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第6章 考察と結論

 

6-1 故郷の生活文化はどのようにして変化していったか

八雲町は愛知県出身の旧尾張藩士によって主体的に開拓された町であるので、筆者は当初、八雲町で食文化や方言などで愛知県の影響が相当残っているのではないかと推測していたが、実際に2002年から調査を行なった結果、愛知県の文化はほとんど残っておらず、いわゆる北海道に共通した生活文化にほぼ収斂されていたことが判明した。入植から120年以上という歳月は、故郷の文化を消し去るには十分であったようである。その一方で、尾張徳川家に対する尊敬の念は今なお士族移民の子孫たちを中心に根強く残っている。ここでは考察と結論として、愛知県の文化がなぜ残らなかったのか、徳川家に対する尊敬の念はなぜ残ったのかについて、考えることにしたい。

愛知県の文化がほとんど残っていない理由として、筆者は①社会的な事情によるもの、②北海道の実情への適応によるもの、③八雲町の地政学的な位置によるもの、の3つを考えている。以下、その3点についてそれぞれ検討してみる。

 

移民をめぐる社会的な状況

旧尾張藩士による八雲移住は、他地域の北海道移住に比べて格段に恵まれたものであった。移民には移住旅費や家屋建築費などの手厚い保護が与えられ、これらは返済の義務があったとはいえ、30ヶ年賦かつ無利子ときわめて優遇されていたといえる。移住当初の史料では、故郷と変わらない風習が行なわれており、士族独特の風流のたしなみは続けられていた。

しかし、このような風流のたしなみは、開拓を進めていく上では障害ともなった。事実、徳川家による手厚い保護が移民たちの依頼心を助長するとの指摘が出始めた頃の1883年には、徳川家は「定約書」を制定して、生活を質素にして贅沢を戒めることを士族に求めた。筆者は以前、これが故郷の風習を消滅させた要因のひとつであると考えていた(1)が、実際にはこの定約書は法的拘束力を持たないものであり、定約書の制定後も史料等により故郷の食生活や祭りなどが残っていたことが、断片的にではあるがうかがうことができる(2)。むしろ故郷の文化が色濃く残っていた段階から、次第に薄れゆく段階への移行を促したのは、1880年代に行なわれた松方デフレであった。

松方デフレが繭価・米価などの農産価格の下落を招き、農村部の窮乏を招いたため、デフレ政策に耐えうる体力を持たない零細農民が北海道に移住することとなり、結果として明治中期以降の北海道人口の急激な増加の原因となったことは第2章で触れた。しかし松方デフレの影響を受けたのは北海道も同様であった。1894年に徳川家開墾試験場では、士族移民が徳川家に返還する貸与金をこれまでの30ヶ年賦から100ヶ年賦に延長しているが、これは松方デフレによって農産物価格の下落が進んだために、返済が思うように進まなかったためである。士族移民たちは、このころすでに徳川家の保護から独立しており、本州方面の零細農家に比べれば大規模な経営であったものの、松方デフレによって受けた打撃は大きく、このときにこそ故郷の伝統文化を残すゆとりがない状況に追い込まれたのであったといえるのではないだろうか。

さらに1890年代後半以降、松方デフレと関連して八雲へも全国各地から移民が増加している。八雲における小作移民の出身県別内訳は第5章で述べたとおりであり、愛知県出身者の割合が多いことは特徴的ではあるものの、その他は東北・北陸出身者が中心であり、道外の他の地域とほぼ同じ人口構成となっている。また、愛知出身者はほぼ農業移民であり、その他の移民の多くは東北・北陸出身者であったことから、八雲全体で見れば、愛知出身者の割合よりも東北・北陸出身者の割合の方がずっと高いということになる。

加えて、八雲でも南部地区には1801年に山越内関門がすでに設置されており、現在のJR山越駅付近までは和人地になっていた(3)。このため、南部地区ではすでに江戸時代から居住していた人もおり、明治以前に蝦夷地に居住していた和人はほぼ東北北部と似た文化的背景を持っていた人々であったため、後続の東北からの移民も合わせると、東北系の生活文化が多数を占め、それに収斂されやすい状況であったといえよう。

