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おわりに

 本論文では、旧尾張藩士という、強固に伝統的な背景を持った人たちが開拓した八雲町を例に、そのような文化でさえ北海道に適応した生活文化に変化していった原因は何か解明することをめざした。そうすることによって、今後のわが国における生活文化の変化の将来を占うこともできると考えたからである。

 しかし、では北海道に共通した生活文化とは何かというと、その具体例を示すことはできず、全体像はいまだつかめられていないのが実情である。個別の地区の生活文化に関しての調査研究は、少ないとはいえ近年積み重ねられつつある。しかし、それを超えた北海道地域に共通する生活文化とは何か、という点にまではいまだ到達していないのである。本論文でも、北海道に共通した生活文化とは何かを提示することはできなかった。ただ、人口面で圧倒的に多い東北・北陸出身者の文化がベースになったということが提示できたのみである。

 本論文作成に当たっては、八雲での聞き取り調査・徳川林政史研究所の八雲史料などを活用した。とくに八雲史料は開拓地の行政や日誌など他の開拓地にはなかなか残っていない開拓初期の史料が含まれており、非常に貴重なものである。しかし、閲覧できる日数が限られているため、まだ筆者が読み終えた史料は少なく、本論文で紹介した史料はほんの一部に過ぎない。したがって、これだけでは開拓初期の実態をつかむにはまだほど遠いというのが現状である。

 また、八雲での聞き取り調査も、士族移民の子孫が中心であり、小作人移民の子孫への聞き取り調査は少ない。とりわけ愛知県出身者の小作人移民が昭和初期まで8割以上を占めていた野田生地区においては、愛知県の伝統文化が残存している割合ももっと高い可能性があるが、筆者は野田生地区での調査はまだ行なっておらず、今後は野田生地区での聞き取りも行なっていく予定である。

 八雲は江戸時代には和人地と蝦夷地の境界が置かれ、町の南北で開拓の歴史が異なり、北海道弁が主流の地域と浜ことばが主流の地域の境界ともなっており、その分断の様相が顕著である。また、この地に居住するアイヌの人びとは近世以降ではもっとも和人地に近いアイヌの人びととしていわれるように、先住民族であるアイヌの人びと・江戸時代以前から蝦夷地に暮らしてきた和人・明治以降に入植した開拓移民の3者の接触が行なわれた土地である。したがって、北海道和人社会の生活文化を研究する上で非常に興味深い場所であるといえる。今後もこの地域に着目して、北海道における移民文化の形成に関しての研究は続けていきたいと考えている。

 

 

 

<八雲町関連年表>

 

西暦

元号

北海道・八雲町のできごと

道外のできごと

15961600

慶長年間

ノダオイ場所・ユーラップ場所設置

このころ松前藩成立

関ヶ原の合戦(1600)

1603

慶長8

 

江戸幕府開府

1669

寛文9

シャクシャインの戦い

 

1764

宝暦14

落部村に最初の和人3戸が移住

 

1799

寛政11

幕府、蝦夷地を直轄化

 

1800

寛政12

幕府、亀田以北の6ヶ場所を「村並」とし、山越内を蝦夷地・和人地の境界とする

 

1801

亨和元

山越内関所設置

 

1804

文化元

この頃からユーラップ場所を山越内場所と呼称

 

1821

文政4

幕府、蝦夷地を松前藩に返還

 

1855

安政2

越前大野藩主土井利忠が蝦夷地開拓に出願

幕府、蝦夷地を再直轄化

 

1857

安政4

越前大野藩士浅山八郎兵衛が鷲の巣で開拓事業に着手

 

1858

安政5

6ヶ場所、村並から村に昇格

徳川慶勝・斉昭・松平慶永ら不時登城により謹慎

1864

元治元

 

第一次長州征伐(徳川慶勝総督)

1865

慶応元

落部村でアイヌ人骨盗掘事件発生

 

1867

慶応3

 

大政奉還(10)

王政復古の大号令(12)

1868

 

慶応4

明治元

 

青松葉事件(1月)

戊辰戦争始まる(1月)

江戸を東京と改称(7月)

明治改元(9月)

1869

明治2

開拓使を設置(7月)

蝦夷地を北海道と改称(8月)

 

戊辰戦争終結(5月)

版籍奉還(6月)

官制の改革(7月)

1870

明治3

山越郡は斗南藩の支配となる(1月)

名古屋藩で帰田法を実施

平民に苗字を許す(9月)

1871

明治4

徳川慶勝、愛知県県令になる

廃藩置県(7月)

1872

明治5

 

身分呼称を皇族・華族・士族・平民とする

徴兵告諭(11)

1875

明治8

樺太・千島交換条約(5月)

 

1876

明治9

 

秩禄処分(8月)

1877

明治10

慶勝、吉田知行・角田弘業・片桐助作を北海道に派遣、移住適地を調査させ、遊楽部を移住地と決定

西南戦争(2月)

1878

明治11

「徳川家開墾試験場条例」「郷約」制定(6月)

慶勝、遊楽部原野150万坪の無償払下げを受ける(5月)

最初の移民が操業の鍬入れを実施(8月1日)

大久保利通暗殺

1879

明治12

西洋農具の購入と耕牛の払下げ

徳川義礼が開墾試験場を視察、開墾を奨励

徳川家に鷲の巣の土地25万坪の払下げ

 

西暦

元号

北海道・八雲町のできごと

道外のできごと

1880

明治13

八雲学校開校

集会条例(4月)

1881

明治14

遊楽部・黒岩、山越内村から分離独立(8月)

野田追牧牛舎創設

明治十四年の政変

自由党結成(10)

1883

明治16

吉田知行委員、家令となり上京、後任は海部昻蔵 

派手な生活を改める「定約書」制定

徳川慶勝逝去(8月、59)

 

1884

明治17

徳川義礼英国留学随行の海部昻蔵に代わり片桐助作を開墾試験場委員とする

八雲神社神殿落成(12)

華族令公布(7月)

1885

明治18

直接保護制度廃止、諸制度の改革を断行し、徳川家開墾地と改称(3月)

内閣制度創設、初代内閣総理大臣は伊藤博文(12)

1886

明治19

初の幼年者9人が移住(5月)

松平錦之丞(のちの徳川義親)誕生(10)

大同団結運動(10)

1887

明治20

熱田神宮の分霊を八雲神社に遷宮(3月)

 

1888

明治21

常丹墓地の設置認可(2月)

小作人移住の開始

徳川義礼来場

 

1889

明治22

「八雲村徳川開墾地郷約」発布(7月)

大日本帝国憲法発布(2月)

1890

明治23

「幼年舎」を鷲の巣に移転し「青年舎」に改称

 

1891

明治24

義礼来場

濃尾地震

1894

明治27

返還金を無利子100ヶ年賦とし、土地家屋に抵当権を設定

日清戦争

1897

明治30

川口良昌が川口式澱粉製造法を考案

 

1903

明治36

村内に初めての鉄道開通

 

1905

明治38

八雲片栗粉同業組合認可

ポーツマス条約(9月)

1908

明治41

義親、義礼の養子に入る(2月)

義礼逝去(5月、45)

 

1910

明治43

士族の100ヶ年賦の一時返還と抵当権の解除及び土地家屋の無償譲渡を決定

大逆事件(5月)

韓国併合(8月)

1911

明治44

義親代理として義恕来場

 

1912

 

