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江名鉄道 特別編〜江名鉄道の野望〜
①:小名浜地区と鉄道
小名浜に文明の利器たる鉄道が通じたのは、驚くべきことに明治20年!(1887年)今から120年前の事である。この鉄道の開設がいかに早いかは
常磐線 水戸〜平(現いわき)間開通 明治30年2月(1897年)
浪江森林鉄道
浪江〜
原町森林鉄道 馬場〜バッカメキ間 開設 明治41年(1908年)
という他の鉄道の開設時期を見れば一目瞭然であろう。
一番初めに小名浜に鉄道を開通させたのは「磐城炭鉱軌道」(小野田炭鉱〜小名浜港)である。磐城炭鉱鉄道は上湯
で鉄道で運び、桟橋から直接船に積み込んで輸送したと言う。
明治30年の湯本駅開業に伴い、磐城炭鉱鉄道は湯本〜小名浜間を旅客輸送を目的とする鉄道に形態をシフトさせた。正式には明治38年(1905年)に「一般旅客用馬車軌道」として再出発した。
次いで明治40年(1907年)、今度は常磐線
地図で見る限りでは炭鉱鉄道
磐城炭鉱鉄道は昭和19年まで運行された。磐城海岸軌道は昭和16年、小名浜臨海鉄道(泉〜小名浜)の開通により役目を終えた。小名浜臨海鉄道の開通に伴い海岸軌道の小名浜〜江名間も同時に廃止され、江名や中之作地区の住民はいったん鉄道による交通が無くなってしまう事態になる。
戦後、再び小名浜〜江名間に鉄道を復活させる計画が持ち上がり、小名浜臨海鉄道系列の別会社として江名鉄道が設立され、昭和28年(1953年)、小名浜(正式には
②:江名鉄道の車両
江名鉄道は、自前の車両を保有しなかった。運行業務は全て小名浜臨海鉄道に委託していた。
当時としては不思議な経営形態である。
小名浜臨海鉄道
戦後、小名浜臨港鉄道は日本水素のあおりを受けたのかGHQより「制限会社」(業務の拡張を禁止する命令を受けた会社)に指定されてしまった。
制限会社のままでは小名浜以遠の路線延長が出来なくなってしまう…そこで小名浜臨港鉄道は新たに「磐南臨海鉄道」(後に江名鉄道に改称)を設立し、小名浜〜江名間の鉄道を敷設、運営することにした。
江名鉄道は設立当初は自前の車両で運行する予定だったのだが、建設費の高騰などにより車両の購入の目処もつかない状況に陥り、小名浜臨港鉄道に業務委託する形式で運行する事になった。
昭和35年当時の小名浜臨海鉄道の在籍車両は
汽関車 五輌
客車 二輌
ジーゼルカー 三輌
貨車 二二輌
と記されている。
これがそのまま江名鉄道で運行されていた車両と考えても差し支えないと思われる。
上の画像は恐らく「ジーゼルカー」が勢揃いした写真と思われる。このディーゼルカーと客車を必要に応じて使い分けていたと考えられる。
③:江名鉄道の野望と挫折
左の図は昭和31年の
旅客扱い鉄道として、小名浜臨海鉄道と江名鉄道が堂々掲載されている。
江名鉄道の江名から先、赤い線が「豊間」「高久」「飯野」と続き、平駅へと繋がっているのが確認できる。
この江名から平駅を結ぶ線こそが江名鉄道の果たせなかった野望「片浜線」である。
しかし、江名鉄道の野望はついぞ果たされることのないまま、短すぎるその生涯を閉じてしまった。
昭和28年に開通した江名鉄道は、客足こそ良かったようだが、線路維持費がかさんだ事や貨物取扱量の少なさから経営は厳しかった。見込みが甘かった。
「資本金500万円で磐南臨海鉄道を設立したが、建設費の高騰によって六千万円に増資された」…と資料では語られている。江名駅まで開通したところでもはやその先が望めないほどの状況だった。
建築費は当時としてはとんでもない金額(一億六千万円)に膨れ上がってしまった。
「赤字整理の為一千万円に減資」…昭和35年発行の資料にはこの様にも書かれている。当初から赤字基盤の苦しい経営だった。片浜線建設などより鉄道を維持するのが精一杯だった。小名浜臨海鉄道のように安定的な収入(日本水素の貨物取り扱い)の裏付けが足りなかったのが致命的だったと思われる。
本編でも記述したが江名鉄道は昭和40年の台風により、永崎駅付近の路盤が崩壊したことが直接の引き金となって、昭和43年にあまりにもあっけない最期を迎えてしまった。
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