松方デフレから脱却して第一次世界大戦期に入ると、八雲では澱粉景気という、空前の好況を呈するようになる。これに伴い、八雲には道内各地から「芋掘り出面」と呼ばれる日雇い労働者などが収穫期の労働力として流入し、人口も増加している。このような状況下で愛知出身者の人口比率はさらに低下していった。

道内他地域に居住した経験のある人々が流入するということは、より他地域出身者との文化的葛藤・混交を経た経験のある人々が八雲に来住することを意味している。平井松午の研究によれば、北海道への移住者は、道内においても当初は土地選定や労働条件などの問題から、なかなか一つの場所には定着せず、道内で移動を繰り返していた(4)。このことは、他の都府県出身者との文化的接触の機会も増えるということを意味しており、しだいに互いに共通した生活文化の創造を促すことにもなった。これに対し、八雲に移住した人々は移住後の移動がなく同じ場所に定着しているケースが多い(5)が、共通化しつつある文化的背景を持った人々との接触は、故郷から持ち込まれていた文化に確実に影響を与えたといえる。もちろんこれは移民たちの使用することばにも大きな影響を与えた。また、士族移民の場合教養の高い人が多く、なかには札幌農学校などへの通学により八雲を一時離れ、数多くの人々と接した人がいたことも、彼らの話すことばへ大きな影響を与えたはずである(6)

このような状況下でも、ハレの日の文化については残る傾向があった。たとえば、雑煮は地域の特徴を最も表すハレ食であり、現在でも故郷の形態を継承している事例が現在でも多く見られる。また、神社の祭礼や神楽などに故郷の形態が色濃く残っている場合もある。八雲でも、八雲神社の祭典は当初は熱田神宮と同じ形態で行なわれていたことがわかっている。

しかし、こうした状況にさらに大きな影響を与えたのは、生活文化の近代化と第二次世界大戦であった。すでに昭和初期には全国的に近代的で西洋風の暮らしへの欲求が高まり、八雲町もまた例外ではなかった。第二次世界大戦期になると、北海道も例外なく戦時体制に組み込まれ、「贅沢は敵だ」というスローガンに代表されるように全国的に質素倹約ムードが高まり、食生活に関しては食糧の配給制が実施されたことが、道内の食生活の均一化を促進した。伝統的な祭りも第二次大戦の影響を受けた。ことに八雲では飛行場建設のため八雲神社が移転させられたこともあり、神社関連の史料の多くがこのときに散逸したため、伝統的な祭りの継承ができなくなった。例大祭も戦時中は簡素なものとなり、その内容も日本の侵略戦争を賛美するものに変質していった(7)

終戦後になると、寄生地主制の廃止・主権在民などの民主的な改革が実行され、戦時中とは大きく状況が変化した。八雲では徳川農場閉場により、徳川家と八雲との間の経済的つながりは希薄となった。さらに、1950年代後半以降は高度経済成長に支えられ、国民総中流化の流れとともに国民生活の近代化が一挙に進み、伝統的な生活文化は全国各地で失われていくこととなった。とりわけ北海道和人社会の生活文化には、激しい文化変容に抗うだけの基盤が十分に確立されていなかっただけに、激しい文化変容の波をもろにこうむり易い性格を持っていた。このため、高度成長期に道内では故郷から持ち込まれた生活文化の多くが失われることとなったのである。

