このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

短編小説に載った小瀬名の殉職の碑

1、はじめに

市や町の自治体が建てた図書館には郷土史関連の資料コーナーが有ります。「碑 −短編小説集−」は飯能図書館や日高市立図書館の郷土関連図書コーナーで見ることができます。第一章の「小瀬名の碑」をはじめ、②高麗峠、③高萩万次郎の墓、④四本木の板仏、⑤清泉寺跡の碑、が収められています。巻末に付した「作品の足跡」には、各小説にゆかりの場所を示す絵入りの地図が挟んであります。

 小説「碑」によりますと、昭和19年5月27日、横田飛行場より飛来した双発の飛行機が小瀬名の耕作地に墜落、乗員4名が即死したため、陸軍が殉死として地元に慰霊碑を建てるよう要請しました。それにこたえて地元住民が4名の名前と階級を記した石碑を建てました。石碑は現在も小瀬名の地に建っています。石碑のことは日高町(当時)が出版した「日高町歴史散歩」に取り上げられており、また「ふるさとの記憶(横田八郎著)」にも紹介されていることが分かりました。取り上げられた順序は年代順に(ふるさとの記憶⇒日高町歴史散歩⇒短編小説集)です。 
 

 小瀬名は日高市と毛呂山町の境にある小さな集落です。標高は370m、日和田山305m、物見山375mの中間の高さです。小瀬名周辺の風景ですが、まず物見山。見晴らしの良い場所にベンチが並んでいます。ベンチの奥の細い道を少し行くと、一等三角点の埋まる物見山山頂。標識の北向地蔵方面へ向かいます。東屋を過ぎて、気持ちの良い道を行きます。左から並走する山道と接触。このまま進むと北向地蔵へ。左の道に入り、少し行くと馬頭観音の石碑。民家が見えてきて、小瀬名の集落。菜の花、ツツジ、他の花々が綺麗な、山間ののどかな山村です。集落を過ぎて下っていくと、舗装された車道に出ます。車道を少し行くと、北向地蔵からの道と合流。沢沿いの道になり、左に「五常の滝」の標識。谷へ下ると、五常の滝です。

 日高市の民話伝説にダイダラボッチという巨人伝説があります。昔ダイダラボッチという巨人が日和田山と多峯主山を棒に掛けて担ってきました。高麗まで来て一休みと山を降ろしました。日和田山はそっと置いたので高いが多峯主山はぐっと降ろしたので低くなりました。足が汚れていたので日和田山に腰を掛け高麗川で足を洗いました。その場所が洗い(新井)というのです。

 

小瀬名の集落付近(秩父方面を望む)、 山道は五常の滝に続くが石碑は山道の右側斜面に建っている。

 

 小瀬名周辺の地図


2、本の概要

 同書は飯能市立図書館及び日高市立図書館の蔵書になっています。両図書館HPより「資料(蔵書)検索」で調べられるのでその結果を以下に抜粋しました。

著者 細川友一
書名 「碑 −短編小説集−」
出版社 文化新聞社
平成18年6月20日発行(2006.6.) 
329p ; 19cm 
NDC(9): 913.6 
JP: 21110914

同書奥付によれば著者の細川さんは、元国鉄勤務、趣味は俳句で俳号は真水、とに記されています。また細川氏は日高市の文芸ひだかのメンバーでもあり、俳句の選者をしておられるようです。

第一章の「碑」の内容は戦前、横田基地を飛び立った双発の飛行機が、武蔵丘陵のひとつである小瀬名という場所に墜落、4名の方が亡くなったこと。事故機の回収と遺体収容に陸軍と地元住民が当たったこと。事故処理の後、殉難碑の建立を地元の杉田源吉さんらが行ったこと、などを小説の形に纏めたものです。横田基地とは当時は陸軍多摩飛行場と呼ばれ、横田基地と命名したのは日本に進駐した米軍です。この章のあらすじは日高町の歴史散歩に掲載されたものと同じです。

犠牲者の名前をキーワードにしてインターネットで検索しますと、「跋渉会」というタイトルのHPに行き着きます。以下、跋渉会のHPより引用します。


3、跋渉会

日高市小瀬名という地に山上集落があります。この畑の中で見つけたのが、この石碑です。裏の碑文から昭和19年5月27日、この地に陸軍機が墜落し、殉職された方々の名前を彫った石碑であることが判りました。その建立者は陸軍ではなく、地元の方々です。この時は地元の方から詳細が聞けませんでしたので、後日お聞きしてご紹介いたします。またこの事件について何かご存知の方がいましたら教えてください。
 碑文の中の菅谷照さんという名前が、
鉾田陸軍飛行学校というホームページの中の殉職者一覧表の中にありました。詳細は判りませんが、この方でしょうか。(2009年1月)
http://www.burari2161.fc2.com/hokotarikugunhikougaxtukou.htm

 

  

(石碑の高さはおよそ1mぐらい)

陸軍中尉永野淳
陸軍少尉川邊貞雄
陸軍少尉山下豊
技術雇員菅谷照

 

【一部判明しました】日高市関連の文献を調べているうちに記録がありました。『日高町歴史散歩 第二集』(日高町教育委員会 平成元年二月発行)によれば、昭和19年5月27日計器飛行訓練中に計器の故障で、付近の松の木に接触して殉職した方々であり、永野淳氏は北海道出身の教官、川邊貞雄氏は鹿児島県出身、山下豊氏は東京都小金井市出身、菅谷照氏は不明であるという。菅谷照氏については前述した鉾田陸軍飛行学校の記録と同一人物だとよろしいのですが。(2009/01/26)


4、武蔵丘陵にはたくさんの飛行機が落ちた

 日和田山から奥に延びる奥武蔵の稜線上は、現在に至るまで実に多くの飛行機が墜落しました。後述するように豊岡航空士官学校(米軍ジョンソン基地)、東京多摩飛行場(米軍横田基地)等がありました。多摩飛行場は試作機のテストを専門に行っていた関係だと思いますが、地元に聞き取りすると驚くほど話しが出てくるそうです。
 墜落事故で悲惨だったのは、高山不動の上の店に昭和30年頃米軍の気象観測機が墜落した話しです。地元ではB29と同じ飛行機と言っていますが、実際にはS32年12月28日に事故があり、墜落した飛行機は横田基地を飛び立ったB50WR気象観測機(当時台風の目まで入って観測した飛行機ではないか)でした。被害は死者1名、立木150本が失われ、バンガロー全焼4棟 民家破壊1戸との記録があります(以上埼玉県企画財政部S60年4月発行 「埼玉県の基地」より)。墜落により破壊された民家では、父親と子供が風呂に入っていて、子供は助かったのですが、父親は飛んできた材木で死亡されたそうです。また日高市からズレますが、傘杉峠というところには複葉機の時代に、複葉機が墜落しているそうです。こんな話しが、あっちだ、こっちだと何ヶ所もあるそうです。

横田八郎著「ふるさとの記憶」について

 跋渉会の方が紹介された「日高市の本」とは「日高町歴史散歩」であろうか。日高図書館所蔵の図書「ふるさとの記憶(横田八郎著)」に掲載された文章に「殉職の地」がある。「日高歴史散歩」にもこの「殉職之地」が載っている。両方の本にはそれぞれ石碑の写真が載っているが、いずれも草深い野原に足元の台座が隠れるほどに雑草が茂っている。細川氏の本では石碑の周りはきれいに草が刈られ、台座には茶碗とお皿が添えられている。茶碗は口が上を向いていて、お皿も食べ物を乗せられるように置かれている。跋渉会のHPのものはそれぞれ伏せられているので、本が出版されてからだいぶ時間が経っていることをうかがわせます。

「埼玉の基地・基地跡地」というタイトルの本は県内の図書館で見ることができます。ちなみに日高市立図書館の蔵書を検索したところ昭和60年の資料はヒットせず。2001年の資料がヒットました。


タイトル人名出版者分類出版年月
1埼玉の基地・基地跡地 
埼玉県総合政策部政策総務課/編
浦和: 埼玉県総合政策部政策総務課

2001年

飯能市立図書館には昭和55年の資料がありました。


タイトル人名出版者分類出版年月
1埼玉県の基地 
県内米軍基地、基地跡地、自衛隊基地の概要

浦和〕 埼玉県企画財政部

1980年

富士見市立図書館には昭和60年(1985年)の資料が有りました。昭和55年に比較するとページ数がほぼ2倍で、表や図が増えています。県内の墜落事故のリストや横田、入間基地周辺の騒音域の地図が添付されています。

小瀬名と米軍横田基地、自衛隊入間基地の位置関係は下図のようになっています。横田基地と小瀬名の間は約16kmで、飯能市と横田基地の間は約12kmです。

 

   

米軍横田基地、自衛隊入間基地と小瀬名の位置関係 (Google航空写真より引用・作成)


5、さらに詳しい情報を求めて

 日高市の歴史資料の保存や展示は教育委員会が行っている。展示は高麗郷民俗資料館で行われている。同館は通常展示のほか、企画展がときどき行われている。場所は高麗川天神橋の近くにあり、高麗駅から行くと天神橋を渡ってなかや商店(はちみつ販売の看板あり)の横を入っていくと右手にある。小瀬名に関する展示資料は無く、農機具や農家のくらしを再現した畳の部屋が展示されている。おそらく墜落当時の小瀬名の農家はこうであっただろうと想像することにした。高麗郷民俗資料館の詳細は日高市のHPに出ています。

なかや商店(+印) (Google地図より引用・作成)

高麗郷民俗資料館 (日高市HPより)

 

「日高と天皇」 によれば、戦前、日高には陸軍航空士官学校高萩分教場がありました。もともとは開拓地だったのですが、軍が強制収用して入間にある航空士官学校の分校として使用しました。ユングマンなどドイツ製の複葉機をモデルにした練習機が使われました。最寄り駅には現在の武蔵高萩駅が昭和15年に開設、川越と高麗川を結びました(現在の川越線)。武蔵高萩駅には貴賓室が設けられ、防空壕も作られました。そこから入間までは舗装され、それが現在の407号線です。昭和20年7月28日、米軍艦載機が同飛行場や高麗川駅を空襲、死者やけが人が出ています。
高萩の分教場は戦後米軍が接収、しばらくしてからお話の開拓用に県から民間に払い下げられました。現在の日高市旭ヶ丘です。
現在では米軍横田基地から飛び立った輸送機が武蔵丘陵を越えて頭の上を悠々と横切っていきます。ジェット戦闘機は日和田山をめがけて突っ込んできます。その真下は日高市清流地区で、山に向かう道路沿いには民家が散在しています。

小瀬名への行き方

目標:最寄の民宿  啓明荘  Google マップ= 埼 玉県入間郡毛呂山町権現堂193

 啓明荘に電話(049−294−6766)をして小瀬名までの所要時間を伺った。啓明荘からは徒歩で12分とのことでした。 啓明荘では茶菓の接待はしていないとのことでした。有料で”もちつき”を楽しめるとのこと。

啓明荘までは毛呂山から車で30分、横手からは車で10分ぐらいとのことでした。

Googleマップで付近の写真を見ることができました。山肌と畑が接したあたりに小さな建造物を認めましたが、これが石碑かもしれません。現場写真を撮り、Google地図に貼り付けようと思っています。

啓明荘までの交通(武蔵横手駅方面から)

山道

西武秩父線武蔵横手駅前の国道299号沿いに 奥武蔵自然歩道 入り口の案内板が立っている。そこを入っていくと舗装された山道があり、ゆるやかにカーブしながら奥に続いている。道の右手にすこし開けた土地があり人家が散在する。山道は啓明荘を目指して上がっていく。

写真は横手−啓明荘間の山道。車(軽)は啓明荘方面から降りてきたところ。撮影場所は権現堂に通ずる道との分岐点。五常の滝はこの道を少し下がったところにある。

写真で見るように一車線なので、すれ違いに注意を要する。待機場所が少ないので譲り合って通行すること。

(撮影2010/4/11)

啓明荘南斜面

山道を上がっていくと突然視界が開ける。道は左に急カーブして右手急斜面は畑である。さらに上がっていくと左手下斜面に畑が展開し遠くに山肌が見える(写真)。啓明荘は写真の反対側、道を挟んだ右側斜面にそそり立つように建っている。

写真左手に見える人家に通じる道の入り口は、登ってきた山道を少し下ったところにある。

山脈の向こうはかすんでいたが、晴れていれば武蔵丘陵の山々が見える。この山道をしばらく登ると権現堂に着く。

(撮影2010/4/11)


6、墜落した双発機

 短編小説「碑」では飛行機は双発で、機体の色は「銀色」と描写されていました。ジュラルミンであればそのような色であろう。墜落した飛行機の機種名は書かれていませんでした、乗員4名で多摩飛行場から飛んできた、と書かれているのでキ−67(四式重爆撃)と仮定しました。以下の写真は四式重爆撃機のプラモデルで、製作者の意図により茶色に塗装されています。

 

四式重爆撃機主要諸元 

航空事故の記録

http://www.lares.dti.ne.jp/~iso50/notekon.html より引用
 終戦を目前にした1945年8月11日夕、西多摩群旧吉野村(現在の青梅市柚木町)三室山(標高646.9m)に旧陸軍 4式重爆撃機キ-67が墜落した。私の父は熊谷飛行場でこの機の帰還を待っていたが、青梅方面で飛行機が墜落したとの連絡を受け、救助に向かった。春日大尉以下12名の搭乗員全員の死亡を確認し、近くの学校で遺体を荼毘に付した。 終戦の混乱でまともな供養が出来なかったことをいつも気にしていた父は37年後の1982年、消えかかっていた当時の記憶をたよりに墜落場所を探し出し、積年の思いを果たした。私も同行したが、今だに沢に転がっているキ-67のエンジンの残骸を発見することが出来た。この曲は亡くなった搭乗員に捧げる鎮魂曲である。

同様に以下の記事を見つけました。

http://www.hb-arts.co.jp/100101/safe.htm より引用
友人、安田新一君から追悼録「散華」の原稿を送ってきた。
 —終戦直後、昭和20年10月某日、陸軍士官学校より復員してから私は縁あって母校日大二高に招聘され教鞭をとっており、休日を利用し単独で奥多摩登山 に、青梅線軍畑駅—日の出山—御岳山—大岳山—五日市駅のコースを縦走した。その折、日の出山頂より東側直下の森林の中を登頂中、大規模な墜落した航空機 の残骸に遭遇、周囲には弾薬も無数に散らばり、衣類などが木に掛かり、火災を免れていたが、目を覆いたくなるような鬼気迫る凄惨な状況であった。残骸の様 子で日本軍の爆撃機のようであった。合掌黙祷し、その場を離れ、山頂山小屋の主人に、当時の状況を聞いたところ、墜落ではなく山腹へ激突したのであって、 矢張り日本の爆撃機で村の人々が多数の遺体を収容して麓へおろしたとのことであった。
 翌年の春、山岳部十数名を引率し、わざと事前には知らせず同じコースを歩いた。現地は相当片付いていたが、まだエンジンなど大きな残骸は散らばっており 一見して凄惨な墜落現場であった。状況を説明し、慰霊のため、全員整列黙祷し「英霊のおかげで今日の日本があり、しっかり勉学に励みその恩に報いよ」と諭 した。
 それから数年の月日がたち、偕行社記事(陸軍士官学校同窓会報)の56期生の欄に「春日改造大尉 昭和20年8月11日児玉飛行場より硫黄島爆撃の帰途 奥多摩山中に墜落」とあり、終戦4日前、あと数分で帰還の途中、山頂まであとわずか高さ100mぐらいで母国の山に激突とは武運つたなく、きわめて悲壮で あり、さぞご無念であったろうと拝察する(燃えていないので燃料切れも考えられる)。
 ご遺族の住所もあったので早速お悔やみ状に当時の様子をお知らせした。記憶によれば信州のご出身であったと思うが、ご遺族より丁重なお手紙とともに立派 なリンゴが送られてきた。早速、新婚の妻を伴い、そのリンゴ数個を持って日の出山に登ったが、現地は「夏草やつわものどもが夢のあと」数年の間に草木が繁 り、山容も変わりついに捜索を断念し、やむなく、ここと思われる所に妻が石を集め仮の祭壇を作りリンゴをお供えしてご冥福をお祈りし、その写真を撮ってご 遺族に送った。
 最近、偕行記事に青梅の郷土博物館に上記の破片が展示してあるとのことが掲載されていたのでぜひ、妻を伴い往時をしのび訪問しお悔やみしたいと思っている。
(注、青梅市郷土博物館に電話で確認したところ”飛竜”の残骸と、墜落した B29のエンジンの残骸 が展示されているとのことでした)
 (付)同機は、当時最新の四式銃(ママ)爆撃機で、57期楠秀男中尉も同乗されていたことも判明、あわせてご冥福をお祈りします—
 私が調べたところ、「陸軍士官学校士官名簿」には「春日改造大尉は 昭和20年8月11日西多摩郡吉野村上空 殉職」とあり、留守宅は「長野市長野河原崎、 弟秀夫」となっている。
 楠秀男中尉は春日大尉と同じ場所で「戦死」とあり、留守宅は「奈良市若葉台、兄正雄」となっている。楠中尉は地上兵科出身で所属は「16独飛」とある。
 当時、児玉飛行場には第一航空軍の第27飛行団(団長・野中俊雄大佐)の本部があり、重爆の98戦隊(隊長・宇木素道少佐)が展開していた。春日大尉は ここから米軍に占領されたばかりの硫黄島に爆撃に赴いたわけである。四式重爆撃機の乗員は8名。航続距離は3800キロメートルである。東京から硫黄島ま で1250キロ、爆弾を落として帰れる航続距離である。
 98戦隊には面白いエピソードがある。敗戦直後、米軍の指示に基づいて大本営は「8月24日午後6時以降一切の飛行を禁止する」との命令を出した。最後 まで徹底抗戦を叫ぶ98戦隊は四式重爆機に魚雷をつるして大本営を爆撃する構えを見せた。不穏な空気を察した野中大佐が「魚雷を大本営の建物にぶつけても 割れるだけで爆発はしない。しっかりしろ」となじると、戦隊長の宇木少佐は「じゃ辞めます。その代わりトラックで押しかけます」とその夜、陸軍省に押しか け、幕僚連中を吊るし上げただけで事は収まった。27日には部隊は解散したという。(秦郁彦著「八月十五日の空」・文春文庫)