明治45

大正元

士族移民75戸への無償譲渡完了、残地を「徳川農場」とし、農場長に大島鍛を任命

明治天皇崩御(7月)

大正と改元

1914

大正3

澱粉景気始まる

第一次世界大戦

1915

大正4

「和合会」創立(4月)

義親来場(8月)

 

1917

大正6

義親来場(10)

 

1918

大正7

義親来場(3月)

慶勝が開道50周年記念式典で追彰(8月)

シベリア出兵

 

1919

大正8

町制施行(1月)

第一次世界大戦終結

1920

大正9

義親来場(3月)

「畜牛組合」を組織させ、酪農への転換を計画

国際連盟に加入(1月)

1921

大正10

義親来場(3月)

 

1923

大正12

義親・五郎太(のちの義知)来場(8月)

関東大震災(9月)

1924

大正13

第1回農民美術工芸品評会(6月)

 

1925

 

大正14

義親来場(3月)

北白川宮永久・竹田宮恒徳来場(7月)

治安維持法・普通選挙法成立(3月)

1926

大正15

昭和元

義親来場(3月)

大正天皇崩御(12)

昭和と改元

西暦

元号

北海道・八雲町のできごと

道外のできごと

1927

昭和2

義親来場(4月・5月)

義親来場(8月)

金融恐慌

1928

昭和3

義親来場(4月)

 

1929

昭和4

義親来場(3月)、八雲高等国民学校長に就任

義親来場(9月)

 

1931

昭和6

五郎太、義知と改名(6月)

牛乳騒動

三月事件(義親資金提供)

 

1932

 

昭和7

義親来場(3月)

義親、八雲開墾記念碑落成式に出席(7月)

 

1933

 

昭和8

義親来場(3月)

大島農場長退職、後任は久保田正秋(4月)

義親来場(8月)

国際連盟脱退(3月)

1934

 

昭和9

義親来場(3月)

八雲神社に慶勝を合祀(6月)

義親来場(8月)

義恕夫妻来場(9月)

 

1935

昭和10

義親・義知来場(7月)

徳川美術館開館

1936

昭和11

義親来場(8月)

二・二六事件

1937

昭和12

義親来場(3月)

盧溝橋事件(7月)

上海事変

南京大虐殺(12)

1938

昭和13

義親、松井石根・大川周明らと来場(8月)

国家総動員法公布(4月)

1939

昭和14

義親来場(4月)

 

1940

昭和15

義親来場(3月)

大政翼賛会発足(10)

1941

昭和16

 

対米英宣戦布告(12)

1942

昭和17

義親、第25軍軍政顧問としてマレーに赴任(1月)

義親、昭南博物館長・植物園長となる(8月)

シンガポール占領(2月)

1943

昭和18

飛行場建設のため、八雲神社・農場事務所など移転

 

1945

昭和20

義親、日本社会党顧問となる

義親、侯爵を辞爵

広島・長崎に原爆投下、ポツダム宣言受諾、終戦(8月)

1946

昭和21

義恕逝去

全農地・市街地を解放

義親、公職追放(8月)

日本国憲法公布(11)

1947

昭和22

町内の酪農家が中心となり酪農青年研究連盟(酪青研)結成

日本国憲法施行(5月)

民法改正(家制度否定)

1948

昭和23

徳川農場閉場、「八雲産業株式会社」が継承(10)

極東国際軍事裁判判決

1950

昭和25

義親、10年ぶりに来町(8月)

朝鮮戦争(6月)

1951

昭和26

三千子(義知長女)来町(8月)

義親来町(8月)

サンフランシスコ平和条約・日米安全保障条約調印

1954

昭和29

義親来町(3月)

義親来町(8月)

 

1955

昭和30

義親来町(8月)

自由民主党結党(11)

1956

昭和31

堀田正祥、義知の養子に入り、義宣と改名(5月)

義親、名古屋市長選に立候補するも落選

農林省から「八雲集約酪農地域」に指定

日ソ国交正常化(10)

1957

昭和32

落部村を吸収合併(4月)

義宣、初来町

 

西暦

元号

北海道・八雲町のできごと

道外のできごと

1959

昭和34

義親来町(7月)

 

1960

昭和35

義知来町(6月)

義親来町(8月)

 

1961

昭和36

義宣来町(7月)

義親来町(10)

 

1963

昭和38

義知夫妻来町(8月)

義親来町(8月)

 

1964

昭和39

春子来町(6月)

義親来町(7月)

東海道新幹線開業、東京オリンピック開催(10)

1965

昭和40

義知来町(7月)

日韓基本条約(6月)

1966

 

昭和41

義知来町(3月)

義親・義宣来町(6月)

義親・義宣ら開墾88周年記念式典に参列、

義親は八雲町名誉町民に推挙(8月)

義親胸像除幕式に義親出席(10)

 

1967

昭和42

義宣夫妻来町(7月)

 

1968

昭和43

義親来町(6月)

 

1969

昭和44

義親来町(10月、最後の訪問)

 

1971

昭和46

義宣氏来町(8月)

 

1972

昭和47

義宣氏夫妻来町(7月)

日中国交正常化(9月)

1973

昭和48

ナイキ基地設置反対運動(1月)

八雲産業八雲出張所を八雲営業所と改称

オイルショック

1976

 

昭和51

義親逝去(9月、89)

八雲町主催で義親追悼会を開催、義知・義宣が参列(10)

ロッキード事件で田中前首相逮捕(7月)

1978

昭和53

郷土資料館開館(5月)

開町100年記念式典に義宣参列(10)

日中平和友好条約(8月)

1982

昭和57

義宣・紹子氏(義宣長女)・義崇氏来町(8月)

義知の提言により小牧氏との相互交流始まる

名古屋大学との間で町民ドックはじまる

東北・上越新幹線開通

1983

昭和58

第1回八雲山車行列(6月)

 

1984

昭和59

義宣来町(8月)

 

1985

 

昭和60

義恕の長男義寛、宮内庁侍従長となる

 

1986

昭和61

和合会会則改定、会報『八重垣』発行開始

 

1987

昭和62

義知・義宣・紹子氏来町(8月)

国鉄分割民営化(4月)

1988

昭和63

義宣「八雲立つ」石碑除幕式に参列(7月)

リクルート事件(6月)

1989

昭和64

平成元

義宣来町(5月)

義知・春子来町(7月)

昭和天皇崩御(1月)

平成と改元

1992

平成4

義宣来町(5月)

春子来町(7月)

 

1993

平成5

義知逝去(4月、81)

北海道南西沖地震(7月)

細川内閣発足、55年体制崩壊

1995

平成7

八雲町公民館にて「尾張藩の八雲開拓と文化懐古展」を開催(9月)

阪神・淡路大震災(1月)

地下鉄サリン事件(3月)

1997

平成9

義宣来町(7月)

学習院大学史料館にて特別展「徳川義親侯とユーアップ・アイヌ」開催(11)

 

西暦

元号

北海道・八雲町のできごと

道外のできごと

1998

平成10

義宣来町、開町120年式典に参列(8月)

正子(義知妻)逝去(12月、85)

 

2002

平成14

義宣来町(8月)

義崇来町(9月)

 

2003

平成15

義宣来町(7月、最後の訪問)

「北渡島任意合併協議会」発足(11)

イラク戦争(3月)

江戸開府400

2004

平成16

はぴあ八雲にて徳川慶勝公回顧展開催(7)

 

2005

平成17

和合会創立90周年記念八雲開拓回顧展開催、義崇氏来町

八雲町・熊石町合併(10月)

義宣逝去(11月)

 

2006

平成18

義崇氏来町

 

*小田部1988・横井1984・『八雲町史 下巻』・『総合資料日本史』より作成。なお、現在存命中の人については「氏」をつけているが、あとは敬称を略した。

 

 

巻末史料  尾張徳川家による北海道開拓に関する史料

 

史料1 「八雲村徳川開墾地郷約」(全文) (八雲史料502

 

八雲邨徳川開墾地郷約

 郷約主意書

 我徳川侯此八雲草莢地ヲ開キ我等士人ヲ移ス所以ノモノハ他ナシ当時旧藩無産ノ士族年ヲ逐フテ窮迫ニ陥ルモノ多キヲ見我侯深ク之ヲ哀憐セラレ故旧ノ情誼傍観スルノ忍ビザルノ恩慮ト我侯家ノ富貫尊栄自カラ邦家ニ尽スノ義務ナシトセズ是ニ於テカ家計ヲ節減シテ此事業ヲ興シ以テ聊カ邦家ノ恩ニ答へ故旧ヲ思フノ情誼ヲ述ベントスルノ至誠至仁ニ出ズ而シテ実ニ我等士人ヲ待遇セラルルヤ甚タ厚ク当道拓地移民ノ業ヲ興スモノ多シト雖移民ヲ遇スルノ厚キ他ニ其比例ヲ見ザル所ナリ我等士人之ニ応ジタルモノハ一意ニ勤勉倹素家産ノ基ヲ確立シ子孫長ク相伝へ此八雲村ハ我侯家ノ開ク所尾張士人ノ移リタル跡ヲ世ニ顕著ナラシメ以テ我侯家ノ恩遇ニ答ヘズンバアルベカラズ茲ニ開墾着手巳来十年ノ星霜ヲ経我々移民稍自治ノ緒ニ就クヲ得タルヲ以テ昨廿一年九月我侯家開墾地事務所ヲ廃セラレ我々移民ヲシテ漸ク自治ノ民タラシメントス此ニ於テカ我々移民此地ヲ維持スルノ法ヲ設ケザレバ一家一人ニ於テ身ヲ慎ミ家ヲ守ルト雖トモ闘墾地一場ノ不規律ヨリ一場ノ体面ヲ汚シ甚ダシキハ一場ノ興廃ニ関スルコトナシトセズ因テ当初郷約ノ主意ヲ尋キ即チ爰ニ此郷約ヲ設クル所以ノモノ也

 明治廿二年七月

 

八雲村徳川開墾地郷約

 

第一章                移住人ノ心得

 

第一条  此郷約ハ開墾地ヲ維持シ開墾地ヲ整理センガ為メニ設ケタルモノ也故ニ此規約ノ行ハルヽト否トハ開墾地ノ興廃存亡ニ関スルモノ也我々移民能ク此意ヲ体認スベキコト

第二条          移住人ハ政府定ムル所ノ法令ヲ謹守シ及ビ我徳川家開墾条例ノ主意ニ背戻セザル様心懸クベキコト 

第三条          移住人ハ日夕事業ヲ勉メ家計倹素ヲ守り以テ開懇地ヲ豊富ナラシメ開懇地ノ光栄ヲ挙クベキ様心懸クベキコト

第四条          移住人ハ徳義ヲ重ンジ品行ヲ慎ミ漫リニ自箇ノ私利ヲ営マント欲シ開懇地ノ体面ヲ汚スコトアルベカラズ

第五条          移住人ハ各自何ク迄モ独立ノ精神ヲ立テ自活ノ基礎ヲ定メンコトヲ心懸クルハ勿論ナレトモ亦互ニ一和親睦ヲ主トシ艱難疾病不時ノ災厄ニ遭遇スルモノアレバ相救助スベキコト

 

第二章  移住人徳川侯ニ対スル義務

 

第六条          我侯家ノ恩恵ニ報ズルノ意ヲ表シ一ケ年一戸ニ付黒大豆小豆扁豆?豆ノ内ニテ五升ト移住人一同ヨリ遊楽部川鮭十尾トヲ毎年十二月捧呈スベキコト

第七条          我侯家へ毎年七月十二月両度農事ノ景況詳細報告致スベキコト

第八条          毎年一月一日開懇地監督詰所へ出頭我侯家へ新年ヲ祝スベシ

第九条          毎年四月十五日十月十五日同上詰所へ出頭我侯家ノ安否ヲ問フベシ

第十条          此郷約ハ我侯家ノ認可ヲ経テ実行スベキコト

     但郷釣条款中改正加除スル場合ニ於テモ同様我侯家ノ認可ヲ経ベキコト

 

第三章  役員并ニ開懇地会所ヲ設クルコト

 

第十壱条  開懇地取締リノ為メ左ノ役員并二小使ヲ設クルコト

       一、惣 代  壱 名

       一、協議人  六 名

       一、組 長  未定員

但五戸乃至拾戸家屋配置ノ宜シキニ随ヒ組数ヲ分チ一組毎ニ壱名ヲ置ク

       一、書 記  壱 名

       一、小 使  壱 名

第十二条  惣代人協議人組長互ニ兼務スルコトヲ得ズ

第十三条  惣代人協議人組長ハ都テ無給タルベキコト

      但惣代当撰者ニシテ公務ノ為メ生計ヲ妨クルモノアルトキハ一ケ年金五拾円已下廿円已上ノ報労金ヲ贈ルコトアルベシ

第十四条  書記小使ハ相当ノ給料ヲ与フベキコト

第十五条  開墾地会所ヲ学校側ニ設ケ其合所ニ於テ役員事務ヲ取扱フベキコト

 

第四章  役員撰挙并二任期ノ事

 

第十六条  惣代協議人ハ開墾地金場ノ投票ヲ以テ金場中ヨリ撰挙シ組長ハ各組限り投票ヲ以テ其組中ヨリ撰挙スルモノトス

 但開墾地内ニ村惣代ヲ任セランタルモノアルトキハ別ニ惣代ヲ撰マズ村惣代ヲ以テ兼ルモノトス

第十七条  惣代協議人組長トモ撰挙投票ハ都テ開墾地会所ニ於テ役員立合ノ上開緘スル  コト

第十八条  惣代協議人組長共ニ戸主ニ限ラズ家族ノ中タリトモ披撰挙人クルヲ得ベシ

第十九条  惣代協議人組長トモ年齢廿五年未満及ビ懲役一年以上ノ刑ニ処セラレタルモノ及ビ公費滞納者身代限リノ処分ヲ受ケ弁償ノ義務ヲ終ヘザルモノハ披撰挙権ヲ有セザルモノトス

第二十条  撰挙権ヲ有スルモノハ丁年已上ノ戸主ニシテ地方税協議費ヲ納ムルモノニ限ルモノトス

第廿一条  惣代人協議人組長トモ当撰ノ上ハ止ヲ得ザル事故アルニ非ザレバ之ヲ辞スルコトヲ得ズ

       但若シ止ムヲ得ザル事故アリテ之ヲ辞スルモノアルトキハ本場ノ議会ニ付シ其決議ニ随ヒ許否スベシ

第廿二条  書記ハ惣代協議人協議ノ上之ヲ雇入ルベキコト

第廿三条  小使ハ惣代之ヲ撰択スベキコト

第廿四条  惣代協議人ノ任期ハ二ヶ年トシ協議人ハ壱ヶ年毎ニ其半数ヲ改撰スルモノトス但第壱期被撰人ノ半数ハ其任期一ヶ年トス

第廿五条  組長ノ任期ハ一ヶ年トス

第廿六条  惣代協議人組長満期解免ノモノヲ再撰スルモ妨ケナシ

 

