このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

日高と天皇


第2回 お召し列車

当時天皇は神であり、聖上とも呼ばれていた。天皇の行動はまったく庶民には窺い知れず、戦後、天皇の「人間宣言」によって皇室がオープンになったため、続々と天皇に関する論文や日誌類が出版されている。天皇の現憲法上の位置付けは「日本国の象徴」であり国民は主権者であるが、旧大日本帝国憲法では元首であり、国民は民草であった。そこから生まれる現代とのギャップを改めて描いてみたい。

話は1939年(昭和14年)4月27日に飛ぶ。この日、広い宮城内は森閑として朝もやの中にたちこめる霧の中に陽光は差し、外界とは隔絶された世界に独特の雰囲気が漂っていた。時代は日中戦争(日支事変)のさなかにあり、日本は中国戦線にたくさんの軍備、兵士を送り込んでいた。戦争開始後14ヶ月を過ぎていたが、国民を戦争に駆り立てる国家総動員法が敷かれ、赤紙一枚で戦場に送り込まれる時代であった。また庶民は兵隊と同じ気持ちで生活をしなければならず、不自由の多い戦時色濃い時代に突入していた。子供達は戦場に送る兵士への手紙を書き、女達は「千人針」という布を集め兵士達に送っている。「日の丸弁当」ということばはこのころに生まれている。日米開戦の象徴である真珠湾攻撃はまだずっと先のことであり、当然、米軍による都市爆撃はこのときはまだ始まっていなかった。しかし1937年には陸軍は日米間の戦争を開始するための計画をたてており、その計画に沿った準備は1941年には終了する予定であった(東京裁判検察側資料)。そういうわけで空襲の恐れは十分にあったのだろう、1935年、宮城内には小さな防空室が建てられ、その後1937年(昭和12年)4月に防空法発布、同年7月の日中戦争の勃発に至って、宮城内に「御文庫」と呼ばれた強固な防空壕が計画された。1938年には昭和天皇の母・貞明皇后の「御文庫」を建てた大林組が1941年4月に昭和天皇のための「御文庫」着工、その後秘密裏に完成していた。当時、庶民の防空壕が木と石と土でできていたのに比べると、「御文庫」の天井のコンクリート厚は3メートルでかなり大きな爆弾にも耐えられよう設計されていた。いずれにしてもまだ空襲は無く、首都東京はバケツリレーを中心とした防火訓練が始まり、すべての人々が戦争へと駆り立てられていった。(天皇裕仁と東京大空襲)

今日昭和14年4月27日は陸軍航空士官学校51期生の卒業式である。御所の昭和天皇裕仁は別室の皇后、良子(ながこ)妃の押すブザーで起こされる。侍従達はいつもどおり天皇の支度を助け、軍装に寸分の乱れも無いように細心の注意を払わねばならなかった。天皇の靴はピカピカに磨かれ、糸くず一本の汚れも許されなかった。侍従は陸海軍人が側近として奉仕する体制で、その長である侍従長は戦時には海軍軍人が勤めていた。百武侍従長の説明を聞きながら支度を整えると、別室に控えていた高松宮のご機嫌伺いを受ける。高松宮は弟宮でありながら海軍の将校の身分であり、軍艦生活が長期にわたることもあったが生活の基盤は皇居を中心に営まれていた。天皇への折々の接触や皇族たちの交流も頻繁に行われていたが、高松宮はこの年の二月から三月にかけて日中戦争の中南支戦線および北支戦線の視察に出かけており、この日の訪問はその直後ではないか。すでに松平宮相、石黒行幸主務官、宇佐美侍従武官長らは揃って出発を待っている。8時55分、衛兵に囲まれた黒塗りの車は宮城を出発し、西に向かってゆっくりと走りやがて現在の山手線原宿駅特別ホームに到着する。天皇の乗る鋼鉄製の御料車を挟んで宮内庁・鉄道局・警察関係者が乗込む一等・二等の「供奉車」を含む5両編成のお召し列車はすでにホームに入っており、先頭に菊の紋、日の丸の小旗を十字に組み合わせた蒸気機関車C51は盛んに蒸気を吐き出している。秩父宮やのちの首相、東条英機中将・航空総監をはじめとした陸軍首脳は高萩飛行場にて昭和天皇一行を出迎えている。 全員がお召し列車に乗り込んだ午前9時15分、列車は定刻どおり原宿駅を出発する。列車は新宿駅を過ぎると中央線に進入し、一段と速度を上げていった。