今日、士族移民の子孫の間で故郷の様式を残す雑煮が途絶えずに継承された家は、筆者が調べた限りではI家1戸のみであった。名古屋式の雑煮とは、醤油味に角餅とモチナ(小松菜)または白菜が入り、上に鰹節を振りかけるだけのきわめてシンプルなものである。肉や野菜類などが入る他地域の雑煮に比べて見劣りがすることは否めず、他地域の雑煮に吸収され易いものであり、他の家庭では豚肉や鶏肉が入ったものが主流である。I家にのみ名古屋式雑煮が残った理由は、I家の系図を見ると理解できる。I氏は現在八雲では数少ない3世代目であり、2世代目である両親とも士族であり、その父・母(I氏の祖父母)いずれとも名古屋出身の士族である。すなわち3代目まですべて名古屋系の血筋が受け継がれており、I家には名古屋以外の系統の雑煮が入り込む余地がなかったのである。これに対し、他の家庭ではいずれも他府県出身者との婚姻などでさまざまな地域に由来する生活文化が持ち込まれているのが普通であり、I家のような事例は調べた中では唯一である(8)。I氏自身も道内出身者と結婚しており、その次の世代からは雑煮等に変化が現れることになるだろう。

 

生活文化の北海道の実情への適応

八雲において故郷の生活文化が失われたのは、これまで日本で伝統的に行なわれてきた稲作が八雲で成功せず、八雲の実情に適応した農業への転換が図られた影響も大きかった。

たとえば、伝統的な日本の生活様式は稲作農業のカレンダーにのっとって運営されてきた。その例は祭りの中に顕著に見ることができ、春祭りは田植えの祭り、夏祭りは稲の成育を疎外する虫除けの祈り、秋祭りは稲の収穫祭という意味合いがあった。江戸時代には為政者は日本全国の土地を米の収穫量によって評価し、それに応じて評価された土地を領土として分配した。農民の税金は米で納められ、武士への棒禄も米で支払われるといったように、日本では伝統的に米が特別視されてきた。このため北海道においても水田稲作の試みが早くから行なわれていたが、八雲では土壌と気候条件の悪さから水田稲作の試みはことごとく失敗し、八雲の実情に適応した農業に転換せざるを得なかったのである。そして、その過程で稲作と関連する祭りの多くは意味をなさなくなったのである。

八雲では、稲作の失敗から馬鈴薯澱粉栽培への移行、澱粉景気の興隆と没落を経て、酪農中心の農業へと変化した。東南アジア・中国・朝鮮半島・日本では伝統的に動物の乳しぼりがあまり行なわれず、食生活にも乳製品を欠いていた地域であり、食生活の大部分を農作物に依存してきた。したがって、牛を飼育する酪農は、それまで日本ではほとんど顧みられてこなかったが、酪農に生活の多くを依存するようになると、食生活の面でも乳製品の摂取が行なわれるようになり、結果として食生活の洋風化も進んだ。また、伝統文化の面でも稲作農業に基盤を置いた伝統的な祭りは意味がなくなり、代わって八雲のように「乳牛感謝の碑」や牛の銅像を建立したり、地域によっては「牛魂祭」を行なったりする(9)というように、牛に感謝の意を捧げるといったことも出てくるようになった。これは稲作農業に由来する祭りから、酪農に基盤を置いた、北海道に適応した祭りへの変化と捉えることも可能であろう。

また、農業以外でも服装や住居などは、愛知県の文化は八雲の実情にはまったく適応していないのは明らかであり、これらは移住後早い時期にすでに北海道の気候に対応したものに改められている。

 

八雲町の地政学的位置と生活文化の変化

八雲町の生活文化の均一化が進んだのはこのほかにも、八雲町の地政学的な位置に影響されたことも多いであろう。八雲町は現在でも渡島半島北部の交通の要衝としての機能を果たしており、日本海側の各町とは国道または(どう)(どう)で結ばれている。また町内をJR函館本線と国道5号線・277号線、そして2006年に開通した道央自動車道が縦断しているので、函館から札幌に向かう際には必ず八雲を通ることになる。日本海側の各町から札幌に向かう際も、八雲を経由する方が早く、必然的にショッピングセンターや大型スーパーなどが建設されて日本海側の各町は八雲の経済圏に組み込まれることとなった。2005年10月に日本海側の熊石町を合併したのは、函館との結びつきが強い南隣の森町や札幌志向が強い北隣の長万部町と異なり、熊石町は完全に八雲と経済的結びつきが強かったからである。