第五章  役員責任ノコト

 

第廿七条  惣代ハ勿論協議人組長共開墾地一場ノ栄枯盛衰利害得失ニ注目シ協議人組長ニ於テ心付キタル件ハ惣代ニ申出ツベシ

第廿八条  惣代ハ開墾地全場ヲ整理シ組長ハ一組ヲ整理スルノ責任アルモノトス

第廿九条  惣代ハ此郷約其他開墾地全場協議ニ由り成り立チタル制規ニ準シ事務ヲ執行スルコト

第三十条  協議人ハ惣代ノ顧問ニ心シ及ビ之ヲ補翼スルコト

第三十壱条 組長ハ惣代ヨリ属托スル事件アレバ之ヲ助クベキコト

第三十二条 惣代ハ村社学校病院開墾地会所ノ維持学林保管道路橋梁修繕改築等開墾地全場公共ニ関スル事務ヲ統理スルコト

第三十三条 惣代ハ開墾地全場ノ戸籍ヲ編製及ビ訂正スルコト

第三十四条 惣代ハ学校病院村社ヲ初メ開墾地全場協議費ヲ以テ支弁スル出納ヲ掌り又ハ調査スルコト

第三十五条 惣代ハ第七条徳川家へ農況報告ヲ取纏メ整頓スベキコト

第三十六条 惣代ハ地租地方税協議費徴集ノ手続キヲ為スベシ

第三十七条 惣代ハ官員及ヒ貴紳来場ノ節之ヲ接待スルコト

第三十八条 書記ハ惣代ノ命ヲ受ケ事務ヲ整理スルコト

第三十九条 惣代不在又ハ事故アリテ差支タル節ハ協議人ノ内ニテ之ヲ代理スベシ

      但協議人ノ内惣代ノ代理スベキモノ豫テ惣代協議人組長ノ投票ヲ以テ撰挙候補者ヲ定メ置クベキコト

第四十条  組長他行又ハ事故アリテ差支タル節ハ組長其組中ノ人ヲ指名シ代理ヲ為サシムベシ

 

第六章  議会ノコト

 

第四十壱条 開墾地ノ規約并ニ協議費賦課徴集金額ヲ製(ママ)定スルガ為メニ開墾地会議ヲ開クモノトス

第四十二条 議員ハ惣代協議人組長ヲ以テ之ニ充ツ

第四十三条 議会ハ通常会臨時会ノ二種トシ通常会ハ毎年三月之ヲ開キ臨時会ハ事ノ至急ヲ要シタル場合ニ於テ之ヲ開設ス

第四十四条 通常会ハ惣代ニ於テ其会期ヲ定メ議員ヲ招集スルコト

第四十五条 臨時会ハ惣代又ハ他ノ議員三分ノ一已上ノ発意ヲ以テ之ヲ開クコトヲ得ルモノトス

      但議員三分ノ一已上ノ発意ニシテ惣代へ申出惣代ニ於テ議員招集開会ノ手続キヲ怠タルコト十日已上ニ及ビクルトキハ発意者ニテ議員ヲ招集開会スルコトヲ得

第四十六条 開墾地全場ノ経費ハ毎年通常会ニ於テ後年度ノ金額ヲ議決スルコト 

第四十七条 通常会ノ議案ハ惣代臨時会ノ議案ハ発意者之ヲ取調ルコト

第四十八条 議会ハ三分ノ二已上ノ議員出度ナケレバ之ヲ開クコトヲ得ズ

第四十九条 議会ノ議論二派已上ニ分レタルトキ同意者過半数ヲ以テ之ヲ決ス二説人員相同ジキトキハ議長之ヲ決ス

第五十条 議会ニ於テ議員ノ発言ハ都テ議長ニ向ツテ之ヲ述ベシ議員互ニ討議スルヲ得ズ

第五十壱条 議長ハ議場ヲ整理スルノ権アルモノトス

第五十二条 通常会ノ議長ハ惣代臨時会ノ議長ハ惣代又ハ他ノ議員ニテ之ニ当ルベシ

第五十三条 前年度経費決算等ハ惣代之ヲ取調へ後年度通常会ニ於テ之ヲ報告スベシ

 

第七章  貯蓄金穀ノコト

 

第五十四条 十八年二月我徳川家誘導ノ主意ニ基キ取り定メタル毎年壱戸ニ付大麦十二貫目馬鈴薯二十四貫目貯蓄ノ件ハ今ヨリ向フ十ヶ年ヲ限リトシ此貯蓄金穀ヲ以テ不時ノ災厄非常ノ凶荒ニ備フベキコト

第五十五条 貯蓄大麦二ヶ年分ハ現穀ヲ以テ蓄積シ餘ハ金ニ換へ駅逓局又ハ確実ナル銀行へ預ケ利殖ヲ図ルベシ

第五十六条 移住人?寡孤独ノ身トナリ或ハ不虞(ママ)ノ災難ニ罹り其身困厄ニ陥り親戚隣保之ヲ助クルモノナキトキハ惣代協議人及ビ其組々長協議ノ上貯蓄金穀ノ内ヨリ一時又ハ日数ヲ限り救恤スベキコト

第五十七条 前条救恤金穀一時限リノモノハ皮麦弐石乃至金五円日数ヲ限り賑恤スルモノハ一日壱人ニ付搗麦三合乃至金三銭ヲ過クベカラズ

第五十八条 非常ノ凶荒ニ際シ家ニ餘資ナク取続キ行届キ難キモノハ貯蓄金穀ノ内ヨリ一ヶ年ヲ限り貸与スベシ其方左ノ如シ

       壱等一人ニ甘皮麦壱石

       二等一人ニ付皮麦七斗

       三等一人ニ甘皮麦四斗

第五十九条 貯蓄金穀ノ取締ハ惣代之ヲ掌り駅逓局又ハ銀行預り証ハ協議人年長者之ヲ保管スベシ

第六十条  貯蓄金穀十九年已下ノ移住者ニシテ其蓄積年数少ナキモノハ今之ヲ補充セシメズ蓄積年限満期ノ上其不足年数ハ尚年々続イテ一年分宛蓄積セシメ補充スルニ至り止ムモノトス

      但後来移住人蓄積ノ方法亦之ニ準スベキコト

第六十壱条 此ノ貯蓄法ニ従ハザルモノハ第五十七条第五十八条ノ救恤賑貸ヲ受ルコトヲ得ズ

第六十二条 家貧困ニ迫り蓄積穀物ヲ納ムルコト能ハザルモノハ惣代協議人其組々長協議ノ上延期ヲ許スコトアルベシ

第六十三条 移住人他方へ転籍スルモノアルトキハ貯蓄金穀元高ヲ割戻シ其殖益ハ分与セザルコト

      但救恤賑貸ノ為メ金穀元高ニ不足ヲ生シタルトキハ其割合ヲ以テ割戻スベキコト

第六十四条 貯蓄金穀出納ハ惣代之ヲ取調べ毎年通常議会ニ於テ之ヲ報告スベシ

 

