このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
日高と天皇
第3回 陸軍飛行学校
高麗川駅到着後の様子は横田八郎氏の著書、「ふるさとの記憶」に詳しい。また翌日の読売新聞夕刊には「聖上・荒鷲機の演習を天覧 高萩飛行場にて謹寫」と大きな見出しと写真(昭和天皇および秩父宮、側近達がヒナ段の上で飛行機編隊飛行を見揚げている情景)が掲載されている。横田氏のコメントでは「演習」ではなく、「卒業飛行」である。天皇は軍服であり、もちろん周囲の側近も軍服・軍帽である。全員ひざまでの革長靴(ブーツ)で腰にはサーベルをぶら下げている。見上げる飛行機は双発の5機編隊である。この飛行機はたぶん99式高等練習機か一式双発練習機ではないか。豊岡航空仕官学校(修武台)から飛んできたのであろう。当時の航空士官学校高萩分校が所有する練習機は型式が(キ八六)と思われる。なぜかというと「日高の歴史散歩−日高町教育委員会編」には「赤トンボ」がひらひらと飛んでいた、との記述があり、ユングマンとも記されている。
ユングマンとはドイツ語で青年や若い男という意味で、ドイツのビュッカー社の複葉練習機の型式名に使われている。1934年(昭和9年)に原型機が初飛行した。(Jungumann)は当時の代表的な練習機で、姉妹機としてユングマイスター(若先生)がある。日本では昭和13年にイギリス商会が両機を輸入して陸軍の試用に供した。陸軍・海軍ともに正式採用し国産化している。海軍は「二式陸上初歩練習機紅葉」陸軍は「四式基本練習機(キ八六)」と命名されている。陸軍は1943年時点で1030機を製造している。なお海軍は277機製造した。海軍は別に複葉の「九三式中間練習機」を5591機生産している。(戦略爆撃の思想)この高萩での練習機の最後の顛末は先に紹介した横田氏の本に詳しい。陸軍航空士官学校豊岡本校・高萩分教場をとりまく話題は次回以降に紹介したいが、現在の入間航空祭で行われる戦闘機の曲芸飛行と同じような特殊飛行宙返り、上昇反転、急横転、上昇急横転宙返り、などが九一式戦闘機で披露されたとある。(読売新聞S14/4/28版)
東条は昭和天皇からは統制派と見られ、近衛らの皇道派よりもより近しく天皇は東条に心を許していたのではないか。皇道派は天皇制(国体)護持のためには天皇個人に問題ありと考えれば、それを挿げ替えるという主義であった。すべてにわたって天皇の意を受けて行動する東条に昭和天皇は大きな信頼を置いていたのである。(東条英機と軍部独裁)天皇より先に高萩に向かった東条は卒業式での講話草稿に目を通しつつ、拡大する陸軍航空戦力の今後を考えていた。それより先4年前、昭和10年ごろには列強が競って航空兵力を増強し始めていたため、日本においてもその機運は高まっていた。昭和12年7月7日、蘆構橋で日支事変が勃発したのち軍は各地に航空士官学校や飛行場を拡大していた。昭和13年10月10日、天皇裕仁は開設されたばかりの熊谷陸軍飛行学校(現航空自衛隊熊谷教育隊)へ行幸し、飛行機操縦教育を視察している。その後埼玉県坂戸、高萩、狭山、松山に飛行場が開設されている(昭和史の埼玉−史の会)。高萩飛行場での演習後、昭和天皇は豊岡台の学校へ向かい、校庭での卒業式における証書授与(東條総監より)に立ち会い、東條総監の講話を聞いた後宮城への帰途についている。(読売新聞S14/4/28版)
中国戦線は拡大しており、航空戦力は都市攻撃を補完する段階から戦略的攻撃力に比重が移っており、航空兵力の増強は急務であった。高性能の軍用飛行機の生産、飛行場開設、将校学生、下士官学生、少年飛行兵、特別操縦見習士官など多種に渡り、その数も急速に増加していた。昭和14年の時点ではまだ防空の備えは都市部に限られていたから、移動するお召し列車にはまだ対空防空装備は備えていなかった。しかし昭和14年9月に第二次世界大戦が始まり15年に入ると、対空防衛用に高射砲搭載車を連結するようになっていた。日本はすでに昭和6年に満州事変を起こし、昭和8年に国際連盟を脱退し、中国の権益を拡大していたから英・米をはじめとした植民地宗主国との国際関係は矛盾を深めていた。海軍は建艦に力を入れていた。天皇裕仁には3歳下に秩父宮・4歳下に高松宮らの弟たちがいたが高松宮は15歳で学習院中等科を退学後海軍兵学校に入学、卒業後は任官し昭和14年には34歳の海軍少佐で、大本営軍令部の作戦将校であった。
秩父宮は陸軍大正天皇第二皇子、昭和天皇の次弟で陸軍少将。大正11年、成年にともない一家を創立し、秩父宮の宮号を受ける。陸軍士官学校本科卒業後、14年英国に留学。昭和3年結婚。同6年陸軍大学卒業後は、歩兵第三連隊・歩兵三一連隊・参謀本部等に務めた。S9年満州国皇帝即位慶賀のため派遣され、S12年には英国王の戴冠式のため渡欧。 この日の行幸は陸軍の航空兵力の備えを見る貴重な機会であった。この高萩への行幸ののち、9月には第二次世界大戦の火蓋が切られているから、天皇裕仁はこの航空兵力の要、陸軍士官学校の卒業生の姿にいたく励まされたに違いない。その後の昭和16年3月、17年3月、また19年3月にも修武台を訪れているが、16年12月の日米開戦の決心を固めた時には人材の養成に十分な自信を持ったに違いない。