日本海側の各町と八雲を結ぶ道道が開通したのは、1900年の道道八雲今金(いまかね)線が最も早く、次いで1922年には道道八雲熊石線(現・国道277号線)が開通している。これらはいずれも殖民道路として開通したものであり、その目的は開拓地に移住予定者を運ぶためであった。1933年には八雲熊石線を利用したバス路線が運転され(廃止時期不明)、熊石と八雲の経済的結びつきが強まることとなった(10)

北海道開拓の進展に伴って鉄道の必要性も増大した。道内における鉄道建設の歴史は古く、1880年には小樽の手宮(てみや)と札幌を結ぶ鉄道が日本で3番目の鉄道として開通している。これに対し、函館と札幌を結ぶ鉄道が開通したのは不況の影響もあって遅れ、森から八雲を経て熱郛(ねっぷ)まで開業したのは1903年のことであった。八雲村内には野田追・山越内・八雲・黒岩の各停車場が開業している。1904年には熱郛から小樽までの未開業区間も完成し、函館から札幌まで鉄道で行けるようになった。この鉄道は当初、北海道鉄道株式会社の路線であったが、1907年に国有化され、1909年に函館本線となった。鉄道の開通は、大量の貨物輸送が可能にしたばかりでなく、北海道移住者を大量に運ぶことも可能にした。また、徳川家当主等の八雲視察の際にも頻繁に利用されるようになった(11)

この鉄道建設に当たっては、士族移民などからとくに要望が出されたという記録はないが、反対意見が出たという記録もないが、八雲と瀬棚・熊石を結ぶ鉄道路線の建設には強力な誘致活動があったようである。これに対し、落部村では宿場町の衰退を招くという理由から停車場設置の反対運動がおきたために、停車場の設置は遅れたとのことである(12)

上記のような道路網と鉄道網の整備によって、八雲は現在のような交通の要衝としての位置を持つ場所となるに至った。従来の北海道和人社会の生活文化研究では、交通網の発達と生活文化の変化との関係について言及したものはまったくないが、交通網が発達するということは、道内の他地域から八雲への流入や、他地域との交流の際にもより便利になるということであり、他の地域の人々との交流が増えることで結果として故郷から持ち込まれた生活文化やことばなどを均一化に向かわせる原因にもなったといえよう。

 

6-2 旧藩主への尊敬の念はなぜ残ったか

新天地での主従関係はなぜ残ったのか

 旧尾張藩士による士族移民をはじめ、北海道各地に入植した士族移民の多くは入植先でも変わらず主君との主従関係を結び続けた。明治維新で四民平等が謳われ、封建的身分制度が崩壊した後に新天地で新しい生活をするために入植したのにもかかわらず、主従関係が入植先でも続いたのは移住の背景にもよるであろう。

たとえば当別や伊達に入植した士族の場合は、「北門防備」の任務に積極的に応じることによって、戊辰戦争で被せられた「朝敵」の汚名を注ぐという明確な目的があった。士族の前身である武士の本分は戦士であり、俸禄の根拠も軍事的義務にあったが、ロシアの南下という対外的な危機意識の高揚の中で、北門防備のための北海道開拓を行なうのに最も必要とされたのは私的な利害よりも公益を重視する士族のような集団であった。したがって、新天地でも封建的主従関係が続いたのは当然のことであった。

これに対し旧尾張藩士による八雲開拓の場合は背景が異なる。尾張藩は明治維新後に冷遇されたとはいえ、明治維新に貢献した功績は否定できず、徳川慶勝は秩禄処分後多額の金禄公債証書を授与されて全国有数の資産家となっていた。しかし、士族の生活は逆に困窮していたので、徳川家の莫大な遺産を使って士族授産のために移住させたのであった。しかし、これまで戦士として主君に奉公してきた士族にとって、主君の保護によって移住することは恥ずべきことであり、士族移民たちにとって移住の理由とはあくまでもロシアの脅威に備えるためであった(13)