第八章  開墾地取締法

 

第六十五条 移住人ニシテ開墾地ノ内外ヲ問ハズ結婚スルトキハ豫テ惣代へ届ケ済ノ上履行スベキコト

第六十六条 男女出生ハ三日間死去ハ即日惣代へ届ケ出ツベキコト

第六十七条 農業ノ外新ニ他ノ業ヲ営マントスルモノハ戸主家族ノ別ナク惣代へ届ケ出テ許可ヲ受クベキコト

第六十八条 五日已上旅行スルモノハ惣代へ届くベキコト

第六十九条 移住人居住地内ニ他ノ出稼人ヲ住ハセ又ハ出稼人ヲ雇ヒ入ルヽ時及ビ出稼人立去リ又ハ解雇ノ節ハ五日已内ニ惣代へ届ケ出ツベキコト

第七十条  開墾地ニ飲食店湯屋業旅人宿其他開墾地全場ノ風儀ニ開スベキ業ヲ営マントスルモノアルトキハ開墾地会議ニ付シ其決議ニ随ヒ許否スベシ

第七十壱条 移住人婦女ヲ他ニ嫁スル節結納金又ハ身代金杯ト唱へ婿家ヨリ金員ヲ要求シ売婦類似ノ所業為スベカラザルコト

第七十二条 移住人草?地ヲ焼払ハントスル者ハ北海道庁定ムル所ノ法則ニ拠ルベキコトハ勿論ナレトモ尚ホ其地最寄組長ト惣代ノ許可ヲ受可キコト

第七十三条 村社祭礼初公会ノ節席次ヲ定ムルコト左ノ如シ

      開墾地監督 惣代 協議人 組長 書記 病院世話係 村社年行司 学林監視人 其他年齢ノ順序ニ従フベキコト

      但学校教員病院医員村社祠掌ハ客座ニ待遇スベキコト

第七十四条 此取締法ニ記載セザルモノニシテ旧規アルモノハ其旧規ニ拠ルベキコト

第七十五条 後来移住人ハ此郷約ニ背カザル誓約書ヲ出サシムルコト

 

第九章 懲罰例則

 

第七十六条 懲罰例則ハ徳ヲ傷ヒ義ヲ破り品行不正ノ徒ヲ懲戒スルヲ主トスルニ非ズ此開墾地ヲ整理スル郷約ノ進路ヲ保護センガ為ニ止ヲ得ズ設クル処ノ例則ナレバ犯則者ハ即チ郷約進路ノ妨害者ナリ故ニ厳重ニ処断セザルヲ得ズ移住人何レモ之ニ触レザル様注意スベキコト

第七十七条 本約第六十六条第六十八条第六十九条ノ手続キヲ怠ルモノ及ヒ飲酒酩酊ノ上人ヲ殴打セシモノ過料金壱円已下拾銭已上ヲ出サシムベシ

第七十八条 本約第六十五条第六十七条第七十二条ノ手続キヲ怠ルモノハ過料金壱円已上拾円已下ヲ出サシムベシ

第七十九条 賭博犯窃盗犯ノ刑ニ処セラレタルモノハ三ヶ月已上五ヶ年已下公会ノ席ニ列スルコトヲ許サズ村役員撰挙及ビ被撰挙ノ権ヲ剥奪ス

第八十六条 公費怠納者ハ一ヶ年已上三ヶ年已下公会ノ節末席ニ就クベキコト

第八十壱条 開墾地公共ノ金穀ヲ私ニ使用シ弁債行届カザルモノハ弁債ノ終ルマデ第七十九条同様処分ス

第八十二条 犯則者ニシテ此懲罰例則ノ処分ニ服セザルモノハ其全家皆孤立単行ノ心得ナリトシ開墾地会所ニテ其人ニ対スル一切ノ事件ヲ取扱ハザルモノトス

         但此場合ニ於テハ其人ニ当ル貯蓄金穀ヲ初メ一場共有財産ハ都テ没収スルモノトス

第八十三条 本約第七十条第七十壱条ニ背キタルモノハ第八十二条同様処分スベシ

第八十四条 此懲罰例則ニ照ラシ処分スルハ惣代協議人及ビ犯則者組合組長審議ノ上断行スベキコト

第八十五条 本約発表前ノ犯則者ハ都テ問ハザルコト

第八十六条 犯則者ノ犯跡百ヶ日已後ニ至リ発露セシモノハ不問ニ置クベキコト

         但第七十条第七十壱条ノ犯則者ハ此限ニ非ズ

第八十七条 過料金ハ備荒貯蓄金ノ内へ加入スルコト

 

第十章  定款更正ノコト

 

第八十八条 此郷約定款ハ開墾地議会ノ決議ニ由リ更正増補スルコトアルベシ

 右十章八十八条ハ開墾地監督惣代郷約創定議員伍長審議ヲ尽シ之ヲ創定シ移住人一同々意ヲ表シ各此郷約ニ服従スベキコトヲ誓約ス即チ一同記名鈐印シテ永世ノ証トス

 明治二十二年七月

 

 

 

史料2 「八雲村徳川家農場沿革略」(八雲史料468

 

明治十年七月故祖父慶勝、北海不毛ノ土地ヲ開拓シテ聊ヵ国家ニ貢献シ、兼テ旧名古屋藩士就産ノ一途ヲ開カント欲シ、家職古田知行等ヲ派遣シ開拓使管内ニ適当ノ土地ヲ求メシム。家職等各地ヲ跋渉踏査スルコト約三箇月十月下旬帰京復命スル所アリ。是ニ於テ愈開墾事業ノ有望ナルヲ認メ明治十一年五月官ニ請フテ胆振国山越郡山越内村字遊楽部官有原野壱百五拾万坪ノ無代価下附ヲ受ク。乃同年六月諸般ノ準備ヲ整へ翌七月委員吉田知行等ヲ現地ニ先発セシメテ道路ノ開削、家屋ノ建築等各般ノ手配ヲ為サシメ、其十一月始メテ民戸ヲ之ニ移ス。全戸ノ者拾五戸、単身ノ者拾名是実ニ本場草創ノ移住人タリ。是月移住人ノ中ヨリ四名ヲ簡派シ開拓使七飯勧業試験場ニ現業生トシテ牛馬ノ取扱、西洋農具ノ使用、馬具ノ製作等ヲ実習セシメ、翌十一月ニハ農間副業奨励ノ為製鋼所ヲ設ケ、教師一名ヲ聘シ移住人一同ヲシテ就テ其法ヲ伝習セシム。是年ハ既ニ時期後レタレバ開墾作付ノ事ハ、各戸唯僅ニ大小麦、蕓苔等数畝歩ヲ播種シタルノミニテ早クモ積雪ヲ見ルニ至レリ。

 明治十二年第二回ノ移住民ヲ募集シ、全戸ノ者拾四戸、単身ノ者四名ヲ移住セシム。六月開墾費ノ一部ヲ割キ八雲小学校ヲ設立シ移住人ノ子弟ヲ収容シテ学ニ就カシム之ヲ八雲村教育機関ノ濫觴トス。

