改元(昌泰)
9月18日菅原道真の真言により納言を外記政に参与させる。
10月20日宇多上皇、大和・河内・摂津などに行幸。
昌泰 2年8992月 1日1月より京畿に群盗横行。四衛府官人に巡察を命じる。醍醐天皇(左)藤原時平
(899.2〜)
(右)菅原道真
(899.2〜)
2月13日左右検非違使に野宮の群盗を捜索させる。
2月14日藤原時平を左大臣、菅原道真を右大臣に任じる。
5月 2日藤原明子没(73)。
5月 6日醍醐天皇、武徳殿で雑芸を見る。
6月 4日結保帳により左右京職が京中を巡察。
9月 8日伊勢斎王柔子内親王、伊勢群行。
9月19日(イ就)馬の党(しゅうばのとう。人偏に「就」をあてる。運送業者の意)と呼ばれる群盗が横行。相模国足柄峠・上野国碓氷峠に関所を設ける。
10月24日宇多上皇、仁和寺にて落飾。
11月24日宇多法皇、東大寺にて受戒。
昌泰 3年9003月12日藤原高藤没(63)。醍醐天皇(左)藤原時平
(右)菅原道真
4月 1日光孝上皇皇太后班子女王没(68)。(父:桓武天皇皇子仲野親王、宇多天皇生母)
5月28日上野国の群盗を追捕。
7月20日文徳天皇皇女晏子内親王没。(母:藤原列子。第30代伊勢斎王)
*この月、宇多法皇、大和国金峯山に御幸。
8月16日右大臣菅原道真、三代家集(菅家集・菅相公集・菅家文章)を献上。
9月---−奨学院を大学寮南曹とする。
10月----宇多法皇、高野山・竹生島の御幸。
11月18日前左大臣藤原良世没(77)。
*この年、武蔵国に強盗蜂起。
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