陸軍は中国に関東軍を置き満州国の固めを図っていたが、その暴発はしばしば中央の統制を乱すもととなっており、陸海軍の要として天皇家の役割はきわめて大きかったはずだが、東条ら軍部内の統制派の力を借りなければ収まらなかった。東条の役割はのちの敗戦後「東京裁判」での天皇の免責にいたる歴史の大きな謎である。しかし、1944年6月にマリアナ海戦の敗戦以降、天皇の東条に対する信頼は失われ、7月には東条は首相を辞任し小磯内閣が誕生している。しかしその後、小磯内閣はレイテ島での戦局も回復できず、連合艦隊を失った天皇にとって本土決戦は必至の様相であった。しかし1945年2月に皇道派と手を結んだ近衛は「上奏文」を昭和天皇に提出し、本土決戦になれば国内騒乱状態になりソ連と手を結んだ容共勢力が主導権をとり、国体の護持は不可能になるとの進言をするに至っている。私の理解では、天皇を利用したい勢力が、戦争の責任を一切、東条らに押し付け、ポツダム宣言の受諾・連合軍に取り入り戦後の主導権を確保するに至る道筋をつけたものである。この「上奏文」を支持するグループに戦後、首相になった吉田茂がいる。
閑話休題、本題に戻ろう。今回の連載を書くにあたり、埼玉らしい話題を探そうと思って資料を探してみた。富士見市立図書館には調査・研究のコーナーがあり、利用者の要求に応えて資料探索をしてくれるサービスがある。ここを利用して当時の新聞の閲覧を申し込んだ。その結果、昭和14年4月の新聞は朝日の縮刷版があること、読売新聞東京版の縮刷もあることなどが分かった。読売の埼玉版が浦和図書館にあるとの連絡を受け、早速電話を入れてみた。たしかに読売はマイクロフィルムで保存されているが、なぜか昭和14年4月版は欠けているとのことであった。しかし東京大学社会情報研究所附属情報メデイア研究資料センターにはすべての原資料が保存されているとの情報を得ている。ちなみに富士見市立図書館には無産者新聞、農民新聞などのコレクションが保存されているなど、すばらしい図書館である。また東松山にある埼玉県立平和資料館にも、埼玉の戦争を記録する貴重な資料が保存・公開されている。(続く)
この稿参考図書(前回と重複分は省略)
読売新聞 第2夕刊 昭和14年4月28日発行 横田八郎氏所蔵
東条英機と軍部独裁(昭和の宰相「第3巻」) 戸川猪佐武 講談社文庫 私家本
「戦略爆撃の思想」 前田哲男: 朝日新聞社、1988年。 日高・飯能民主文庫蔵
昭和天皇実録 第七 宮内庁 pp758-759 (昭和14年4月) 2016年3月30日発行 東京書籍
関連ページ 空爆の記憶 (個人のホームページ おたまじゃくし に収録) 豊岡飛行学校についても触れている。
日高の高萩飛行場への勤労動員の記録として個人のホームページへの書き込みがある→http://www.jca.apc.org/~yyoffice/
1945 (昭和20)
14歳 中学校3年
4月1日 米軍、沖縄本島に上陸。
5月7日 ドイツ軍、無条件降伏。
5月25日 米軍B-29による東京大空襲で自宅が全焼した。母と弟妹たちは埼玉県に疎開していたが、東京に残っていた父と祖母と私は、みな焼夷弾の破片により負傷した。
埼玉県立川越中学校(現・埼玉県立川越高校)に転校。
授業はなく、日高市の陸軍飛行場に勤労動員。連日、米艦載機による空襲。
8月6日 広島に原爆投下。9日に長崎に。
この証言にある連日、艦載機による空襲が陸軍飛行場に対するものなのか、それとも川越、日本全体に対するものなのかは不明だが、当時の様子の一端がうかがい知れる。
B29の墜落記録 1944年6月16日の本土初空襲以来、B29は日本の大都市はいうに及ばず中小の都市をも焼き尽くし、空襲犠牲者30万以上、罹災者1000万以上の被害を与え、物心両面から日本の戦争継続能力を奪った。その一方、日本防空部隊は質、量とも圧倒的に劣る装備で、そして最終的には体当たり攻撃をもってこれに立ち向かった。それはまさに「空の本土決戦」ともいうべきものであった。その結果、多くのB29が本土に撃墜され、その20代前半が大部を占めた生存搭乗員達も軍に、或いは住民により厳しい措置を加えられた。以下はもう一つの本土空襲の姿である。→ http://www10.ocn.ne.jp/~kuushuu/mia.html
1945年4月24日 | B29 | 埼玉県川越市大仙波 | 2名拘束 |
昭和天皇実録 第七 宮内庁 pp758-759 昭和14年4月27日の条によれば、「卒業生による空中分列、偵察機による空地通信、並びに九一式・九五式戦闘機による特殊飛行をご覧になる」と書かれている。 この項、2016/04/18に補足。
掲載内容に関し、無断転載・リンクを禁じます 内容に関する問い合わせ・ご意見は sundovani を @yahoo.co.jp に付けたアドレスへお願いします。(spam 防止)
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |