このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

浪江森林鉄道 特別編

第五号隧道 3

〜その名は大笹〜

 

 

浪江町側坑口から葛尾村側の坑口を見る。

 

ちょうどいい時間に来た。太陽の光が僅かに差し込み隧道内に反射している。

 

これならさほどの恐怖を感じずに戻る事が出来るだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

隧道の浪江町側の地面(道床)を良く見ると、一面水びたしだ。水溜りなどではなかった。

 

隧道に入ったという緊張感で足元の感覚を確かめるほど行く時は心の余裕が無かったのかもしれない。

 

水に手をつけてみる。山という自然で充分に濾された水はかなり冷たい。

 

飲んでみようか…実際、喉がからからなのだ…

 

しかし、こんな山中で生水を飲んで腹を壊しても情けないので自重した。

 

 

 

 

 

隧道の側壁の下方は、数箇所で小規模な崩壊が見受けられた。

 

この画像の場所では灰色の大きい岩石が堆積している。

 

私は岩石や地層の知識には明るくないので、詳しい事を述べるのは控えたいが、第五号隧道はいつか崩壊して自然に還るのだろう。だが、それはもう少し先のことになるだろう。

 

だからと言ってゴミを捨てて良いとは言わないが…

 

 

 

 

 

 

隧道に入ったときから感じていた違和感。

 

「隧道は浪江に向かって狭くなっていないか?」

 

隧道の中間地点。例の横坑の少し葛尾村側の隧道の上面をよく見ると、いきなり断面が縦に50cm程狭くなっていた。気のせいではなく本当に狭くなっていたのだ。

 

見るからに硬そうな岩だ。ツルハシの跡が刻まれているようにも見える。隧道掘りの職人さんはここで「ごせあげた」(諦めた、呆れたの意味)のだろうか?

 

100年ほど前にこの場所で職人の怒号が響き渡ったのだろうか。

 

 

 

 

何ゆえ第五号隧道はこの地点に穿たれたのだろうか。

 

この隧道付近の森林鉄道の開通が大正6年(1917)年とすれば、この隧道は大正5(1916)年頃から掘られたのではないだろうか。

 

およそ100年前のトンネル掘削技術はどのようなものだっただろうか。地質調査も当然あっただろうが、この様な山間の辺境地では隧道掘り職人の経験と勘が頼りだったかもしれない。

 

結果的に職人の勘は大正解だった。今でも閉塞などの致命的な崩壊は見られない。

 

 

 

 

 

葛尾村側坑口から20m程行ったこの場所が最大の崩壊部分だろう。

 

一見モルタル吹付けか?と思わせるほどコンクリートに良く似た色合いの岩石が積み上がっている。

 

風化すると脆い成分で出来ているのだろうか。それとも隧道開通当時からこんな按配で崩壊を繰り返していたのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

葛尾村側の坑口は不可解な処理が成されている。

 

この中途半端な土砂の堆積は何であろうか。自然の崩壊とは思えない。人為的なものであろう。

 

入る時に見た金網とのコンビネーションで隧道内への無用の進入を防ぐ算段があったのだろうが、金網がお役御免となった今では逆に隧道へのまたとないアプローチ道と化している。

 

本来の道床は今私の立っている高さだろう。

 

葛尾村側の坑口大きさが窺い知れよう。

 

 

 

 

本日のベストショットはこれに決定。

 

隧道の坑口という額縁に囲まれたキャンバスに、自然と言う名の筆が思うがまま自由な風景を描いている。

 

一日一秒として同じ作品は無い。紅葉や落雪の時期に訪れたならばどれだけ素敵だっただろうか。

 

最後に良いものを見させて頂いた。隧道を穿った人たちに感謝。そして生きて(大げさな事ではなく)帰ってこられたことに感謝。

 

さあ、普通の世界に戻ろう。

 

 

 

 

 

ちょっと来るのが早すぎたか。来月(11月)ならば超絶の素敵な景色になる。…多少の後悔を思いつつも私の心は晴れやかだ。

 

私のHPを誰も見て頂けないのならばここに入るのは躊躇したかも知れない。しかし、HP開設1年半。予想以上の10000ヒットと言うご支援を頂きこの隧道に入る決心がついた。

 

この隧道の不思議な景色を皆さんにお伝えしたかったのだ。私のHPを見て頂いた全ての人に感謝します。

 

あと、この隧道に関してやり残した事が一つ…浪江側坑口をロング(引いて)で撮影するのを忘れていた。県道を歩き浪江側坑口に向かう。

 

 

 

 

 

隧道の外側はどんな岩石で出来ているのだろうか。

 

注視するとこの様な岩が多い事に気が付いた。

 

一見石垣に見えるが自然の岩だ。横に長い長方形の岩が積み重なっている。

 

見た目まるっきり強度が無いようだが、森林鉄道の他の場所と比べて落石がかなり少ない。

 

天然の石垣なのだろうか。

 

 

 

 

 

流石は我が愛機オリンパスのAF。この様な景色を撮影するとどうしても手前の金網にフォーカスが合ってしまう。

 

これでは駄目だ。

 

仕方が無いので手前の金網からもう一度内部にアクセスする。

 

坑口を撮るだけ。ちょっと失礼。

 

 

 

 

 

 

 

浪江側の坑口もこうやって撮影すると充分に恐ろしい。葛尾側に比べると幾分頑丈そうに見える。

 

隧道を抜け、すぐに川縁に沿うように急カーブの線形を取らざるを得なかった浪江側の坑口は葛尾側のように石垣で保護される事も無く、自然の強度に頼って形作られている。よくぞこの形を保っていられるものだ。

 

しかし、こちら側はさしあたって崩壊の危険はないだ…ろ…う。

 

いや、なんだ…気のせいではない。坑口の上に…お地蔵様?ではないな。

 

まさか。

 

 

 

 

 

 

素掘りの隧道に扁額を設えるとは予想外。粋な計らいだ。

 

五角形の石作りの扁額が鎮座している。

 

あまりに周囲の岩と一体化しているので分からなかった。

 

森林鉄道の隧道に扁額があるとは思いもよらなかっただけに驚きの発見だ。

 

しかも文字が書いてあり、何とかすれば読み取れそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

画像処理してこの程度とは情けない…

 

長年の風雨に晒された扁額は辛うじて文字が判別できる程度だった。

 

左から読んで「大 笹 隧 道」。お読みいただけるだろうか。

 

これまでずっと「第五号隧道」が正式名称だと思っていた。これからは「おおざさずいどう」と呼ばせて頂く。(おおささ、おおのささ かもしれないが)

 

現存する1号:神鳴 2号:一の宮も森林鉄道現役当時からこの様に名称があったのだろうか。

今は無き3号:北沢 4号隧道もそうだったのだろうか。疑問は尽きない。

 

 

 

 

森林鉄道は小規模なものならば明治20年頃から存在していた。その中にあって浪江森林鉄道は全国でもごく初期に開通した森林鉄道である。

 

高瀬川に沿って軌道を敷設し、豊富な森林資源と葛尾村産の上質な炭を長きにわたり運び続けた。

大正時代にはガソリン機関車を導入するその先進性も全国に誇るべきものだ。

 

昭和34年の廃止後ほぼ半世紀。もはや森林鉄道が存在した事を知らない人も多い。

 

だからこそ当時の姿のまま時間の流れに取り残されたこの大笹隧道を皆さんに伝えたいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

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