このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
鳳城(大昭)炭鉱専用軌道 本線 4
〜大昭炭鉱第二坑〜
軌道跡を遡り、大昭炭鉱第二坑を目指す。
その途中で右手に小高い山が見えてきた。
この山にはかつて万冶炭鉱(昭和14年〜昭和36年)が稼働していた。
画像左側の新しい建物は「いわき南警察署山田派出所」である。
交番の向かい側に建つ新常磐交通のバス停の名前は「万冶」
炭鉱が健在だった頃からこの付近の通り名として「万冶」が使われてきたのだろう。
バス停から東側を見ると、小高い場所に住宅が固まって建っている。
この一帯はかつて万冶炭鉱の鉱員住宅が建っていた所だ。
「万冶」バス停の次は「安行」バス停があった。
万冶炭鉱鉱員住宅の先には安行炭鉱(昭和10年〜昭和28年頃稼働)があったと言う。
このバス停も炭鉱の名前から取られたのだろうか。
県道に山田川が寄り添ってきた。
地図によるとこのあたりは「山の神」という炭鉱にとって大変ありがたい地名になっている。
道路は依然快適な2車線だが、明らかに勾配がきつくなってきた。
ここから上遠野に向け上り坂が続いて行く。
「藤の木橋」と言う橋の手前で山を見る。
植田駅からかれこれ6km位は進んだだろうか。
阿武隈の山々が回りに見える。
しかし、私の目は何故か手前の山に向けられた。
手前の山の稜線に注目して頂きたい。
明らかに自然の物とは違う一直線の稜線がお分かり頂けよう。
これは恐らく大昭炭鉱第二坑(鳳城炭鉱)のズリ山の跡だろう。
法令によりズリ山の仰角(角度)は決められていたと言う。炭鉱のズリ山はその為、たいそう細く高くなったと言う。
この稜線をズリ(灰炭)を積んだトロッコが登っていったのだろう。
藤の木橋を過ぎるといよいよ県道20号線が本性を現した。画像からも勾配がかなり急なのがお分かり頂けようか。
いかに空車とはいえこの急坂をガソリンカーや馬車が登っていけるとは信じ難い。
本来の終点である上遠野まではまだ4k程あるのだ。機関車が重連で引き上げたのだろうか、それとも人力か何かのサポートがあったのだろうか。
大昭炭鉱第二坑(鳳城炭鉱)支線への分岐は画像中央にみえる黄色い看板の先で分岐していたものと考えられる。
そもそも「鳳城」(ほうじょう)などと言う地名は無い。
戦前に鳳城炭鉱は経営不振に陥り、あえなく大昭炭鉱に吸収されてしまったのだ。
それでも今でもなお、この地域を「鳳城」と呼ぶのは炭鉱の名前としては余りにも優雅な響きを
持つからだろうか。
「鳳」は一文字で「おおとり」と読む。「鳳」は不死鳥(フェニックス)の意味も持つ。
炭鉱の限りない発展と決して倒れない強さを願って炭鉱会社の屋号にしたのだろうか。
「鳳」は死なない。これからもずっと生き続ける。
県道20号から密かに左折して鳳城地内に進む小道。
昭和45(1970)年に架けられた車道橋の脇にひっそりと大昭炭鉱第2坑支線の軌道の橋台(橋脚)が残っていた。
コンクリート製の堅牢な作りだ。
この鳳城(大昭)炭鉱専用軌道における(恐らく)唯一の遺構だ。
軌道橋は川の両岸に橋台を設け、橋脚を+ひとつ作り川を跨いでいた。
画像は県道側の橋台である。
枯れ草や雑草に埋もれるようにしてコンクリートの橋台が顔を覗かせている。
これは橋脚。
長年の風雨により橋脚の下部はかなり削られてしまっているが、早晩に倒壊するような事は無いだろう。
橋脚の上面からは鉄筋が2本生えている。ここに橋本体が設置されていたのだろうか。
これは対岸(炭坑側)の橋台。
川の本流から外れている為か、この橋台は現役当時の様子をよく残している。
炭鉱を目前にして軌道は強烈な登りに転じる。
石炭を植田駅に搬出する分には勢いがついて良いのだろうが、これは中々難儀な坂である。
軌道跡は砂利道に変わるが、最後にもう一発上り坂が残っていた。
この砂利道を通ると県道20号線に抜けられるようだ。
鳳城地区の住民の方の車が3台ほど通り過ぎて行った。
目指すべき炭鉱は砂利道を直進した所だ。
この鬱蒼とした一帯がかつての大昭炭鉱第二坑(鳳城炭鉱)が存在した所だ。
閉山後、炭鉱があった土地は利用される事も無く、元の野に帰ろうとしている。
「鳳城」の名前だけを残して炭鉱は記憶の彼方に消え去った。
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |