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埼玉県陸軍高萩飛行場のデータ(防衛研究所扱いの「陸軍各飛行場における終戦時の保有機種・機数(20,8,31現在))
隼14、疾風92、剣3、九九軍偵4、九八直協1、九五練11、九九高練2、輸送機1、三式指連1
となっており、佐藤氏の記憶(疾風の基地)というのはうなづける。疾風は四式戦闘機の分類だが、機数は下の表( 終戦時に日本本土に保有していた航空機 )では18機と少なく、右の備考欄の記述と一致する。しかし米軍が押収したのは1機のみとする記録もあり、当時の関係者の指摘が望まれる。
出典 船津航空兵器博物館
部 隊 | 所在地 | 部 隊 | 所在地 | 部 隊 | 所在地 | 使用機種 |
第1飛行師団 | 帯広 | 第20飛行団 | 室 蘭 | 54戦隊(戦闘) | 札 幌 | 1式戦×31機 |
32戦隊(襲撃) | 計根別 | 99式襲撃機×9機 | ||||
第1航空軍 | 東京 | 第10飛行師団 | 東 京 | 18戦隊(戦闘) | 松 戸 | |
23戦隊(戦闘) | 印 旛 | |||||
53戦隊(戦闘) | 藤ケ谷 | |||||
70戦隊(戦闘) | 柏 | |||||
第5飛行団 | 西筑波 | 74戦隊(重爆) | 松 本 | |||
第12飛行団 | 高 萩 | 1戦隊(戦闘) | 高 萩 | |||
11戦隊(戦闘) | 高 萩 | |||||
第26飛行団 | 那須野 | 3戦隊(軽爆) | 能 代 | |||
45戦隊(軽爆) | 鉾 田 | |||||
75戦隊(軽爆) | 八 戸 | |||||
第27飛行団 | 児 玉 | 7戦隊(重爆) | 伊 丹 | |||
98戦隊(重爆) | 児 玉 | |||||
14戦隊(重爆) | 新 田 | |||||
第52航空師団 | 熊 谷 | 第1練成飛行隊(戦闘) | 相 模 | |||
39教育飛行隊 | ||||||
第11飛行師団 | 大 坂 | 55戦隊(戦闘) | 佐 野 | |||
56戦隊(戦闘) | 伊 丹 | |||||
246戦隊(戦闘) | 大 正 | |||||
第20戦闘飛行集団 | 小牧 | 第23飛行団 | 小 牧 | 5戦隊(戦闘) | 清 洲 | |
111戦隊(戦闘) | 小 牧 | |||||
112戦隊(戦闘) | 新 田 | |||||
第6航空軍 | 福岡 | 第12飛行師団 | 小 月 | 4戦隊(戦闘) | 小 月 | |
47戦隊(戦闘) | 小 月 | |||||
71戦隊(戦闘) | 防 府 | |||||
第100飛行団 | 高 松 | 101戦隊(戦闘) | 高 松 | |||
103戦隊(戦闘) | 由 良 | |||||
第30戦闘飛行集団 | 熊 本 | 59戦隊(戦闘) | 芦 屋 | |||
62戦隊(重爆) | 西筑波 | |||||
244戦隊(戦闘) | 八日市 | |||||
第16飛行団 | 下 館 | 51戦隊(戦闘) | 下 館 | |||
52戦隊(戦闘) | 調 布 | |||||
第7飛行団(特攻) | 知 覧 | |||||
第21飛行団(特攻) | 都城西 | |||||
第107爆撃集団 | 60戦隊(重爆) | 熊 本 | ||||
110戦隊(重爆) | 隈ノ庄 | |||||
第6飛行団 | 太刀洗 | 65戦隊(襲撃) | 目達原 | |||
66戦隊(襲撃) | 太刀洗 | |||||
2戦隊(偵察) | 福 岡 |
終 戦 前 の 満 州 の 第 2 航 空 軍 | |||
戦闘飛行隊 104戦隊 | 鞍山 | 4式戦 | ※ 97式軽爆×5、戦闘機×21機が使用可能な飛行機である。 ※ 最盛期には、第1線機だけで73コ中隊、800機をそろえていたが 転用につぐ転用で満足な飛行機は払底してしまい、教育隊や修理廠 のポンコツ機を探しまわ って充当した。 |
独立25中隊 | 遼陽 | 2式複戦 | |
独立18中隊 | 奉天 | 100式司偵 | |
教育隊 | |||
1個爆撃隊 | 97式軽爆 |
出典 船津航空兵器博物館
終戦時に運用(飛行)可能な戦闘機は陸海軍合わせても、約3000機程度で、飛行可能な全ての航空機を含めても 約5000機程度しかなかったようだ。 終戦後、連合軍が処分した航空機が約13000機、その数字には飛行可能・飛行不可能な物を全て含んだ数、すなわ ち飛行機と名の付く全ての航空機のことである。 |
陸軍防空任務部隊の保有機(昭和20年5月20日現在) | ||
機 種 名 | 機 数 | 備 考 |
隼 | 22機 | ※ 防空任務部隊で、防空任務以外のその他の任務で 100機保有 ※ 終戦時国内に展開していた陸軍機の総数1750機 及び1712機の記録がある。 ※ 同じく海軍は2337機及び1718機の記録がある。 |
2式戦闘機 | 127機 | |
2式双戦闘機 | 164機 | |
3式戦闘機 | 53機 | |
4式戦闘機 | 18機 | |
5式戦闘機 | 46機 | |
100式司偵 | 35機 | |
97式戦闘機 | 3機 | |
計 | 437機 | |
調 査 時 | 航 空 機 可 動 数 | 計 | 備 考 | |
昭和20年6月現在 | 海 510機 | 陸 280機 | 790機 | 海保有:戦852機、攻・爆423機 |
昭和20年7月現在 | 3496機 | 海:含む陸攻198機、白菊400機 練1440機、その他183機 | ||
昭和20年8月現在 | 海2600機 | 陸 2000機 | 4600機 |
本土決戦用航空機(陸海軍) | ||||||||
戦闘機 | 1170 | 軽 爆 | 636 | 攻撃機 | 266 | 中練習機 | 1900 | |
夜 戦 | 125 | 中 爆 | 197 | 陸 攻 | 197 | 白菊・偵 | 318 | |
戦 爆 | 60 | 重 爆 | 310 | 単発偵 | 70 | |||
水 戦 | 398 | 陸 爆 | 155 | 水 偵 | 348 | |||
その他 | 57 | 水 爆 | 40 | 飛行艇 | 10 | |||
作戦機 2826機 | 練習機 2218機 | |||||||
総合計 5044機 |
終戦時における航空機の状況 (20.8.31 航空本部が集計) | |||||||
戦闘機 | 爆撃機 | その他 | 高練 | 初歩練 | 輸送機 | 計 | |
作戦部隊 | 2240 | 580 | 3330 | 0 | 0 | 0 | 6150 |
訓練部隊 | 550 | 250 | 100 | 500 | 1130 | 0 | 2530 |
予 備 | 110 | 30 | 20 | 20 | 30 | 30 | 240 |
国 内 計 | 2900 | 860 | 3450 | 520 | 1160 | 30 | 8920 |
外 地 計 | 2240 | 580 | 3330 | 0 | 0 | 0 | 6150 |
連合軍が処分した武器類(昭和21年4月18日調査) | |
小 銃 | 歩兵銃:165万丁、騎兵銃:22500丁 |
弾薬量 | 80万トン |
火 砲 | 大砲・擲弾:4万門、臼 砲:12000門、曲射砲:2500門 |
航空機 | 8000機 |
エンジン | 13000基 |
戦 車 | 1325両 |
日本軍機の処分(サムライ達のゼロ戦より)昭和21年12月31日現在 | ||||||
処 分 内 容 | 戦闘機 | 練習機 | 輸送機 | 雑用機 | 滑空機 | 計 |
処分予定機数 | 720 | 1118 | 69 | 10797 | 31 | 12735 |
破壊済み | 511 | 788 | 22 | 8429 | 16 | 9766 |
スクラップ済み | 35 | 39 | 1 | 1016 | 2 | 1093 |
連合軍の活動 | 9 | 0 | 0 | 179 | 0 | 188 |
情報部 | 27 | 0 | 0 | 73 | 0 | 100 |
処分機数合計 | 582 | 827 | 23 | 9697 | 17 | 11146 |
取得機数合計 | 138 | 291 | 46 | 1100 | 14 | 1589 |
※ 処分予定数12735機中、本州(8962機)、九州(2637機) 四国(631機)、北海道(505機) ※ 出典:Reports of General MacArthur,Volume 1 Supplement,P136 ※ 雑用機: 戦闘機、練習機、輸送機、滑空機以外の航空機 ※ 連合軍の活動及び情報部: 計288機は接収され、アメリカ本国等に送られた機数を含む。 ※ 取得機数合計: 未処分機体の数と思われる。 |
鶉野飛行場(姫路海軍航空隊)訪問記 によれば
終戦時に残存した航空機 | |
