はじめに
北海道和人社会の研究の現在とその意義
北海道は、日本の面積のおよそ5分の1を占める広大な大地である。この大地が北海道と呼ばれるようになったのは明治以後であり、それ以前は「蝦夷地」と呼ばれ、道南のごく限られた狭い地域に一部の和人が居住していたことをのぞけば、その大部分は先住民族であるアイヌの人びとが住む大地であった。
現在、北海道の人口は約570万人であるが、先住民族アイヌの人びとの約5万人(推定)と、江戸時代以前から北海道に居住していた和人の末裔をのぞけば、その人口の大部分は明治以降、新政府の北海道開拓政策によって本州方面から移住してきた人々の子孫である。
現在の北海道和人社会の生活文化は、全国各地からの移民によって形成されている。移民のうち、6〜7割は東北または北陸地方の出身者であるが、それ以外にも全国各地から広く移民が集まっている。したがって、現在の北海道は、故郷を異にする人々がもたらした背景を異にする生活文化がしだいに北海道に共通した生活文化に融合していく過程をリアルに把握できる地域としての特徴をもっている。
ところが、現在の北海道に関する文化人類学的・民俗学的な研究を概観すると、北海道における文化人類学的な研究は、アイヌの人びとに関するものがほとんどであり、北海道の人口の大部分を占める和人の文化や社会を研究対象として位置づけた研究は非常に少ないということがいえる。その理由としては、次の2点が挙げられるのではないかと思われる。
第1に北海道開拓は、明治以降になって官主導で強力に推進されてきたために、北海道に関する研究も、北海道開拓政策に貢献するものが優先されたことが挙げられる。たとえば、北海道大学の前身は札幌農学校であり、北海道開拓を推進する上で必要不可欠な農業の知識を身に付けさせることが目的であった。
第2に民俗学研究においては、その目的が日本文化の祖形を追及する立場からの研究が中心であったことが挙げられる。この立場からすれば、アイヌの人びとの生活文化に関する研究は研究対象となりえても、北海道和人社会の生活文化は明治以降に道外からの移民によって急速に形成されたものであり、本州の伝統社会とは根本的に性格が異なるものであるので、まったく視野の外に置かれ、これまで北海道の和人社会が論じられる場合、道外の伝統的な社会とはまったく切り離された形で論じられることが多かった。 しかし、今日の北海道和人社会は、道外の伝統的な社会に居住していた人々が移住してきて成立したものであることを考えるとき、北海道和人社会と道外の社会は本来密接不可分なものであり、この2つをまったく無関係なものと考えることはできないはずである。
また、北海道和人社会に限らず、これまで日本の伝統文化は、地域的特質を残しつつも、絶えず他地域の文化との接触を繰り返しつつ形成されてきたが、北海道和人社会は、その変化がほぼ明治以降からであり、道外の伝統的な社会にくらべて、生活文化の変化の過程をより生々しく把握できる地域という特徴をもっているといえる。
したがって、北海道和人社会における生活文化の変化を考えることは、今日急速に均一化されつつある日本の伝統文化が今後どのように変化していくかを占うときの、有効な資料を提供しているともいえると思われる。
そこで本論文では、北海道への移民のなかでも、道南の八雲町への旧尾張藩士の移住を取り上げる。なぜならば、八雲町は道内でも数少ない、東北・北陸出身者が主体とならずに町づくりが進められた町であり、その主体となったのは、もっとも江戸時代以前の道外の伝統的な社会と切り離して考えることのできない尾張徳川家とその旧家臣団だったからである。このような独特の歴史的背景を持っている八雲町ですら、今日では道内の他の市町村と生活文化のレベルではそれほど大差のない社会が形成されている。強固に伝統的な背景を持っていながら「北海道風」の生活文化へと変化を遂げていった八雲町の経験は、「北海道風」の生活文化へ変化させる力がどのようなものであるのかよりわかりやすく把握できる道内でもっとも適した地域であるといえるであろう。
本論文では、第1章でこれまでの北海道移民に関する研究を簡単に振り返り、第2章では北海道開拓政策が行なわれた時代背景・開拓の方法についてごく簡単に考察する。第3章では移住の背景、第4章・第5章では移住後の生業や生活文化の変化について述べ、第6章で考察を行なう。
八雲町の概要と八雲史料について
北海道渡島支庁管内二海郡八雲町は、函館の北約70キロ、渡島半島北部の内浦湾(噴火湾)沿岸にある町である(図1)。八雲町の主要な産業は、酪農と漁業であるが、官公庁と航空自衛隊があることから公務員の比率も高い。八雲町の人口は最大時で約2万8千人を数えたが、基幹産業である酪農の不振などもあって、現在では減少傾向が続いている。2000年の調査では1万7636人にまで減少したが、2005年10月1日に隣接する爾志(にし)郡熊石町を合併したため2万人台を回復している。しかし、八雲町は国道5号線から檜山管内各地を結ぶ幹線道路を分岐する交通の要所であり、官公庁の出張所があり、大型購買施設なども充実しているなど、人口規模の割には都市基盤がよく整備されており、渡島半島北部の中核都市的な役割を果たしている。なお、本論文では、合併以前の旧山越郡八雲町の状況についてのみ述べることとし、旧熊石町に関してはとくに触れないこととする。
八雲という地名は、1878年に旧尾張藩士をこの地に移住させた旧藩主徳川慶勝が1879年に名づけたことによるものである。これ以降、この町と尾張徳川家とは現在に至るまで密接な関係が続いている。
筆者は、2002年6月以来、八雲町に頻繁に訪れ、聞き取り調査を実施してきた。さらに、尾張徳川家が運営している徳川林政史研究所には「八雲史料」と呼ばれる史料があり、八雲開拓の歴史に関する貴重な史料がいくつも収められている。筆者は2004年夏以来、徳川林政史研究所所蔵の日誌・日記類や規約等綴込などを閲覧しており、本論文作成に当たっても、八雲での聞き取り調査に加え徳川林政史研究所所蔵八雲史料を活用している。なお、八雲開拓に関する史料はこのほかの場所には所蔵がほとんどないが、関連する文書が北海道立文書館所蔵文書・愛知県公文書館所蔵文書にあったため、これも活用している。
なお、八雲史料は膨大な数が残されていながら閲覧できる機会が限られるため、筆者はまだそのほんの一部しか目を通していない状態であり、すべて閲覧するには相当の年数がかかることが予想される。したがって本論文でもいささか説明が不十分に感じられる箇所は多いであろう。今後の解読作業の進展によって、この論文の内容が変わる可能性もあると思われる。
(図1)八雲町位置図