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≪当時の想い出≫
1981年8月15日〜20日 |
1回目のひとり旅から丸1年が経過した。親のスネばかりかじってもいられないので、 バイトも始めた。バイト代で2回目の旅費を捻出した。 そして、1年前に誓った今回の目的地は広島。長崎で全身震えるような衝撃を受け たのは、被ばくに関する様々な資料、写真でした。PINEの両親は戦前の生まれで、 戦中、戦後の辛さ、惨めさについてはよく聴いておりました。しかし実際に戦争の傷 跡を目の当たりにし、更に後遺症に悩まされ怯えている人が現在も病と闘っていると 聞き、当り前の様に享受していた『平和』の大切さを痛感しました。 長崎、広島での見聞が、現在のPINEの様々なものの考え方の原点になっているよ うな気がします。 さて、今回の旅は大阪を中継点として、関西地区の車両の撮影も目的のひとつでし た。出来映えが芳しくなかったため、HPへの画像のUPは少なくなってしまいました が、手許には数十枚の写真が残っています。 大阪を中継点にしたのは、多客期で「銀河」しかブルトレのチケットを入手できなかっ た為でもあります(往復銀河利用)。 しかし、20系の52cmB寝台は拷問としか思えない狭さでした。寝返りがうてないの には参りました。20系への乗車はこれが最初で最後になったので、今にして思えば いい想い出ではありますが。 更に、復路ではA寝台に乗車した。お金を稼ぐ辛さが身に染みている現在では、とて もこんな贅沢は出来ない。ふざけたガキである>自分。 これ以降、寝台車を使った旅は、1989年の「北斗星」まで封印される。旅費が安く あがるような計画に、満足を感じるようになったからです。当然、宿泊費を浮かすた めに、夜行急行の自由席や各停の利用が増えていく。 遠征その3 へ続く。 |
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