このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

尾花沢『奥の細道』を歩く


『奥の細道』
尾花沢
 尾花澤にて清風と云者を尋ぬ。かれハ富るものなれども、志いやしからず。都
にも折々かよひて、さすがに旅の情をも知たれバ、日比とゞめて長途のいたハり、
さまぐにもてなし侍る。

 涼しさを我宿にしてねまる也

 這出よかひやが下のひきの聲

 まゆはきを俤にして紅粉の花

 蠶飼する人ハ古代のすがた哉 曾良
                   

紅花資料館紅花資料館  芭蕉は尾花沢の紅花商人鈴木清風宅で、「まゆはきを俤(おもかげ)にして紅粉(べに)の花」の句を詠んでいる。現在の暦での7月中旬だったから、山寺(立石寺)への往復にも、おそらく紅花は目にしたことだろう。その紅花を見たくて、「べに花の里」河北町を訪れた。
 当地の豪商堀米家の広大な敷地、建物から成るこの資料館は、「紅花関係の資料の他、江戸時代から明治にかけて京都・大阪との紅花交易で栄えた当時の紅花文化を収蔵する全国唯一の資料館」という。
紅花の咲く農家  資料館内にも紅花は栽培されていたが、資料館の裏手に出ると農家の庭先にも咲いていたし、畑にも咲いていた。初めて目にする紅花は、朝からの雨に濡れて、朱や黄の色が実に鮮やかで美しかった。かつてこの花から口紅を作り、糸を染めた。この地方の紅花(最上紅花)は最高の品質を誇り、花は圧縮して出荷するが、「紅一匁金一匁」といわれるほどだったという。「紅花大尽」の生まれる所以である。紅花
紅花の畑紅花畑  資料館受付の女性の話だと、このあたりの紅花の開花はまだの所が多いという。なるほど資料館の川沿いには、まだ2、3分咲きの畑が多かったが、このように見事な花の見られる畑もあった。帰途のタクシーには、べに花温泉の方に回ってもらったが、そちらの畑も開花は2,3分咲き、といったところだった。
尾花沢の清風宅跡  尾花沢の奥の銀山温泉に泊まって、翌日尾花沢に出かけたが、この日も雨。台風7号の影響とかで、時々激しくなった。芭蕉が山刀伐(なたぎり)峠の難所を越えて出羽領に入り、尾花沢の鈴木清風宅に着いたのは5月17日(現在の7月3日)、当時は隣が高札場だったという。清風宅跡の木の標柱が立っていた。隣の説明板があるが、かすれて読めない文字が多かった。清風宅跡
養泉寺山門養泉寺山門  鈴木清風宅から翌日この寺に移ったことを曽良が記している(『曽良旅日記』)。鈴木清風宅からは500メートルほど。
養泉寺本堂  「芭蕉と曽良は、清風の深い配慮で修築直後で木の香も未だ新しく環境も静寂なこの寺院に寛ぎ……」と、寺の案内板にあった。芭蕉が泊まった元禄の頃は、格式高く栄えていたが、明治維新の変革と火難で今日に至った、ともある。芭蕉は清風宅に3泊、この寺には7泊している。清風とは江戸で俳諧の座を共にしたこともあり、『奥の細道』の旅で須賀川以来はじめて旧知に出会った寛ぎが、「涼しさを我宿にして……」にも表れ、この長逗留にもうかがえる。養泉寺
凉し塚涼し塚  養泉寺境内に、芭蕉の「涼しさを我宿にして……」の句碑と、壺中居士の碑を納めた小さな覆堂があり、それを「涼し塚」と称している。
芭蕉句碑  尾花沢で詠んだ句、「涼しさを我宿にしてねまるなり」のくが、丸みを帯びた自然石に刻まれ、側面・裏面には漢文で芭蕉の事跡が記されている。建立は宝暦12年(1762)。「ねまる」の解釈にも諸説があるが、越後方言にも確か「座る」意味の「ねまる」があったはずで、その意に解したい。
 この句碑に並んで「壺中居士」の碑がある。壺中は林崎の素封家坂部氏、立石寺の「せみ塚」を建てた人。
芭蕉句碑
連句碑芭蕉・清風連句碑  「凉し塚」の裏手にこの碑がある。芭蕉が尾花沢で巻いた歌仙「すゞしさを」の巻の表四句が、加藤楸邨の筆で刻まれている。昭和63年7月の建立。
清風・芭蕉歴史資料館  旧丸屋・鈴木家住宅の店舗と母屋が、この資料館として保存・利用されている。間口より奥行きの深い館内(撮影禁止)には、芭蕉と清風についてのもの、清風の生涯(吉原の花魁高尾太夫との伝説を紹介したコーナーもある)や俳諧についてのもの、尾花沢の民俗資料などが展示してある。敷地内に大きな芭蕉像も立っている。芭蕉清風資料館

トップへ

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください