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月山——『奥の細道』を歩く


『奥の細道』
月山
八日、月山にのぼる。木綿しめ身に引かけ、宝冠に頭を包、強力と云ものに道びかれて
雲霧山気の中に氷雪を踏てのぼる事八里、更に日月行道の雲関に入かとあやしまれ、
息絶身こゞえて、頂上に至れば、日没て月顕る。笹を鋪、篠を枕として、臥て明るを待。
日出て雲消れば 湯殿に下る。

谷の傍に鍛治小屋と云有。此国の鍛治、霊水を撰て爰に潔斎して劔を打、終月
山と銘を切て世に賞せらる。彼龍泉に剣を淬とかや。干将莫耶のむかしをした
ふ。道に堪能の執あさからぬ事しられたり。岩に腰かけてしばしやすらふほど
三尺ばかりなる 桜のつぼみ半ばひらけるあり。ふり積雪の下に埋て、春を忘れ
ぬ遅ざくらの花の心わりなし。炎天の梅花爰にかほるがごとし。行尊僧正の哥
の哀も爰に思ひ出て、猶まさりて覚ゆ。惣而此山中の微細、行者の法式として
他言する事を禁ず。仍て筆をとゞめて記さず。坊に帰れば、阿闍利の需に依て、
三山順礼の句々短冊に書。

 涼しさやほの三か月の羽黒山

 雲の峯幾つ崩て月の山

 語られぬ湯殿にぬらす袂かな

 湯殿山銭ふむ道の泪かな 曾良
                                 

芭蕉の月山登山復元された「月山頂上角兵衛小屋」
 曽良の『旅日記』によると、6月5日(現在の暦で7月21日)は昼飯を断食、精進潔斎して翌日の月山登山に備えた。6日(『奥の細道』では八日となっている)月山を目指し、七合目までは馬を用いたが、そこからは強力に導かれて歩いた。弥陀ヶ原(現在のバスの終点、8合目)で昼食、月山頂上に「申ノ上尅」に到着、御室を拝した後、角兵衛小屋に泊まった、と曽良は記している。
 その角兵衛小屋を推定復元したものが、平成元年羽黒山を訪れた時、歴史博物館の前に展示されていた。芭蕉はこの小屋での一夜を「笹を鋪、篠を枕として、臥て明るを待」と『奥の細道』に記した。
角兵衛小屋
(写真はモノクロ)。

弥陀ヶ原月山弥陀ヶ原  月山に登ったのは平成元年(1989)、『奥の細道』300年にあたる年だった。八合目でバスを降りると、そこが弥陀ヶ原、芭蕉が羽黒山から馬と徒歩で一合目から登って来て、昼食にした所だ(写真はモノクロ)。
池塘  弥陀ヶ原には「いろは48沼」と呼ばれるたくさんの池塘があって、秋の澄んだ空や雲を映していた(写真はモノクロ)。池塘
月山山頂月山山頂  頂上までは、弥陀ヶ原から2時間ほどのコース。草紅葉の道を踏みしめ、紅葉した木々を眺めながら登る。 
仏生池  オモワシ山(1821)の手前、9合目に仏生池があり小屋も建っている。池のほとりにはリンドウが咲き残っていた。仏生池
月山秋色月山秋色  行者返し近くから頂上を望む。ここからモックラ坂の難所を経て山頂までは1kmほど。
月山秋色  同じく行者返し地点から下の、弥陀ヶ原方面を眺めたもの。秋色
山頂月山山頂  アスピーテ火山の月山(1979m)頂上には、月読命を祀る月山神社本宮が建っている。夏場は花々に彩られるというお花畑も、すっかり草紅葉になっていた。
芭蕉句碑  山頂の句碑には、「雲の峯幾つ崩て月の山」の句が、自然石に銅版ではめ込まれている。芭蕉句碑
展望山頂からの展望  山頂から北西方面の眺め、晴れた日には朝日、飯豊連峰、鳥海山から日本海まで見えるというが、この日は次々と雲が湧いて、遠望は利かなかった。
月山山頂  月山から湯殿山を目指して下りながら、越えて来た月山のどっしりした山容を、何度もふり返った。これは牛首付近からの眺め。山頂
湯殿山湯殿山  牛首から金姥を過ぎると、湯殿山(1504m)が正面に見えてくる。9月下旬のこの日、ほとんど登山者に遇わなかった。
鉄バシゴ  装束場を過ぎると急坂の月光坂があり、クサリ場や鉄バシゴの難所が待っている。これは金月光の鉄バシゴ。鉄バシゴ
湯殿山神社湯殿山神社  中央に見えるのが、「湯殿山本宮」と彫られた巨大な石碑。この下に社務所や休憩所、そして「御神体」がある。休憩所で履物を脱ぎ裸足になって、御神体の霊岩に詣でる(撮影禁止)。赤茶けた巨岩の上からこんこんと湯が湧き、岩全体に流れ落ちていて、それを裸足で踏むのである。これはなんとも言えない経験だった。芭蕉が「語られぬ」と詠んだ背景の秘密(女体信仰が指摘されている)に触れる思いがした。出羽三山詣でには、月山で一度死んだ身を湯殿山でよみがえらせる、という信仰が秘められていたという。
芭蕉・曽良の句碑  湯殿山神社の近くに、「語られぬ湯殿にぬらす袂かな 芭蕉翁」(右)、「湯殿山銭ふむ道の泪かな 曾良」(左)の句碑がある。曽良の句の「銭踏む道」の背景には、湯殿では取り落とした物を拾ってはいけないというタブーがあり、銭も散らばっていたことを示している。芭蕉・曽良句碑

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