7、多摩飛行場

 多摩飛行場には陸軍航空審査部が置かれ、陸軍が使用する航空機のテストが行われていました。航空審査部の最寄駅は当時の地名である東京府西多摩郡福生町の駅。航空審査部は「航空隊のそれぞれのトップがいて、これからどんな飛行機を製作するか研究し、試作し、更に試作機のテストを繰り返し、その飛行機を 陸軍で正式に採用するか否かを決定する所」として存在しました。多摩飛行場の近くには陸軍立川飛行場があり、当時は陸軍航空の研究・開発・製造の一大拠点として重要な地位を占めていました。周辺には軍用機を製作する立川飛行機、日立航空機、昭和飛行機工業など多くの工場が建てられていました。

陸軍航空審査部の概要 

航空作戦現場の要求に迅速に対応し航空兵器の審査を促進するため、「陸軍航空審査部令」( 昭和 17年10月10日 勅令 第681号)により、 1942年 (昭和17年)10月15日、 陸軍航空本部 飛行実験部を廃止し、同本部隷下の機関として陸軍航空審査部が 東京府 西多摩郡 福生町(現: 福生市 )の陸軍多摩飛行場(現: 横田飛行場 )に新設された。旧飛行実験部の人員と旧 陸軍航空技術研究所 の審査部門の人員により編成された。

審査の対象は、航空兵器、兵器材料、燃料油脂、特殊施設、航空被服、糧食、衛生材料などであった。飛行試験は技術研究所の研究に関するもの以外に、基本審査、実用審査を行い、新制式機の伝習教育も担当した。

終戦を迎え、「陸軍航空審査部令」は 1945年 (昭和20年)11月10日勅令第631号により廃止された。

多摩飛行場の終戦処理と進駐軍による接収が後の米軍横田基地の発足につながっていく。( 参考HP

この短編小説が描いた時期は昭和19年5月27日だが、このときの審査部本部長は 中西良介 少将:1943年12月27日 -。多摩飛行場に関する軍事資料は進駐軍到着以前にすべて焼却処分され、ほとんど残っていないそうです。

参考文献

この稿 Wikipediaより抜粋。

 以下の証言は四式重爆撃機(キ67)を改造した試作機に関する記述で、当時の雰囲気が伝わってきます。 小瀬名に墜落した飛行機は、自動操縦装置のテスト(計器飛行)中であったと「ふるさとの記憶」に書かれていますが、航空審査部には各種の試作機が持ち込まれ、それらのテストがひんぱんに行われていたことを示す証言です。

旧陸軍航空審査部員の証言 1

昭和19年・・・何十機目であったろうか、変わった大きな重爆撃機が目に入ったので急いで近付いて見た。それは四式重爆撃機「キ」六七のようだが機首が一見して変わっているのが分かった。「キ」六七は普通機首に機関銃座があって透明の風防ガラスになっているのだが、よく見るとその飛行機は一回り大きいジュラルミン板になっていて、前に大砲の砲身のようなものが突き出ていたのである。おかしいと思い、よくよく見てみると紛れもなく大砲の砲身であった。それが八八式七センチメートル野戦高射砲であることはすぐに解かった。

飛行機に高射砲が搭載してあるとは……。八八式七センチメートル野戦高射砲は、陸軍兵器学校で重点兵器として習った中の一つで、私はその専門の科の卒業であり、頭の中によく残っている兵器であった。この兵器は、射撃すると弾丸が飛び出した反動で砲身が後ろに下がる。下がるのを少なくするために、駐退復座機というものを砲身の下に装備して後退する砲身を六十センチぐらいで止め、砲身を元に戻すように設計されていた。私は『本当にその一式が飛行機に装備されているのだろうか』と疑問に思い、どうしても機上が見てみたくなった。

飛行機の真下に行って搭乗口を押してみると簡単に開いた。胸を踊らせながら乗り込むと、それはそれは完全な八八式七センチメートル野戦高射砲がそっくり積載してあるのに感心した。それから私は『この飛行機を実際に戦争に使用したらどうなるのだろうか』と操縦席に座って思いを巡らせた。この砲の射程距離は約一万メートルで、弾丸は破裂すれば半径二十五メートル以内に被害を与える威力を持っていた。その上、短延期信管というのを装備しており、弾丸を発射前に操作し、発射後十秒後、二十秒後などと自由に爆発させることができるようになっていたのである。結論として、私は実戦には全く不向きではないかと思った。自分の専門分野に属することなので、専門的観点から色々見たこともあって、一時間以上も機上にいたような記憶がある。『今日は実に良いものを見せてもらった』と思いながら暗くなりかけた滑走路の端を走り抜けて自室に戻った。・・中略・・