 因ニ記ス。八雲小学校ニ於テ最初ニ薫陶ノ事ニ当リシハ植松稲太ナリシガ在職久シカラズシテ明治十四年退職シ、桜井武愷其後ヲ承ケテ教鞭ヲ執り職ニ在ルコト六年、漸次校ノ面目ヲ改メ明治十九年辞職ス。現校長伊藤直太郎ハ即其後任者ニシテ勤続二十余年其ノ職ヲ奉ズルコト猶一日ノ如シ。本村ノ教育ハ戸ロノ蕃殖ニツレ次第ニ発達シテ明治四十二年末ニハ尋常高等小学校壱、尋常小学校五、教育所四、教授所参、実業補習学校弐、合計拾五、男女教員参拾参名、就学児童壱千五百七拾九人、参拾参学級ニ達セリ。

 八月慶勝嗣子義礼始メテ本場ヲ視察シ親シク移住人ニ論スルニ各其業ニ奮励スヘキヲ以テス。同月製麻教師一名ヲ官ニ請ヒ移住人ヲシテ就テ其製造方法ヲ伝習セシム。十月時任開拓使大書記官来テ開墾ノ実況ヲ視察ス。

 明治十三年二月壮年募集規則、移住人子弟分家規則ヲ定ム。八月牧牛会社ヲ設立ス。九月開拓使函館支庁勧業課ノ委嘱ヲ受ケ向フ五ヶ年間ヲ一期トシ、越後国三面川鮭魚天然種育場ノ方法ニ倣ヒ本村遊楽部川ニ於テ天然孵化ノ試験ニ従事スルコトトナル。仍テ一切ノ経費ヲ開墾費中ヨリ支出シ移住人ヲシテ看護ノ任ニ当ラシム。

 因ニ記ス。此事業タルモト勧業課員三田己蔵実況調査ノ結果、遊楽部川ノ三面川ニ酷似スルヨリ特ニ之ガ試験ヲ本場ニ委嘱シタルモノニシテ、爾後五年間移住人ヲシテ保護看守ノ住ニ当テシメ、大ニ斯業ノ発展ニ努メシガ明治十八年八雲村字砂蘭部、遊楽部、鷲ノ巣有志共同シテ一層ノ種育ヲ図リ、明治三十四年ニ至リ人工孵化ノ必要ヲ認メ茲ニ資ヲ募リ組合ヲ組織シ、天然孵化、人工孵化ノ両事業ヲ併セ行フコトトナル。其後孵化場改築等幾多ノ改良ヲ加へ、明治四十二年以後ハ壱千万粒ヲ孵化シ得ルノ設備整ヒ現在本村鮭魚孵化蕃殖組合員ハ壱百弐拾名ヲ算ス。

 明治十四年第三回ノ移住人ヲ募集シ全戸ノ者拾四戸、単身ノ者七名ヲ移住セシム。七月山越内村ノ内遊楽部及黒岩ノ二部落ヲ分離シテ八雲村ヲ置カル。同月曩ニ下附ヲ受ケタル開整地地続キニ於テ更ニ凡壱百参拾万坪追加ノ義ヲ出願シ共許可ヲ得タリ。八月義礼ノ巡視ヲ機トシ黒田開拓長官ノ来場ヲ請ヒ事務所ニ農産物及製作品ヲ陳列シ其観覧ニ供ス。長官深ク其意ヲ諒トシ拓殖ノ成績ヲ嘉トシ洋種牡牛一頭ヲ贈リ以テ授産ノ一助ト為セリ。是月蝗蟲侵害ノ勢アルニヨリ官特ニ練木大学教授ヲ派シ防禦ニ関スル講話ヲ為サシム。是年洋種胤馬壱頭ヲ官ヨリ借入レ土産馬ニ配シ以テ馬種ノ改良ヲ企テ、且麻製造所、水車各壱棟及函館・八雲間物品輸送専用ノ西洋型帆船一隻ヲ造リテ八雲丸ト命名セリ。同年又官ニ於テ水田試験ヲ行フ為官費ヲ以テ用水路開削工事ヲ施行セフル。然レドモ此水田試作ハ不幸ニシテ殆ド無効ニ終リタレドモ用水路ハ今猶依然トシテ存シ澱粉製造ノ原動力ニ利用セラレ幾多ノ水車器械ノ運転ハ皆之ガ余恵ヲ蒙レリ。

 明治十五年五月移住人補欠トシテ単身移住者六名アリ。六月害虫発生シ老幼之ガ駆除ニ努ム。九月山田内務卿ノ巡視アリ。仍テ収獲物及製作品ヲ陳列シテ一覧ニ供ス。其内真綿、生糸、麻ノ三点ヲ宮内省ニ献上ノ趣ニテ買上ゲラル。同月暴風アリ農作物ノ被害多大ニシテ秋作ハ殆ド皆無ニ帰ス。是年移住人ノ子弟及単身移住者ノ中凡ソ拾名、鷲巣耕舎トイフモノヲ設立シ開墾ニ西洋ノ農法ヲ採用ス。

 明治十六年三月委員吉田知行家令ト為リテ上京シ海部昂織之ニ代ル。七月二十八日官慶勝ニ藍綬褒章ヲ賜ヒ八雲村開墾ノ功績ヲ表彰セラル。翌八月慶勝薨シ義礼家督ヲ相続ス。

 九月二日小松官彰仁親王殿下小樽鉄道開通式御臨場ノ御途次森港ヨリ海路御台臨アリ特ニ場内ヲ御一巡ノ後事務所ニ於テ長田書記官ヲシテ令旨ヲ伝ヘシメラル。其要ニ曰ク。札幌御成ノ期既ニ切迫セラレシニモ拘ハラズ殿下ノ本場ニ臨マセラレタルハ当開墾事業ノ漸ク進歩セルヲ聞シ召サレ特ニ路ヲ抂ゲサセラレタルナリ。然ルニ今航海ノ都合ニヨリ全場ヲ緩々御巡覧アラセラルコト能ハズト雖モ其一斑ハ以テ全貌ノ美ヲ知ルニ足ル。爾今以後移住人刻苦勉励倦マズ怠ラズ、益事業ノ盛大ヲ極ムルアラバ啻ニ国家ノ為鴻益ヲ興スノミナラズ亦旧主徳川家ノ光栄ヲ増スモノアラン。諸氏能ク此意ヲ躰シ其業ヲ力メヨ。本官茲ニ殿下ノ旨ヲ承ケ代リテ一言述ブト。移住人一同深ク之ニ感激シ謹デ令旨ニ背カサランコトヲ期セリ。是年耕作物ハ干魃ニ加フルニ飛蝗ヲ以テシ為ニ非常ノ損害ヲ蒙レリ。

 明治十七年一月事務所ノ経営ニ係ル味噌、醤油製造場ヲ開始ス。五月大雨洪水耕地ニ汎濫シ被害尠カラズ。九月安易元老院議官、西太政官大書記官、官嶋農商務大書記官ノ一行来場開墾ノ実況ヲ視察ス。同月復暴雨浸水耕地ノ被害甚シ。同月委員海部昴蔵義礼ニ随ヒ欧洲へ旅行スルニヨリ片桐助作ニ代ル。是年移住人ノ子弟四五名団結シ鷲巣耕舎ト同方法ヲ以テ野田生耕舎ヲ組織セリ。又公立八雲病院ノ設立アリ。之ガ経費ハ開墾費ヨリ支弁ス。尚事務所ノ直営ヲ以テ製藍及馬鈴薯澱粉製造ノ二業ヲ起セリ。

