このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

〜 雪月花 新撰組異聞外伝 編 〜


〜 初見月から梅見月へ 今は漕ぎいでな 〜


〜 後書き 〜


ここまで読んで頂いてありがとうございます。

ここからは後書きになります。

この物語に登場する歌は、「万葉集 第一巻 八番」です。

「熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎいでな」

ひらがなの読み方は、「にきたつに ふなのりせむと つきまてば しほもかなひぬ いまはこぎいでな」です。

作者は、「額田王(ぬかたのおおきみ)」です。

意味は、「熟田津で、船を出そうと月を待っていると、いよいよ潮(しお)の流れも良くなってきた。さあ、いまこそ船出するのです。」となるそうです。

原文は、「熟田津尓、船乗世武登、月待者、潮毛可奈比沼、今者許藝乞菜」です。

この歌についてですが、斉明六年(660年)に、朝鮮半島の百済(くだら)が、新羅(しらぎ)と唐によって侵略され、日本に助けを求めてきました。

日本は、この支援要請を受けて軍を出立させました。

斉明天皇(さいめいてんのう)、中大兄皇子(なかのおおえのみこ)、そして、額田王(ぬかたのおおきみ)達も一緒でした。

この歌は、九州に向う途中の斉明七年(661年)一月に、熟田津(にきたつ:今の愛媛県松山市)に滞在し、次の航海のタイミングを計っていた時の歌です。

この歌は、字余りになっています。

歌の最後を字余りにする事により、歌に勢いをつけて周りの雰囲気を盛り上げたという説があります。

一説には、斉明天皇の歌とも言われているそうです。

私は「額田王」の歌として覚えていた事もあり、作者を「額田王」として物語を書きました。

後の新撰組の中心となる試衛館の人達が、江戸から京に向かう前と、額田王が歌を詠んだ時期や意味などに、似ている部分が少しあるかなと思いました。

そこで、多摩の試衛館の人達が、京に向かう少し前の物語として書きました。

本来だとこの時期は、当初から天然理心流の門下生ではない、山南敬助さん、永倉新八さん、藤堂平助さん、原田左之助さんなどが、試衛館の食客になっていました。

今回の物語の登場人物を少なくするために、以上の人達も含めて、ほとんどの人が登場していません。

寂しいというか、悲しい話ですが、「試衛館・天然理心流」は、有名な「千葉道場・北辰一刀流」と比べると、世間の評価は低くなっています。

近藤勇さんは武士の身分となっていましたが、武士として認めてくれない人達もたくさんいました。

それは土方歳三さんにも同じ事が言えます。

身分には関係なく、山南敬助さん、沖田総司さん、斉藤一さん、藤堂平助さん、井上源三郎さんなどは、武士と言って良いと思います。

この状況が、後々に悲しい結末を生む事にもなります。

身分と言う壁は現在からは想像もつかないくらい、高くて厚いものだったはずです。

渡しの個人的な考えですが、試衛館の四代目の近藤勇さんが直々に京に向かうのなら、五代目を継ぐ人として、沖田総司さんを江戸か多摩に残していくべきだったのではと思いました。

近藤勇さんは、沖田総司さんを五代目にしたかったという内容の話を、周りの人にしていたそうです。

沖田総司さんが京に行く事になる理由はわかりませんが、性格から考えると、京に行きたいと考えて参加したのだと思います。

もし京に行かなかったら、五代目を襲名して、道場主として結婚をして子供を産んで、歴史に名前が登場する事もなく終わったと思います。

沖田総司さんにとって、どちらが良い人生だったのかなと思いました。

ちなみに、この物語の中で沖田総司さんが書いていた文ですが、「新撰組異聞 短編 渡し忘れた手紙」の中に登場します。

斉藤一さんがどういう形でこの文の存在を知るのか、気になる方は読んでみてください。

一部つじつまが合わないと感じる方がいるかも知れませんが、基本的には独立した物語なので、ご了承ください。

文久二年(1862年)十二月頃に、将軍が上洛のための警護のために浪士などの募集をしたそうです。

文久三年(1863年)に、近藤勇さんを筆頭に試衛館の門下生達は、参加を決めます。

沖田総司さんも一緒に参加をしています。

そして、文久三年(1863年)二月八日に江戸から京に向かって出発します。

斉藤一さんは、沖田総司さん達が江戸から京に向かう頃より前の出来事になると思いますが、江戸で旗本を斬ったために、江戸に居られなくなります。

父親の山口祐助さんと兄の山口廣明さんの助けを借りて、京へと向います。

京では、父親の山口祐助さんの知り合いの男性の世話になります。

斉藤一さんは、知り合いから剣の腕を見込まれて、歳は若いですが、道場の師範代をしていたそうです。

沖田総司さん達が京に向かう頃は、斉藤一さんは道場の師範代をしていた事になると思います。

「初見月(はつみづき)」は、「陰暦正月の異称」です。

「梅見月(うめみづき)」は、「陰暦二月の異称」です。

楽しんで頂けると嬉しいです。





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