このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

高麗家の歴史  日高市通史より

小畔川流域  集落(竪穴式住居、須恵器) 古代窯 が分布

東山道武蔵道推定路(府中−所沢−女掘(八幡前・若宮遺跡)—勝呂廃寺−東松山−熊谷) 沿道に古代窯が分布

高麗家の歴史

天智天皇5年(666年)10月26日 高句麗国王は使者を飛鳥宮廷に送りこんだ。その一員に二位玄武若光がいた。 668年高句麗滅亡 若光帰国できずそのまま移住。宮廷は渡来人の一部を天武朝末期から時統朝のはじめにかけて急速に東国へ移す。

703年4月4日 従五位下高麗若光が王姓を受ける。

716年 高麗人1799人を武蔵国に移しはじめて高麗郡を置く

 理由:国郡を置くことに熱心。(渡来人の新天地としてほかに 多胡郡 が置かれる)、建都にあたっては太政官の中の有力者の連名のサインが必要。当時、安部氏という右大臣がいて権力をふるっていた。この人は武蔵の国に関係があった。

高麗人の誘致に熱心だった。

福信

 

高麗若光 

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