 因ニ記ス。馬鈴薯澱粉製造事業ハ明治十五年移住人辻村勘治澱粉製造機械ヲ東京ヨリ購入シ来リテ之ヲ馬鈴薯ニ試ミタルヲ嚆矢トス。然ルニ資金不足等ノ故障ノ為終ニ中絶スルノ已ムナキニ至リシヲ是年事務所ノ直営トシテ経営スルコトトナリ角田弘業之ヲ担当シ、器械器具ヲ購入シ、水車工場ヲ造リ稍大規模ノ設計ヲ立テ製造ニ着手シタルモ、当時ニ在リテハ澱粉ノ販路甚ダ狭ク製造亦幼稚ナルヲ免カレザリキ。其後明治二十六年吉田知一、小川助次郎等水車ヲ以テ原動力ニ充ツルコトヲ企テ、之ガ製造上ニ一歩ヲ進メ第四回内国勧業博覧会ニ出品シテ有功賞牌ヲ得タリ。是ヨリ八雲片栗粉ノ名世ニ顕ハル。尋テ之ガ製造ニ従事スル者漸ク多ク、各製造方法ニ工夫ヲ凝シ川口良昌ノ如キハ幾多ノ研究ヲ重ネテ器械ニ改良ヲ加へ斯業ニ一革新ヲ与ヘタリ。カクテ明治四十三年末ノ調査ニ拠レバ製造高壱百八拾七万五千斤、此価格金拾壱万弐千五百円ニ達シ本村農産物ノ首位ヲ占ムルニ至レリ。

同年移住人中退場スルモノ四戸アリ。又養女結婚条例ヲ設ク。

 明治十八年三月本場諸制度ノ改革ヲ行ヒ移住人中前途成業ノ見込ナキモノ八戸ヲ退場帰県セシメ爾後在住者ニ対シ一切直接ノ保護ヲ与ヘザルコトニ定メ本年度ニ限リ人頭貸与米ト粟、大麦、大豆、麻ノ四種播種反別ニ対シ壱反歩ニ付金壱円宛トヲ補助シ以テ移住人ヲシテ独立自営セシムルコトトセリ。顧フニ本場創業以来茲ニ八年徳川家ノ保護ニ依リ開墾ノ成績漸ク見ルベキモノアリト雖モ農事経営ノ方法ハ直接保護ノ厚キニ狎レテ来ダ経済的発展ヲ促スニ至ラズ。従テ自主的思想頗ル幼稚ナルヲ以テ之ヲ等閑ニ附シテ自然ノ推移ニ委センカ故慶勝ノ遺志ヲ水泡ニ帰セシムルノミナラズ、併セテ報効ノ至誠ヲ空フスルニ至ランコトヲ憂ヒ片桐委員其衝ニ当リ、万難ヲ排シテ之ヲ決行シ移住人自営ノ計ヲ確立シテ本場ニ一生面ヲ開キタリ。七月成瀬正肥義礼ニ代リテ本場ヲ視察ス。是年退場者ノ補?トシテ弐戸ヲ移住セシム。又従来移住人需用ノ物品ハ事務所附属板倉ニ於テ払下ゲ来リシガ之ヲ廃シ八雲共同商会ヲ設立シ之ニ補助ヲ与ヘテ営業ヲ開始セシム。之ヲ本村ニ於ケル商取引ノ嚆矢トス。尚本場備荒貯蓄ノ方法ヲ定メ移住人ヲシテ毎戸大麦壱俵、馬鈴薯弐俵(馬鈴薯ハ壱俵拾五銭ノ割ニテ之ヲ現金ニ換フ)ヲ積立テシム。同年米沢ヨリ教師ヲ傭聘シ薄荷ノ栽培並ニ製造ヲ開始セリ。

 明治十九年五月全戸ノ者六戸、幼年者九名ヲ移住セシム。蓋シ幼年者ハ思郷ノ念比較的淡泊ニシテ移住地ヲ己ガ天地トナシ一意農耕ノ業ニ従事シ、成績良好ナルヲ以テ本年ヨリ参箇年間毎歳拾名募集ノ予定ヲ立テタリ。九月屯田兵司令長官永山少将、岩村北海道長官、時任理事官来テ開墾ノ状況ヲ視察ス。十二月八雲神社々格ヲ村社ニ列セラル。

 因ニ記ス。当社ハ明治十一年移民ノ際熱田皇太神官ノ神符ヲ請シテ之ヲ八雲小学校ノ一室ニ奉安シ移住人一同産土神トシテ祭祀シ来リシガ、明治十八年ニ至り官ノ許可ヲ得テ別ニ社殿ヲ造営シテ之ニ奉徙シ、明治二十年ニ至り更ニ熱田神官ニ出願シ御分霊ヲ受ケ、同年三月八雲神社ニ遷座ス。而シテ将来ノ維持八本場ノ内五万坪ト片桐助作寄付ノ地弐万坪トノ収入ヲ以テ之ニ充ツルコトトセリ。

 明治二十年五月幼年者八名ヲ移住セシム。六月松平義生義礼ニ代テ巡視ス。十月堀理事官来場視察ス。是年始メテ新冠御料牧場ヨリ牝馬拾五頭、牡牝馬壱頭ノ払下ゲヲ受ケ之ヲ移住人ニ配布飼養セシム。牧馬奨励ノ為ナリ。

 明治二十一年五月全戸ノ者拾四戸、幼年者七名、小作人五名ヲ移住セシム。小作人ハ愛知県ノ農家ヨリ募リシモノニテ此年ヲ以テ其移住ノ始メトス。七月義礼夫人ヲ伴ヒ来リテ実況ヲ視察シ逗留四十余日ニ及ブ。移住人中壱戸マタ退場ス。是年亦新冠御料牧場ヨリ牝馬参拾五頭ノ払下ゲヲ受ケ移住人ニ配布飼養セシム。

 因ニ記ス。牧馬ノ事業ハ明治十四年洋胤馬(農用)ヲ開拓使ヨリ借入レ之ヲ土産馬ニ配シ雑種ヲ得ント企テタルニ胚胎シ、明治二十年同二十一年新冠牧場ノ輸入ヨリ漸次馬種ノ改良行ハレ、方今北海道中有数ノ産馬地トシテ国設種馬所ヲ設置セラルルノ盛況ヲ見ルニ至レリ。本村由来天然ノ地勢牧畜ニ適シ、加フルニ此ノ如ク官ノ奨励アレバ斯業ノ前途ハ益有望ナリトス。明治四十三年ノ統計ニ拠レバ本村内ノ牛馬数牛壱百六拾弐頭、馬壱千参百参拾七頭ニ達セリ。

 是年開墾地事務所ヲ廃シ、開整地会所ヲ置キ本場ニ関スル事務ハ挙ゲテ総代ニ委嘱スルコトトシ、之ガ総監督ヲ委員片桐助作ニ委任ス。而シテ開墾費ノ支出ハ明治二十五年度限リニ止ムルコトニ決定セリ。是移住人制度ノ終期ニシテ経営方法革新ノ時期タリ。

 明治二十二年七月一日郷約発布式ヲ村社ニ挙グ。義礼代理家令海部昂蔵、郡長中村修之ニ参列ス。是本場移住人自営ノ途立チ徳川家ノ保護ヲ離レテ全ク独立シ、将来自治ノ基礎ナルニ至レルヲ以テナリ。即本場ハ茲ニ植民制度ヲ撤廃シテ小作制度ニ改メ移住人ヲシテ自主自営ノ民タラシメタリ。