昨年末(S19筆者注)に見た「キ」六七の高射砲を積載した飛行機は予想外の新機種であった。しかし、それが使い物にならないとなると、他にも珍種があるはずだと思い、滑走路の端を横切って飛行機の係留場所へと向かうのが毎日のことであった。係留場所は広大で、次から次へと私のそれまで知っていた飛行機にちょっとずつ改良を加えたような機が散在していた。 

以上、 http://www1.ttcn.ne.jp/maisoft/rocket1%20.pdf より引用(同文献9−10ページ)。

 四式重爆撃機 「飛竜」
出典 http://ja.wikipedia.org/wiki/四式重爆撃機

 

関連証言2

渡辺洋二「未知の剣ー陸軍テストパイロットの戦場」文春文庫(2002.12)

横田空港の近くに住んで7年目になるが、前身の陸軍航空審査部のことを記した本は少ない。ただし地域との関係は騒音問題以外はよい関係にあり何をやっていたのだろうと関心をもっていた。

昨年高校の物理の恩師をお訪ねした際、陸軍時代のことをうかがうと、東大航空研から陸軍に取られた際、航空技術に関する将校の道があると聞いて試験に合格したら、福生の陸軍飛行実験部飛行場の建設を命ぜられ、拝島の家から現場にかよったとのお話だった。

本書は、立川にあった陸軍航空本部技術部が陸軍航空技術研究所をへて飛行実験部となり、福生に立地した。新型機の性能試験、初期故障の発見、必要な改修等技術開発のステップがフォローできるシステムとなっている。

海軍と違い、陸軍の場合はドイツ機を購入試験しており、自主開発か技術導入かという技術論からみても興味深い。

軍機であったろう貴重な写真も多く採録されておりコンパクトで内容の豊富な本である。

この稿  新去来山荘 A Virtual Villa  より抜粋。

関連資料1

 「陸軍各飛行場における終戦時の保有機種・機数(20,8,31現在)」によれば、多摩飛行場における航空機137機のうち、飛竜は4機である。隣の立川飛行場には飛竜は1機とある。多く保有していたのは陸軍児玉飛行場(埼玉県)の全54機中飛竜が16機。陸軍松本飛行場(長野県)の全38機中飛竜が8機であった。松本には大本営地下壕が建設中であった。ほかに坂戸に1機、豊岡に2機、熊谷に1機、西筑波に3機、宇都宮に3機、宇都宮南に1機、西は伊丹に19機、京都に1機、亀山に1機、明野に1機であった、四国、九州にも重爆撃機が保有されていたが機種名は不明である。中国大陸には皆無、シンガポールボルネオ、マレー、スマトラ、など旧植民地も皆無、ジャワ地域に1機保有していた。

関連資料2

 殉職した人たちを陸軍はどう家族に伝えたのであろうか。事故死であることを正確に伝えたのであろうか。航空審査部所属の軍人が事故死した場合の大本営発表で、事実と違う報道がなされた資料がある。それは来栖良のケースで、彼の最終階級は陸軍技術少佐であった。 資料 によれば来栖は多摩飛行場で回転するプロペラに接触し、死亡している。この事実を大本営は「迎撃戦闘時に被弾負傷、帰還後に死亡」と伝えられ、これが大本営の公式発表とされ、来栖少佐の戦死を報道する当時の新聞各社の記事(著名な外交官を父に持ち、日米混血であり、航空審査部という先端組織の技術将校として戦死したため大々的に報道された)や、戦後の靖国神社遊就館内での展示内容においても同様となっている。⇒ 来栖良

関連資料3

 渡辺洋二著「陸軍実験戦闘機隊」グリーンアロー出版、1996年6月発行。富士見市立図書館鶴瀬西分館所蔵。
同書は航空ファン1996−9〜1998−11まで連載された原稿をまとめ、加筆修正されたもの(あとがきより)。著者の意向により、戦闘機に絞った内容になっている(同書あとがきより)。序文によると、航空審査部の任務上「なにも起こらないケースは奇跡でしかない」こと、「あらゆる審査飛行に付きまとうのは負傷と死だ」、扱う対象は「未知だらけの飛行機」と書かれている。同書は航空審査部飛行実験隊戦闘班、もしくは同部戦闘隊の様子を描いており、機種ごとに時系列で記述している。取材源は当事者(文中実名)で、書面による情報提供を受けたとある。小瀬名に墜落した機体については記述を追ったが発見できなかった。同書によれば戦闘用の双発機(例 キ45改Ⅱ型)は複座式(乗員2名)とのこと、石碑にある4名は搭乗不可であろう。 石碑にある「雇員」について記述があり、雇員は下士官待遇で技術者であったことが分かった。(2010/4/13)


8、多摩飛行場、敗戦後の足取り

 以下東京都福生市のHPを訪れてみました。

概要・昭和15年からの歴史

出典 http://www.city.fussa.tokyo.jp/aboutfussa/others/yokotabase/base/88vtda0000002uvb.html

米空軍、横田基地は福生市・立川市・昭島市・武蔵村山市・羽村市・瑞穂町の5市1町にまたがり所在する本土(沖縄県を除く)では最大の米空軍基地であるとともに、在日米軍司令部及び第5空軍司令部がおかれている極東における主要基地であり輸送中継基地としての機能を有している。
 滑走路を中心に南西側(福生市域側)が管理区域であり、東側(武蔵村山市域側)及び北西側(羽村市域側)が住宅地区を有する飛行場である。

昭和15年

旧日本陸軍の多摩飛行場として設置されたことからはじまり、終戦により昭和20年9月6日に米軍の進駐が行われ接収された。(接収当時の滑走路:約1,300m)