 移住先では、士族移民に手厚い保護が加えられた一方で、厳しい統制も加えられた。しかし、士族移民たちはその統制を嫌うのではなく、むしろ手厚い保護をしてくれたことへの感謝の念と、主君への忠誠心を持ちつづけた。後年、士族が完全に徳川家の手を離れたのちにも和合会を結成して徳川家の高恩を記念したのは、士族移民たちの徳川家との主従関係が強制されたものではなく、開拓初期に手厚い保護を与え自立を促してくれたことへの自然発生的な感謝の念によるものではないだろうか。

 また、1878〜84年の間に徳川家が支出した開墾経費は合計11万9620円33銭3厘という巨額であり、これに対し当時の農業純益は2500円程度しかなく、赤字が膨らむ一方であったことは先にふれた。この傾向は徳川農場になってからも続き、たとえば1920〜31年の12年間における徳川農場の収支のうち、黒字になったのはわずか5年であり、1930年には1万円近い赤字となっているといういわば「放漫経営」である(14)。このような富豪の道楽に近い農場経営が行なわれたことは、徳川農場の起源が士族を何とか授産させようとする主君の使命感にあったからではないだろうか。

 さらに、他の小作制農場では頻発していた小作争議も、徳川農場では一度も起きていない。同じ八雲でも、農場主が一方的に小作契約の解除をした農場では小作争議が頻繁に起きているし、1931年には農民が乳業会社の一方的な乳価の引き下げに対して農民団結派と会社擁護派に分かれて争う牛乳騒動が起きている。このような中で徳川農場が小作争議と無縁だったのは、ひとえに徳川農場主であった徳川義親の人柄と、彼が農民生活向上のために果たした功績の大きさに負うところであろう。また、徳川農場が八雲の発展に果たしてきた功績は、酪農への転換・熊彫りの奨励・学校や家屋の建築など枚挙にいとまがないことは否定できない。現在も徳川家への尊敬の念が残る理由のひとつとしては、八雲町の発展に果たしてきた徳川家の役割に対する感謝の念が町民の間に残っているからであろう。

 

明治維新と主従関係

 それでは、徳川家はなぜこれほど士族移民に巨額の資金を投入したのであろうか。すでに明治維新後、四民平等が謳われ、法的には徳川家と旧臣の間に何ら身分の差のない時代になっていた。ところが、実際には法的に身分差がないとはいえ、「華族」「士族」「平民」というカテゴリーが創設されたことによって、この3階層間の意識的な階層差は根強く残り、平民と士族との間の結婚が容易には認められないなど、意識の上で家柄や家系を重視する考え方が支配的であった。したがって、明治初期の段階では維新後まだ日が浅いこともあって、旧藩主と旧臣の間の主従関係はなお色濃く残っていた。依然として旧臣は何とかして旧藩主の御恩に報いることを考えていたし、旧藩主もまた生活に困窮する旧臣を何とか救おうと考えていたのである。そこで徳川家では帰田法を実施したが、これは政府の事情により頓挫したので、帰田法に代わる士族授産の手段として北海道開拓を考え、徳川家の家名にかけてこれを成功させよういう強い使命感を持っていた。

同じように、旧臣の旧藩主への忠誠心は新しい時代になっても容易に消えるものではなかったし、旧藩主の旧臣への責任感も強く残っていた。徳川家が士族授産に力を注いだのも、それまでの封建的主従関係からすれば主君の義務と呼べるものであった。この結果、旧藩主と旧臣との間の主従関係が色濃く残っていた時代に士族中心の移住が行なわれた北海道では、江戸時代と変わらない主従関係をもった入植地が形成されることとなった。とくに八雲の場合は、主君もともに移住し、開墾に汗を流した伊達士族と異なり、徳川家はあくまでも不在地主であり、農場主として1878年から1948年まで八雲における主君的な存在として移民たちに様々な恩恵を与え、主君としての義務を十分に果たしていたことも、主従関係が長く続いた要因である。