 明治二十三年七月二条公爵ノ視察アリ。是年小作人五戸ヲ移住セシム。又戸長役場、警察分署、郵便局等ヲ山越内村ヨリ八雲村ニ移ス。由テ行政、警察、通信ノ諸機関茲二備ハリ従来部落的ナリシ本村ハ、面目ヲ一新シテ一大村落ヲ形成スルニ至レリ。

 明治二十四年五月小作人七戸ヲ野田生ニ移住セシム。八月義礼松平申七ト復実況ヲ視察ス。

 明治二十五年五月移住人補欠トシテ参戸ヲ本場ニ、小作弐拾四戸ヲ野田生ニ移住セシム。

 以上ハ本場創業以来十五年間ノ沿革即士族就産時代ニ於ケル事蹟ノ概要ニ過ギズ、而シテ明治三十五年四月山越内村ノ併合ニヨリ八雲村ガ現時ノ如キ大ヲ成シ、尚発展ノ余地アル所以ノ経路ヲ索ヌルトキハ、殆ンド皆此就産時代ノ施設ニ胚胎セザルナキモノノ如シ。其明治二十五年末ニ於ケル植民戸数七拾六戸、人口六百弐人、作付反別四百五拾八町四反参畝拾弐歩ニシテ、創業以来支出シタル経費ノ累計金額ハ金拾六万参千弐百八拾八円余ナリ。爾後十八年ヲ経テ明治四十三年末本場ノ戸数参百拾九戸、人口壱千五百参拾壱人ニ増加シ、初年以来ノ成功地積ハ畑、牧場、山林、道路敷地ヲ合セテ弐千参百八拾五町八反六畝四歩ニ達ス

 終ニ臨ミ八雲村現時ノ状況ヲ概観スルニ広袤参拾七方里余、北東ハ噴火湾ニ面シ、西南山脈ヲ以テ爾志、久遠、太櫓及瀬棚四郡ニ界シ、北ハろくつ川ニ縁リテ長万部村ニ接シ、南東野四生川ヲ隔テテ渡嶋国茅部郡落部村ト相対シ、遊楽部川蜒々トシテ村ノ中央ヲ貫流ス。戸数参千余、人口壱万弐千八百余、村内ニ村役場ノ外小学校、郵便局、警察分署及五個ノ鉄道停車場ヲ有シ、墾成耕地五千壱百余町歩、農林水ノ産物毎年五拾万円ヲ下ラヌト云フ。是ニ於テカ移住人ノ精励能ク先代ノ遺志ヲシテ空シカラザラシメシヲ見ル。亦聖代光被ノ余沢ナリ。仍テ其大要ヲ記述スルコト此ノ如シ。

 

 明治四十四年四月 日                正五位侯爵 徳川 義親

 

 

※ 明治44年8月、皇太子(のちの大正天皇)の北海道行啓に際し、侯爵徳川義親代理として男爵徳川義恕が八雲村の沿革について言上した史料であり、八雲村開拓草創期の事績を伝えるとともに、徳川農場の隆盛と八雲村の発展が密接不可分な関係を示す史料である。

 

 

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1984 「私の履歴書」日本経済新聞社編『私の履歴書 文化人16』 日本経済新聞社

中村英重

 1998  『北海道移住の軌跡—移住史への旅—』 高志書院(高志叢書2)

名古屋市役所

 1915  『名古屋市史 政治編第一』 名古屋市役所

浜島書店

 1992  『総合資料日本史』 浜島書店

林 善茂

 1955  「徳川農場発達史()」『経済学研究』第5号 北海道大学

 1956  「徳川農場発達史()」『経済学研究』第6号 北海道大学

 1963  「徳川農場発達史()」『経済学研究』第13号 北海道大学

原 誠

 2005 「北海道山越郡八雲町の士族移民について」『名古屋大学人文科学研究』第34号 名古屋大学

平井松午

 1989 「北海道移民の定着と移動」『日本の科学者』262号 水曜社

 1997  「北海道への士族移住とその定着状況 —徳島藩洲本城代稲田家々臣を例に—」『徳島地理学会論文集』第2集 徳島地理学会

平野義太郎

 1934  『日本資本主義社会の機構』 岩波書店

北海道編

 1971  『新北海道史 第三巻 通説二』 北海道

 1980  『新北海道史 第九巻 史料三』 北海道

 1981  『新北海道史 第一巻 概説』 北海道

水谷盛光 

1965  『旧尾張藩北海道開拓小史稿』 志賀の舎

1971  『尾張徳川家明治維新内紛秘史考説』 竹田印刷

八雲郷土研究会

 1971  『ゆうらふ』 第8(特集:八雲町酪農史) 八雲郷土研究会

八雲町史編纂委員会

 1984  『改訂 八雲町史 上・下巻』 八雲町役場

八雲町農協四十年史編集委員会

 1991  『八雲町農業協同組合四十年史』 第一法規出版

安田泰次郎

 1941 『北海道移民政策史』 東天社

山田 秀

 1937 『北海道移民の研究』 北海道拓殖銀行金融経済研究会

横井司馬編

 1984  『和合会史』 和合会

和合会

 1986〜 『八重垣』(和合会報)、創刊号〜 和合会

鷲の巣農業協同組合

 2001  『鵬鷲 鷲の巣開拓120年記念誌』 鷲の巣農業協同組合

 

 

 

<本論文で使用した文書史料>

愛知県公文書館

「旧名古屋士族別簿」(旧愛知県文化会館移管文書)

「尾参士族名簿」(原資料:徳川林政史研究所)

 

徳川林政史研究所八雲史料

158 「北海道移住ニ関スル書」

159 「北海道移住ニ関スル書」

163 「北海道移住ニ関スル書」

166182 「移住人別他」

183 「移住人誓約書綴込」

185 「移住人約定証」

295301 「八雲開発史料一」〜「八雲開発史料七」

304364 「日誌」(初期のものは「八雲日記」) 明治11年〜昭和22

408417 「胆振日記」

428430 「みや古日記」 上〜下

431 「杉立正義日誌集」

452 「八雲村徳川開墾地沿革」

455 「移住ノ顛末」

458 「八雲概況」

465 「八雲村開墾場年表」

466467 「開墾地一覧概表」

468 「八雲村徳川家農場沿革略」

478 「今般移住人一同へ御示諭ニ付実施取扱方法条件」

482 「定約書」

483 「牛馬損害手数料規則」

484 「開墾地消費規則」

486 「移住人保護ノ沿革」

494 「伍長選挙法并伍長心得」

495 「八雲村諸子ニ告ク」

496 「移住人郷約」

501 「八雲村開墾ニ関スル書類」

502 「八雲村開墾地申合罰則」

503 「幼年者移住規則」

505 「郷約」

506 「小作約定証」

507 「野田生開墾地移住人規則」

508 「諸規定綴」

544 「八雲神社記録」

549 「八雲神社由緒」

3560 「北山日記」

3696 「避暑館日誌」

 

北海道立文書館

A4/396 「部類抄追録 七 租税 商法 自明治四年至同五年」

簿書2128 「愛知県士族遊楽部移住書類」

簿書2668 「愛知県士族遊楽部移住書類副本」

簿書2972 「愛知県士族移住事件」

 

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