このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

新撰組異聞外伝 〜 桜月 花筏に重ねる想い 〜


〜 後書き 〜


ここまで読んで頂いてありがとうございます。

ここからは後書きになります。

永倉新八さんは、原田左之助さんと一緒に、新撰組を途中で抜けます。

永倉新八さんや原田左之助さんが新撰組を抜けた頃は、新しい時代の波が止められない状態となっていました。

新撰組の規則も有っても無いのと同じ状態となっていました。

だからこそ、新撰組を途中で抜けたのに無事だったという事になります。

新撰組を抜けた永倉新八さんは、元新撰組幹部と言う危険な立場が付きまとう事になります。

そんな中を生き抜いて、新しい時代を生きています。

新撰組を抜けてから後の事になりますが、墓碑を建立する筆頭に立ったり、自分の人生の話しをしたり、新撰組の人達の事を話したりします。

新撰組を世間にきちんと知ってもらうために、尽力を尽くしています。

今回の物語に登場していませんが、島田魁さんは、函館まで土方歳三さんに一緒に付いていき、危険な戦いの中を生き残っています。

島田魁さんも、永倉新八さんと同じく、新撰組について知ってもらうための尽力をしています。

藤田五郎さんは会津で新撰組の隊士達と離れましたが、厳しい戦いの中を生き残っています。

藤田五郎さんも新撰組の墓碑の建立を手伝っています。

永倉新八さんと違い、藤田五郎さんの名前が表立って登場する事は、ほとんどありません。

藤田五郎さん自身が、表立って何かをするという事を、元来の性格や武士の時代の出来事も含めて、控えていた事があるとは思います。

藤田五郎さんに関する話は、本人からではなく、家族や周りの人達の話から伝わっている事が多いです。

今回の物語を書く時に、永倉新八さんが藤田五郎さんに会いに出掛けるのに、いつが良いかと考えました。

実は、墓碑が建立されたのは、「明治九年(1876年)」の事になります。

「新撰組異聞外伝」の中には、藤田五郎さんの家には、敬一君が良く訪れています。

藤田五郎さんと敬一君が、いつ頃まで交流をしているかを考える必要があります。

ただ、二人の関係から考えると、藤田五郎さんの家族と美鈴さんと敬一君は、後々に渡って交流があるように思いました。

そこから考えると、永倉新八さんと敬一君が会う可能性が出てきます。

敬一君が歳を重ねていくうちに、沖田総司さんにどれくらいかは別にして似てくる可能性があります。

藤田五郎さんと時尾さんの間には、勉君の他に剛君も生まれます。

諸事情を考えると、藤田五郎さんと敬一君が、出逢って直ぐの物語として設定するのが良いと思いました。

ただし、出逢って直ぐは、敬一君は藤田五郎さんに名前を名乗っていません。

藤田五郎さんと敬一君の関係もはっきりとしていないため、出逢ってから約一年後の出来事という事にしました。

季節的にも冬というよりは、夏や春かなと考えました。

そこで、藤田五郎さんと敬一君が出逢ってから一年後の春と設定しました。

そのため、本来だと、東京の板橋に近藤勇さんと新撰組隊士の墓碑が建立された時期より前の出来事を、後の出来事として物語を書きました。

敬一君を登場させたいと考えた事もあり、つじつまの合わない設定が出ています。

ご了承ください。

ちなみに、永倉新八さんは、維新後は医者の婿養子となり、「杉村義衛」さんと名乗っています。

物語の名前を「永倉新八」さんのままにしたのは、理由としては二つあります。

一つ目は、名前の違う人が物語に登場し過ぎると分かり難くなるので、永倉新八さんのままとしました。

二つ目は、今回の物語は、永倉新八さんは藤田五郎さんに久々に会うので、「永倉新八」さんの方が、藤田五郎さんと本人にとって分かりやすいので、以前の名前を名乗ったという設定にしました。

以上の点、ご了承ください。

「桜月(さくらづき)」は、「陰暦三月の異称」です。

「花筏(はないかだ)」は、「桜が散って水面を流れるのを、筏にたとえた言葉。花の枝を折りそえた筏。」という意味です。

春の季語です。

楽しんで頂けると嬉しいです。





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