戦後になると、華族制度は撤廃され、華族・士族・平民というカテゴリーも撤廃されるようになった。また、寄生地主制の廃止により徳川農場は閉鎖され、その後は八雲産業社長として徳川家の八雲への関与は続くが、徳川家が経済的に八雲に恩恵を与えるということは、徳川家の財力が低下したことによりなくなった。しかし、戦後数十年が経過し徳川農場時代の記憶も薄れてくるようになっても、徳川家に敬意を払う八雲町民は多かったが、その敬意の内容は、主従関係というよりも、八雲のルーツである人への親しみに近い感情に移行していった(15)

北海道開拓100年を迎え、各市町村で開拓のルーツを伝えようとする動きが盛んになってきた1970年代になると、八雲町も最初の士族移民が鍬入れをした日を開町記念日に制定して、徳川家によって開かれた町の歴史を郷土学習で教えるなどして徳川家を八雲の象徴として位置付けるようになった。現在でも徳川家当主の講演会には多くの人が集まり、依然として八雲開拓のルーツとして徳川家は一定の敬意を払われている。

筆者は2002年に、前当主の義宣氏(2005年没)から話を聞いたことがある。それによると、現在の八雲産業八雲事業所の経営状況は非常に悪く不採算事業であり、撤退すれば経営は好転するのであるが、それでも八雲での造林事業を続けているのは、この事業から撤退することは八雲から徳川家が完全に手を引くことであり、それは徳川家の沽券にもかかわることだということであった。これは現在でもなお旧御三家としてのプライドを強く持っていることを意味している。分家の当主が主従ともに移住した伊達や当別の場合と異なり、八雲は江戸時代まで絶対的な権威を誇っていた徳川家が開拓した土地であり、戦後になって完全に封建的制度が否定されたとはいえ、そう簡単に八雲から手を引くことなどはできないというのが、現在の徳川家の八雲に対するスタンスであるといえる。現当主の義崇氏も同様の考えであり、今後も徳川家と八雲の関係は続いていくものと思われる。

 

6-3 むすび

 2007年現在、旧尾張藩士による八雲開拓から129年が経過し、士族移民が故郷から持ち込んだ生活文化は、その多くが北海道和人社会全般に共通する文化に一本化されつつある。北海道和人社会全般に共通する生活文化とは、北海道に最も多くの移民を送り込んだ東北・北陸出身者が持ち込んだ生活文化をベースに、四国や岐阜など他府県出身者が持ち込んだ文化が混交し、文化的葛藤を経て、やがて互いが妥協した上で成立したものである。

今日の北海道では、冬期の保存食として北陸・東北系と共通する「いずし」が広く分布したり、新潟県出身者が持ち込んだ笹団子が他府県出身者にも受け入れられたりするなど、その起源にかかわらず北海道の実情に適応したものは受容される傾向がある。この理由として、移住後代を経るにしたがって故郷への念が薄れ、「北海道民」という意識が支配的になり、故郷の生活文化を残すことに執着しなくなることも挙げられるのではないか。たとえば、八雲への士族移民も1世代目は名古屋生まれであるので故郷への思いは強いものの、八雲生まれの2世代目以降は八雲を故郷と考える人が増えたのは当然のことであった。3世代目以降になると、他地域出身者との交流が増えたため名古屋弁も話されなくなり、名古屋とは経済的つながりも薄くなり、八雲町における旧尾張藩士の開拓も歴史の中に埋もれるかに見えた。

しかし、開拓100年を迎えた頃から全道各地で開拓の歴史を見つめなおす動きが盛んになり、八雲でもこれをきっかけに愛知県との交流が続けられている。この交流に参加している人々は、愛知出身者の子孫だけとは限らない。東北・北陸出身者の子孫であっても、交流事業に参加している人もいる。これは、開基100年を迎え、八雲町に住む人々の中に個々の出身地にかかわらず、八雲町民の一人として、八雲開拓のルーツである愛知県との交流を積極的に捉える傾向が増えているからであろう(16)。同様の傾向は、新十津川町などでも見られる。新十津川町では現在、奈良県出身者の子孫は非常に少なく、富山県出身者の子孫が多く居住している。にもかかわらず、奈良県十津川村との交流は盛んに行なわれている。これも各自の出身地にかかわらず、個々の町民に新十津川町民であるという意識が芽生え、この地を開拓した人々の故郷との交流を大切にしたいと考える町民が増えたためであろう。

