このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
『奥の細道』 |
大石田 |
最上川のらんと、大石田と云所に日和を待。爰に古き誹諧の種こぼれて、忘れぬ花のむ かしをしたひ、芦角一声の心をやはらげ、此道にさぐりあしゝて、新古ふた道にふみま よふといへども、みちしるべする人しなければとわりなき一巻残しぬ。このたびの風流 爰に至れり。 |
向川寺山門 芭蕉が尾花沢を立ち、立石寺を回って大石田に着いたのは、今の暦で7月14日、ここの高野一栄宅に草鞋を脱いだ。曽良の日記によると、29日(15日)に一栄ともう一人の俳人を誘って、「翁」は黒龍(向川寺)に参詣した、とある。冬に訪れた時、無住のこの寺は深い雪の中で、道もなかった。 | ![]() |
![]() | 向川寺 600年前の開山当時は背後の山地一帯に堂塔伽藍の立ち並ぶ一大禅寺だったという。度々の火災で、その都度伽藍配置が変わった。現在残るこの建物は僧堂だったらしい。境内には樹齢600年という桂の巨木(県指定の天然記念物)、銀杏の大木(町指定天然記念物)が枝を伸ばしている。 齋藤茂吉の弟子で、大石田時代の茂吉の世話をした板垣家子夫の歌碑などもある。さらにこの右手に、スリランカから仏舎利を勧請した新しい塔が建っている。 |
最上川 この日雨は断続的強く降ったり、しばらく止んだりしていたが、連日の雨で最上川は茶色くにごり、水位も上がっていた。これは、向川寺の側から上流の大石田町を見たもの。 | ![]() |
![]() | 高野一栄宅跡 芭蕉はこの高野一栄宅に3泊し、歌仙を巻き(「みちしるべする人しなければとわりなき一巻残しぬ」 )、向川寺に参り、近くを散策した。「風流の始めや奥の田植え歌」と、対をなすと言われる「このたびの風流爰に至れり」に、芭蕉の満足げな感慨も見て取れる。 高野一栄は船問屋の主、川岸近くのこの一栄宅から川面も見え(現在は高い堤防が築かれている)、川風も吹き通ったものと思われる。 |
芭蕉翁真蹟歌仙碑 高野一栄宅で、一栄、高桑川水、芭蕉、曽良の四吟歌仙「さみだれを」の碑が、高野一栄宅跡近くに建てられいる(平成元年建立)。発句は「さみだれをあつめてすゞしもがみ川 芭蕉」と、『奥の細道』の「あつめて早し」の初形が刻まれている。『奥の細道』12の歌仙で、芭蕉真筆の残るのはこの歌仙だけという。 | ![]() |
![]() | 大橋 濁流が橋脚を洗っていた。水位も冬来た時よりずいぶん上がって、対岸のゲートボール場なども冠水していた。 |
川舟役所跡 大橋の脇にかつての幕府舟役所が復元されている。酒田への舟運で栄えた大石田は、元禄の盛時には300艘もの舟の発着があった、といわれる。 | ![]() |
![]() | 大石田河岸 舟役所近くにこの説明板があったが、増水していて近寄れず、遠くからは「大石田河岸」のタイトルの文字しか読めなかった。このあたりが当時の船着場で、大小の舟が出入りし、荷役で賑わったものと思われる。現在の観光川下りの発着所も近いが、運行していなかった。 |
西方寺 芭蕉の滞在した一栄宅から近いこの寺に、古い「さみだれを……」の句碑がある。建てたのは土地の俳人土屋只狂で、明和の頃(1760年代)に芭蕉真筆を模して、「さみだれを」歌仙の発句を碑としたものという。 | ![]() |
![]() | 芭蕉句碑 損傷の進んだ原碑は、西方寺奥庭の覆堂に保存、代碑が境内に置かれている。中央が芭蕉「さみだれを……」の句碑、右は土屋只狂の句碑。この冬訪れた時は、雪が深くてこの屋根が見えるだけだった。 |
乗船寺 釈迦涅槃像で有名なこの寺も、前に訪れた時は深い雪の中だったが、7月中旬の寺は紫陽花の花盛りだった。 | ![]() |
![]() | 釈迦涅槃像 乗船寺山門を入ってすぐのお堂に安置してある。京仏師の作と言われ、元禄7年(1694)に寄進されたものというから、芭蕉の旅から間もなくのこと。全国的にも珍しい2メートルもの大きさで、山形の寺まで運ばれるはずが、最上川を上って大石田に着いたところ、どうしても動かなくなってしまった。そこで、ここが有縁の地、ということになり、乗船寺に納まることになった、という伝説が残っている。 |
高桑川水の墓 芭蕉の「さみだれ」歌仙に一座した高桑川水の墓が、乗船寺墓地にある。当時庄屋だった川水(俳号)は、宝永6年、67歳で没した。丸みを帯びた自然石に、高桑川水夫妻の法名が刻まれている。 | ![]() |
![]() | 齋藤茂吉の墓 茂吉の墓は青山墓地にあり、郷里上山市宝泉寺にも分骨した墓がある。第3の墓がこの乗船寺にできたのは、茂吉の弟子で大石田時代の茂吉を献身的に世話をした板垣家子夫の熱意による。 |
茂吉歌碑 大石田時代の絶唱といわれる、「最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも」(『白き山』)の歌碑が、本堂裏庭にある。昭和48年2月の建立。冬訪れた時には、上部がわずかに雪の上に顔を出したいるだけだった。 | ![]() |
![]() | 子規句碑 正岡子規は、明治26年7月から8月にかけて、一ヶ月ほどの東北の旅をした(「はて知らずの記」)。大石田で船便を待って(鉄道は開通以前)一泊した。その時の作、「ずんずんと夏を流すや最上川」が刻まれている。左上に肖像画が刻まれている(かなり薄れているが)のが珍しい。茂吉歌碑よりはやや小さめで、茂吉歌碑より少し前の、昭和42年8月の建立。 |
聴禽書屋 茂吉が終戦直後の2年間を過ごした建物が、大石田町によって保存されている。冬訪ねた時は雪が深くて、庭の方には回れなかった。「聴禽書屋」は茂吉の命名。かつてはもっと木々も多く、小鳥の声が茂吉の孤独を慰めたという。 | ![]() |
![]() | 茂吉歌碑 「聴禽書屋」の庭の歌碑。「蛍火を一つ見いでて目守りしが いざ帰りなむ老の臥所に」と、ここでの作が刻まれている。 |
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