●紫電57機(筑波空所属機、谷田部空のマークのままの機体も存在した。)、●紫電改13機(他に未完成6機) ●零式練戦3機、93式中練2機、白菊・彗星・銀河・90式陸練・陸軍高連各1機 ※本来筑波空に保有しない機体があるが、それはおそらく、終戦後に他部隊から復員の足がわり飛来・着陸したものと思われる。) ●昭和20年10月頃、紫電57機中3機を飛行可能状態に復元し、アメリカ本土への輸送のため追浜に向け飛行する。 ※米空母「バーンズ」に積載された日本陸海軍航空機の中に紫電7287・7317号機の2機があった。後の1機は積載されていない。 その後の紫電については不明だが、後世にその姿を見せることなく消えていった。 |
との記述がある。この記事の信憑性につて検証するため、防衛研究所扱いの「陸軍各飛行場における終戦時の保有機種・機数(20,8,31現在)のデータと比較してみる。紫電74、彗星1、銀河1、九三中練2、零練戦3、九0機練1、白菊1、陸軍機1。となっており、紫電の数もほぼ一致している。
「破壊された日本軍機」
この本は進駐軍として来日したアメリカ人が著者で、各地で撮影した残存日本機の姿を収めた写真集です。この本では修武台に「入間川航空基地」の呼称を使っています。
細かい事実を全てを確認した訳ではありませんが、狭山、日高、松山、坂戸、児玉といった旧陸軍飛行場に米軍が進駐したのは事実です。これら旧飛行場は敗戦直後、失業者が市中に溢れていたこと、食糧不足が深刻だったことが起因で、概ね市民の自主的行動として9月頃より各地で開拓が始まった模様です。児玉の飛行第98戦隊の宇木索道少佐は、帰る処のない隊員を誘い開拓を始めたそうです。
各地とも、この時代のはっきりとした記録は戦後の混乱から残っていない模様で、あったにせよ信憑性には疑問符がつきます。そんな中、ほぼ唯一の記録と言って良い松山飛行場の記録が残されています。
「黄塵を友として 松山開拓農協五十年の風雪」と題する本です。
これによれば終戦直後から開拓が開始されましたが、ある日突然米軍が進駐、鉄条網を張られ追い出されてしまったそうです。しかし21年1月4日の朝日新聞に「不要な飛行場の引渡し」が発表されたそうです。
要は不要な飛行場を早く日本側に農用地として引き渡すように、ポール中将なる人物が命令したとの内容です。これにより、松山では開拓が再開したそうです。各地とも同じような状況だったと推察されます。
旧陸軍は本土決戦目的から多数の飛行場を作ったものの、進駐軍にとっては無価値な処が多かったのだと思います。松山飛行場の場合、飛行場として使用された記録は戦後に抗戦派の一機が場所を間違えて降りただけで、正式に使われたことがなかったそうです。
狭山や日高の場合、福生や修武台といった大規模飛行場に至近の上面積も狭く、進駐政策上無価値だったのでしょう。特に狭山の場合、福生にあまりにも近く、ニアミスの可能性が考えられます。
敗戦、開拓、工業団地への変遷の過程は、前記「黄塵を友として松山開拓農協五十年の風雪」に詳しく書かれています。自費出版の非売品、著者に連絡をしましたが在庫なしとのことです。
ご覧になりたい方は、東松山市の各図書館にお問い合わせしてみて下さい。ちなみに私は、高坂図書館で閲覧しました。
R299バイパスの入間川の橋付近に墜落したと言われている日本機について、市史(注:入間市)を調べてきました。結果墜落した事例を2件ほど発見しました。
その1(昭和20年4月19日)
所沢飛行場を飛び立った陸軍の二式複戦「屠竜」3機が運悪くP-51、4機と遭遇3機全てが撃墜された。墜落地点はそれぞれ所沢の三ヶ島新田、上藤沢、高倉稲荷西南付近であった。
その2(昭和20年8月10日)
この日、京浜西北地方へ来襲したB-29・P-51戦爆連合のうち何機かが豊岡南方上空で日本軍機と激しい空中戦になった。うち一機の日本軍機が金子村に墜落、民家3戸が焼失。
当時の地名が現在のどこを指すのか推測に困りますが、「R299バイパスの入間川の橋付近」というとやはり金子村の事例に近いのではないかと思います。(高倉稲荷西南というのも多少気にはなりますが^^;)
この日陸軍機が迎撃に上がった、または損害を出したという記録は手元にはなく、厚木の雷電が少数機迎撃したことになっていますので、手元の資料を見る限り墜落したのも雷電なのではないでしょうか?
墜落機については、知り合いからの伝え聞いた情報で、機銃掃射については、西武分館2階に所蔵されている戦時に西武地区で過ごされた方の体験談をまとめた資料からの情報です。
墜落現場が境界なので、狭山なのか入間なのか良く分からないです。
あと、身元が不明な方を埋葬する墓が西武地区にもありましたので、信憑性があるかなっと思いまして・・。 もしかしたら、間違っているかもしれません。
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