昭和21年8月15日

厚木に進駐していた第3爆撃飛行大隊(A-26後にB-26)が進駐してきた。なお、この日をもって公式に基地が開設され、当時の村山町(現在の武蔵村山市)の字名である「横田」をとって横田飛行場(基地)と称されることとなった。

朝鮮戦争 (昭和26年から28年)

基地は数次による拡張があり、さらに昭和30年に滑走路及びオーバーラン延長が決定され、北側に拡張用地及び航空障害物制限区域等約50万平方メートルが提供されて、昭和35年には面積約700万平方メートル、滑走路3,350mのほぼ現在の規模となった。

昭和44年末

立川基地の飛行活動停止に伴い空輸部隊(C-130)等が移駐し、翌昭和45年には米空軍最大の輸送機C-5A(ギャラクシー)が発着を始めた。

昭和46年5月

戦闘機部隊が沖縄等に移駐したため、この時点で戦闘基地としての機能はなくなり、基地は兵站基地的性格が強くなり、さらにベトナム戦争の激化に伴って、輸送基地としての重要性を増した。

昭和48年1月

関東空軍施設整理統合計画(KPCP)が決定。昭和48年から昭和53年にわたり住宅275戸をはじめ在日米軍司令部、病院、倉庫等が建設された。また、隣接の国道16号線拡幅による基地一部返還等が行われ、関連施設の移設工事や昭和54年から在日米軍施設の日本側経費負担による(いわゆる思いやり工事)施設整備が行われ、高層住宅やゴミ処理施設等が建設された。

昭和49年11月7日

府中空軍施設から移転してきた「在日米軍司令部」及び「第5空軍司令部」がおかれ、基地はますます充実強化され、より重要な基地となってきた。

平成12年11月16日

日米合同委員会で滑走路の全面改修(面積:約24万平方メートル)をすることで合意され、工事には約66億円を投じ日本側の負担により、平成13年3月から平成14年6月末を以って終了した。

 横田基地の画像 横田基地

このように、横田基地は西太平洋地域における空輸の軸として、配送の拠点となり米国から大型輸送機による物資の中継基地として、日本国内外にある米軍基地等に配送を行っている。なお、横田基地には在日米軍司令部と第5空軍司令部が置かれている。 


9、軍事機密と情報公開

 この短編小説に登場した4人の殉職者のお名前は石碑の存在で知ることができました。もし石碑が建てられなければ、私たちはそのような事実があったことを知ることはできなかったでしょう。そこで、戦争に動員された人々の記録はどのようなかたちで現在に残っているのでしょうか。

たとえば、秋元書房の『陸軍士官学校』 に軍関係の殉職者の氏名、略歴が出ていると書評に出ていました。この本は飯能市立図書館の蔵書になっていますので、いつでも見ることができます。

タイトル
陸軍士官学校
人名 山崎 正男/ほか編
出版者 秋元書房
出版年月1984年
ページ数,サイズ,価格265p, 30cm, ¥10000

 飯能図書館の本で確認したところ、名前は卒業時期ごとに名前が出ていましたが、活字の大きさは6ポイントほどでした。(これでは拡大鏡を使用しなければ読み取れないと実感しました)。死亡した人の年齢を推定しますと、少尉は卒業時任官するとして、下の表からみて操縦士。中尉は指揮官・飛行小隊長。 小瀬名の殉職者は航士55期(中尉)か56期(少尉)の可能性あり。(3月14日)

名称陸軍での役職海軍での役職空軍での役職解説
大尉中隊指揮官分隊長飛行小隊隊長 
中尉(上尉)小隊指揮官航海士飛行小隊隊長 
少尉(中尉)小隊指揮官分科科長操縦士 
少尉心得(少尉)小隊指揮官分科科長操縦士特設階級であることが多い
士官候補生小隊指揮官分科副長操縦士実際には独立した階級で、教育機関中の身

 

アジア歴史資料センター で一次資料にあたる

 「アジア歴史資料センター」は、インターネットを通じて、国の機関が保管するアジア歴史資料(原資料=オリジナル資料)を、パソコン画面上で提供する電子資料センターであり、国立公文書館において運営されています。

一次資料にあたる意義

 陸軍省関係資料をキーワード検索できる。「高萩飛行場」「多摩飛行場」関連資料を検索可能(例:高萩飛行場の用地収用に関する陸軍の指示、高萩飛行場の芝張りに関する陸軍の指示、S14年に高麗川駅経由で天皇行幸が実施された際の施設使用に関する陸軍省から鉄道省への指示、多摩飛行場を出発した軍用機が行方不明になった際の報告など)。

 今回の戦跡探勝記事関連では、検索結果例に示した文書にあるよう、直接関係する文書はヒットしていません。考えられる理由は、第1に陸軍省関連文書は陸軍の上意下達の文書と、逆に下から上への報告書を集めたものであること。第2に敗戦時の武装解除から占領軍への武器・施設引渡しまでの期間に、そのほとんどが焼却処分されたたとの説があります。関連文書がないかどうかあたってみましたが、以下、別件の事故報告で残存する文書がありました。事故報告発信者(または受信者)は陸軍航空本部長です。

参考資料 (3月14日)

件名標題(日本語)遭難軍用機捜査状況に関する件
階層 防衛省防衛研究所 陸軍省大日記 陸支機密・密・普大日記 陸支普大日記 陸支普大日記 昭和16年「陸支普大日記第25号」
レファレンスコードC07092027300
言語jpn
作成者名称山形県知事山内継喜
資料作成年月日昭和16年6月27日
規模10
組織歴/履歴陸軍省
内容支 普第三七一二号其二 発警防第一一七号 昭和十六年六月二十七日 山形県知事山同テ@喜 内務陸海軍大臣殿 陸軍飛行実験部長殿 新潟、福島、秋田各県知事殿 遭難軍用機捜索状況ニ関スル件 本月十日午前九時五十分頃立川飛行場飛行実験部ヨリ秋田県東雲飛行場ニ向ケ進航途中飛行機一機本県西南部新潟、福島県境三国岳附近上空ニ於テ故障ニヨリ飛 行墜落ン飛行士八落下傘ニテ降下シタルモ凍死ノ慮アル趣ヲ以テ之ガ救助捜索方秋田(貴)県警察部長並ニ立川飛行実験部ヨリ通報有之直チニ米沢小国本警察署 員及同所轄内警防団員ヲ出動セシメ鋭意捜索ニ従事タルガ機体及飛行士共未ダ発見ニ至ヲズ本月二十日スデノ捜索状況左記ノ通ニ有之 一先及

件名標題(日本語)飛行機事故の件報告
階層 防衛省防衛研究所 陸軍省大日記 陸支機密・密・普大日記 陸支普大日記 陸支普大日記 昭和16年「陸支普大日記第25号」
レファレンスコードC07092027200
言語jpn
作成者名称陸軍航空本部長土肥原覧二
資料作成年月日昭和16年6月17日
規模1
組織歴/履歴陸軍省
内容航 庶発第一三五六号 飛行機事故ノ件報告 昭和十六年六月十七日 陸軍航空本部長土肥原覧二 陸軍大臣東条英機殿 左記ノ者六月十日伝習教育にノタメ機四三第一二五号機ヲ操練シ多摩飛行場ヲ出発能代飛行場ヘ空@途中同日午前九時五十分頃新潟県新発田東方約四十粁三国岳 附近ニ於テ消息不明トナリ目下極力捜索中ニ付報告ス 左記 原所属@去飛行第五九戦隊 (伝習教育ノタメ陸軍飛行実験部ヘ派遣中) 陸軍中尉浅野力

 これらが一般新聞報道されたかどうかは興味のあるところですが、墜落事故は軍事機密であるので報道されなかった可能性が高いのです。それとは逆に国民の士気高揚を目的とした記事が掲載され、国民は事実をすべて知ることはできなかったのです。 新聞記事と244戦隊

<検閲>報道各社への説明は陸軍省新聞班が行い、実際の検閲には内務省図書課と派遣された憲兵、それと警視庁係官によって行われた。許可された写真の冒頭に「陸軍省許可済」と掲載することが決められ、不許可写真は警視庁に証拠として押収された。部隊号・指揮官の官職氏名は掲載できず、大佐以上の高級将校の写真・参謀が複数移っている写真や軍旗の写っている部隊の写真は不許可とされた。省令施行後に更に規制され、「我が軍に不利なる記事」が禁じられた。1937年(昭和12年)8月には軍機保護法が改正され、秘密漏洩罪の適用範囲が拡大され新聞記者などにも適用される可能性ができた。1941年(昭和16年)1月新たに新聞紙等掲載制限令が制定され規制はさらに強化されることとなった。

昭和十二年陸軍省令第二十四号

陸軍省令第二十四号
新聞紙法第二十七条ニ依リ当分ノ内軍隊ノ行動其ノ他軍機軍略ニ関スル事項ヲ新聞紙ニ掲載スルコトヲ禁ス 但シ予メ陸軍大臣ノ許可ヲ得タルモノハ此ノ限ニ在ラス

附則

本令ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス
 昭和十二年七月三十一日

陸軍大臣 杉 山 元

2010年現在、防衛省における秘密は、同省の所掌する事務に関する知識及びそれらの知識に係る文書もしくは図画(電磁的記録(電子計算機に用いられるものについては、可搬記憶媒体に限る。)を含む。)または物件であって、「特別防衛秘密の保護に関する訓令」、「防衛秘密の保護に関する訓令」及び「秘密保全に関する訓令」の規定により「特別防衛秘密」、「防衛秘密」、「秘」の指定を受けたものをいう。 (3月14日)

軍用航空機事故に関する新聞(雑誌)記事取締に関する件

昭和12年 陸軍省新聞班作成

内容 「軍用航空機事故ニ関スル新聞紙(雑誌)記事掲載ハ往々ニシテ軍事ノ機密ヲ漏浅スルコトアルノミナラズ」として内務省警保局長 警視総監 各庁府県長官 に対して、管下(権力を行使できる範囲)の新聞社に「記事取締り」の通達をするよう指示した。

件名標題(日本語)運用航空機事故に関す る新聞(雑誌)記事取締に関する件
階層 防 衛省防衛研究所 陸 軍省大日記 大 日記甲輯 大 日記甲輯昭和12年
レファレンスコードC01001483300
言語jpn
作成者名称陸軍省新聞班
記述単位の年代域昭和12年5月〜昭和12年7月
規模6
内容警保徴發 陸軍省受領 貮第一三六一号 軍用航空機事故ニ関スル新聞(雑誌)記事取締ニ関スル件 新審第二一号 五月十三日 副官ヨリ参謀本部及教育總監部 庶務課長、航空本部 航空兵団及東京警備参謀長、憲兵司令部警務部長、各軍師団(派遣ヲ除ク)参謀長竝各留守師団参謀宛通牒 本省ヨリノ要求ニ基キ内務省ニ於テ別紙ノ通リ示達セシニ付通牒ス 陸密第四三六号 昭和十二年五月十四日 寫一五五 号外 昭和十二年五月十一日 内務省警保局長 警視總監殿 各庁府県長官殿 新聞記事取締ニ関スル件 左記事項ヲ至急貴管下各社ニ通達相成度 記 軍用航空機事故ニ関スル新聞紙(雑誌)記事掲載ハ往々ニシテ軍事ノ機密ヲ漏浅スルコトアルノミナラズ

 

御菓子料下賜の件

 海軍省航空機実験部所での航空機事故の犠牲者に対する御菓子料(葬儀の際の供物料)の下賜(支給)の申請(海軍省⇒宮内省)に対する 海軍省人事局 からの回答(公文書)コピーを示す。

内容 事故機名、事故の概要、犠牲者の階級・氏名(少佐 船越芳太郎 )を記し、「祭粢料」(神=勇猛な軍人は死ぬと「軍神」と美称されたが当時は軍が公式に指定した、にささげる供物料として、死者の出た家に皇室から贈られた金銭)として支給されるよう海軍省から宮内省に申請していたが、航空機事故なので申請が認められた。今回武官が持参するが発喪(死亡を公表すること)の場合は別途添付した所定用紙にその日時を記入して侍従武官(天皇付きの軍人)に通牒(連絡)するよう、 武官府 から電話連絡があった。御菓子料は武官が持参するとし、東京駅発午後1時、田浦駅着2時22分と伝えている。  田浦駅 は横須賀軍港の最寄り駅で、現在は海上自衛隊の潜水艦隊基地にも近い。

規模48とは「ページ数」と理解できる。原資料(写真)ではこの航空機事故の件に続き、呉軍港での潜水艦遭難事故で祭粢料15円を蘆田勇(死亡)、御菓子料5円を岡本亮太(重傷)に下賜、次に霞ヶ浦海軍航空隊での遭難者2名(中尉)に対する御菓子料各10円を両名に下賜、一方の中尉(死亡で大尉に進級)に祭粢料150円を下賜加えて天皇・皇后より弔電と叙勲あり・・・後略。

件名標題(日本語)御菓子料下賜の件 (2)
階層 防 衛省防衛研究所 海 軍省公文備考類 ⑩ 公文備考等 公 文備考 昭 和 昭 和4年 公 文備考 C儀制 巻8
レファレンスコードC04016570400
言語jpn
作成者名称海軍省||海軍省人事局
資料作成年月日昭和4年10月9日
規模48
組織歴/履歴海軍省
内容昭和四年十月九日 海軍省人事局 宮内省官房宛 祭粢料下賜相成度件照会 横工廠付 海軍少佐 船越芳太郎 右者本月九日航空機実験部所属三年式艦上戦闘機ヲ操縦実験飛行中午前八時五十五分故障ノ為逗子町上空ニ於テ墜落状態トナリ同町池子ニ墜落(機大破)同日死 亡到候ニ付テハ特別ノ御詮議ヲ以テ祭粢料下賜相成候様御取計ヲ得度 (付箋)本件未夕発喪ニ非ス発喪ノ際ハ其ノ時日御通知可甲上ニ付日付ノ部分御記入ノ上可然会御進捗方御願致度候 侍従武官御通牒 (一〇、九、后〇、一五分) 航空機事故ニ付左ノ通侍従武官御通牒アラセラルル旨武官府ヨリ電話通知アリタリ 東京駅発 午後一、〇〇 田浦駅着 二、二二 住山武官ナリ 御菓子料ハ武官持参セラル

 以上は昭和4年、海軍の例であるが小瀬名の犠牲者(昭和19年 陸軍中尉、少尉)への対応はどうであっただろうか。小説「碑」では「軍から石碑の建立費用が出る」、と事故機の処理に当たった中尉が地元民(杉田源吉さんら)に説明しているが、「出た」とは小説には描かれていない。昭和12年には軍事機密に関する新聞検閲が始まっているので、昭和19年では以上のように詳細な事故報告や御菓子料、祭粢料の支給などは公表されていないであろう。      (4月16日)


10、石碑に記された殉職者の経歴

(秋元書房「陸軍士官学校」の「第7部、出身者一覧」より抜粋)

永野 淳 航士56期卒、昭和18年5月26日卒業生計627名。同姓は永野博一。
川辺貞雄 航士57期卒、昭和19年3月19日卒業生計645名。同姓は川辺治人、川辺竜一。
山下豊 航士57期卒、同姓は山下明、山下弘、山下一二三、山下赳夫、山下鉄雄、山下貴、山下智央、山下三郎、山下博晋、山下正巳(片岡)、山下球太郎、山下正。 

関連事項
 同誌P82によれば、56期卒の航士は昭和19年10月 カーニコバル島沖の海戦 で体当たり戦法を最初に行った。士校57期1768名卒業生から航空兵への転科者あり。57期卒業生の大部分が特攻兵。ビルマ、フィリピン、ニューギニア各地域の前戦に旗手、小、中隊長として出陣、戦死者7百数十名を出した。

殉職者の年齢について調査しました。これまで入手した資料では、少尉・中尉は士官学校卒業生であれば22〜24歳、陸大卒少尉であれば21〜22歳です。

http://www003.upp.so-net.ne.jp/kataritsugu/army.htm

http://www2.wbs.ne.jp/~ms-db/other%20data/rikugun%20rank.htm

http://www.office-onoduka.com/nenkinblog/2008/04/post_135.html

調布飛行場での 戦没者一覧 では少尉・中尉殉職者の卒業期は次のとおり。昭和十九年

少尉(航士56期卒業)  中尉(航士56期卒業)

 

厚生労働省社会・援護局が保管する人事関係資料

「消えた年金」問題では「年金記録」が問題になりましたが、 軍人恩給支給の根拠 になる陸軍関係の「人事記録」が 公表 されています。

この資料によりますと、旧陸軍関係の死亡者は約3,412,000人で、死亡者の死亡年月日、死亡場所、死亡状況等の名簿が厚生労働省・援護局に保管されています。この資料は非公開なのですが、この資料を公開する動きが出ていて、あと数年後には 電子化されるとの報道 があります。この資料の中に小瀬名に墜落した殉職者の名前があるはずです。

国と都道府県が保管する人事資料の総計は

※資料:平成20年2月25日厚生労働省社会・援護局業務課(平成20年2月26日衆議院予算委員会提出資料から)

(4月5日)

この稿改定日は2017/07/13、黒字は原文のまま、文字色が緑は追加記入されたもの。

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