こうした郷土意識の高まりとともに、北海道和人社会研究も徐々に行なわれるようになってきている。かつて民俗学が日本に置いて芽生えた時、それは明治以降の欧米からの物質文明の無差別的な移入に対するアンチテーゼという側面が強かった。しかし、そのとき北海道はその対象外とされ、北海道和人社会の生活文化の全貌はほとんど把握されることはなかった。この傾向は現在でもそれほど変わっておらず、個々の町村の個別的な生活文化研究は進められているものの、それを超えた全道的に共通する生活文化とは何かについて考察した研究はまだほとんど行なわれていないのが実情である。本論文でも、それを明らかにする段階にはまだ到達してはいない。

現在、わが国では情報化社会の進展・技術革新による生活文化の急速な変貌によって、過去の民俗文化が急速に失われつつある。とりわけ北海道では伝統的に和人社会の研究蓄積が少ないこともあって、いったん失われたものを復活させるのは難しい状況であり、その空白を埋めるための作業を短期間で行なうことが求められているといえるだろう。

 

 

<註>

(1)         原2005、23頁。

(2)         八雲史料304〜、「日誌」等の記述による。

(3)         士族移民が入植した山越内村遊楽部は山越内関門の北に当たり、蝦夷地となっていた。また、山越内関門から少し南に下ったところが和人地・蝦夷地の境界に当たり、山越内関門は蝦夷地側にあった。

(4)         平井1989。

(5)         第5章表14参照。立岩地区では入植後定着した農家が多く、とりわけ愛知出身者の定着率はきわめて高い。

(6)         現在、士族移民の子孫で和合会会員となっている64名のうち、八雲町外に居住しているのは20名であり、うち9名は道外居住である。また八雲町外の道内に居住する11名のうち7名は函館・札幌近郊に居住している。これは、現在基幹産業である酪農が不振ということもあるが、士族移民の子孫たちが教育熱心であり、大学進学・就職などで八雲町に残らないこともその理由である。新十津川町に入植した奈良県十津川村出身郷士移民の子孫たちも同様の理由から現在新十津川町にはあまり残っていない。

(7)         前出「日誌」の記述による。「日誌」によれば八雲神社では紀元節や天長節の祭典や、戦争勝利を祈る祭りなどが戦時中には盛んに行なわれている。

(8)         鷲の巣125周年記念誌『鵬鷲』による。

(9)         本多勝一『北海道探検記』(集英社文庫、1981年)の根釧パイロットファームのルポに「牛魂祭」に関する記述があり、本多は「牛を単なる生物としてドライに放牧できず、家族の一員のようにしてやっている日本的酪農。カルチュアとは、おそろしいものだ。」と感想を述べている(220頁)。

(10)      現在も八雲から熊石経由で江差まで2時間で結ぶ路線バスが1日2往復運転されており、八雲で特急列車に接続することから利用率が高い。

(11)      前出「日誌」の記述によれば、徳川家関係者が来場するときは午後3時7分着の急行列車がよく利用されていた。おそらく前日夕方に上野を出発し早朝に青森に着き、青函連絡船を利用するとこの列車に間に合うものと思われる。

(12)      聞き取り調査による。

(13)      この歴史観は『和合会史』などにも現われている。

(14)      林1963、122-123頁。

(15)      八雲町にある徳川義親胸像には親しみをこめて、ただ単に「徳川さん」とだけ文字が書かれている。

(16)      現在、八雲町物産フェアで名古屋に来る町民は、海産物販売などが主体であるため先祖が愛知県出身者は非常に少ないといえる。

 

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