当時の記録によると、お召し列車が発着若しくは通過する駅においては、駅長の管理のもとに関係者以外の一般構内立入りを禁じ、また駅職員であっても必要外の者はプラットホームに出してはならないとされていたからまったくのフリーパスであった。しかし規律ある団体による離れたホームからの奉送迎は善しとするとあり、つまり「関係者以外は誰もプラットホームに入ることは出来ず、また、立入りを許され附則にある「規律ある団体」とは学徒や軍人等であった。一般列車の往来は該当する時間内は全て通過または離れた側線で待機、あるいは手前の駅で折り返し運転などして一般国民の乗降は一切禁止されていた。通過する駅においてはまず待避、或いは行違う一般列車は、直前に駅長または車掌より通告があり、御召列車が通過する側の窓を閉めずとも、覗き込むこと無きように(覗いてはいけないのだから写真は不可)という注意があり、また、側線・機関庫に駐機の機関車も、黒煙と汽笛は厳禁であった。行き違う列車の速度は徐行程度であり、まさにそこのけそこのけお馬がとおる状態であった。赤田喜美男著「ぼくの軍国少年期」によれば、昭和16年3月に日高に来た時はピカピカの蒸気機関車は煙を吐かず、「天皇旗」を掲げた将校が乗り込んだ先駆けの機関車がまず通過し、その数分後に機関車に引かれたお召し列車が来たとある。この本の存在は狭山の木下應佑さんおよび文庫館の野村治さんから教えていただいたが、木下さんからは氏ご自身がこのときのお召し列車を出迎え、見送ったとの情報を寄せていただいた。このときの話は次回以降、陸軍航空仕官学校に関するエピソードの中でまとめてご紹介したい。

同行のメンバーは宇佐美侍従武官長、松平宮相、百武侍従長、石黒行幸主務官らであった。当時の列車に防空用の特別室があったかどうかは分からないがアメリカとの戦争がはじまってからは、そのような設備がつけられたと鉄道愛好者のホームページに出ていた。 お召し列車は三鷹駅、立川駅を過ぎると多摩川にかかる日野橋鉄橋に差掛かる。見晴らしの良い光景の向こうにはまだ冠雪の富士山が望める。立川には広大な軍の飛行場があり、軍用機の修理・組立て工場も展開していたといわれる。立川を過ぎれば豊田、八王子とつながり、列車は出来て間もない八高線に進路を変える。八王子の先の東淺川駅は昭和天皇の父母の墓である大正天皇陵(多摩御陵)へつながる皇室専用の駅であり、広大な天皇陵の敷地へつながる道には玉砂利が敷き詰められてた。さように、昭和天皇にとって八王子はひときわ重要な土地であり、伊勢の神宮への参拝同様、お召し列車による移動は国家の重要な行事であった。八王子を過ぎ、金子・東飯能、を過ぎると11時、高麗川駅にお召し列車は到着する。高麗川より川越はまだ線路はつながっておらず、天皇をはじめ関係者一同は自動車に乗り込むと目的地、豊岡の陸軍航空士官学校高萩飛行場に向かった。(続く)

この稿参考図書(前回と重複分は省略)
 昭和史の天皇Ⅰ 読売新聞社(S42) 日高市高麗公民館蔵 
昭和天皇の15年戦争 藤原彰 青木書店  私家本
 天皇裕仁の昭和史 河原敏明 文春文庫 私家本
 天皇裕仁と東京大空襲 松浦総三 大月書店 富士見市立図書館蔵
 牧野伸顕日記 中央公論社 富士見市立図書館蔵
 高松宮日記  中央公論社 日高・飯能民主文庫館蔵
 ぼくの軍国少年期 赤田喜美男 まつやま書房 日高・飯能民主文庫蔵

第1回へ    第3回へ

掲載内容に関し、無断転載・リンクを禁じます 内容に関する問い合わせ・ご意見は sundovani を @yahoo.co.jp に付けたアドレスへお願いします。(spam 防止)

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください